■特訓―3■
頭を激しく揺さぶられていた。
最初は夢の中の出来事だと思っていた。顔の見えない不良にカツアゲされている。そいつはヲタの髪の毛をつかみ、なにかをわめいているが聞き取れない。ヲタは泣きながら許しを請うていた。
「――早よ、起きるんや。もう朝やで」
だるまの声だとわかったのは、しばらく経ってからだった。
自分が家の布団で寝ていないことに気づき、焦ったような気分で目が覚めた。腕がしばられたように動かなかったのは、寝袋に入っているからだった。脚も同様だった。
目を開けると、だるまの顔があった。
「起きたか」
「――んだよ……朝っぱらから、そのデカい面って……」
見回すと空はまだ少し暗く、やや湿っぽい空気に包まれている。
「さっさと起きて、まずはひとっ走り。階段下りるで」
「まだ脚、痛てぇし、ちょっと待てよ……」
「十分で準備するんやで。暖かいココアも入れてあるから、それ飲んで元気つけろや」
だるまはヲタの頭の近くにマグカップを置いた。湯気が立っていて、ほんのりと甘い匂いが漂ってくる。近くにはキャンプ用のガスバーナーコンロがあり、その上にはステンレス鋼の鍋が置かれていた。
「飲んだら準備体操や」だるまは言い残すと、拝殿の廊下を向こうへと歩いていった。
ヲタはもぞもぞと寝袋から上半身だけ出して、まだぼんやりとした頭で境内を眺めた。寝袋は防寒仕様だったがそれでも体は冷えていた。マグカップを手にすると、それはとても暖かく、顔を撫でる湯気が心地よかった。
ココアを一口飲むと、ヲタはバッグを手元に引き寄せ、携帯電話を取り出した。
電源を入れようとボタンに指をかける。ここにいることはだまる以外に知らせていないから、たとえばバンジーから居場所を訊ねるメールや、ムクチからの無言の留守電が入っているかもしれない。
だが、ヲタはボタンにかけた指に、力を込められなかった。
それを押したら、元に戻ってしまう気がした。
暗いままの小さなディスプレイに映りこんだ、寝起きのだらしない自分と目が合った。
電源ボタンから指を離し、しばらく携帯電話を見つめる。
少し考えてから、やがてそれをバッグの中に戻した。
そしてココアを飲み干し、拝殿の正面で柔軟体操をしているだるまの元へ向かった。
体をほぐしたあとは、階段を下りた。昨日酷使した筋肉がまたも抵抗したが、ヲタはそれを口に出さず、黙々とこなした。痛みを言葉にすると、余計に苦しくなるような気がした。麓の公園で洗顔や歯磨きをしてから町まで歩き、早朝から営業しているスーパーマーケットで一日分の食品を買い求めた。馬路須加女学園とは逆方向へ向かったため、だれかと出くわす心配はなかった。
往復でたっぷり一時間半はかかった。
神社に戻ったころにはすっかり体は目覚め、なんなら今すぐケンカができるくらいだった。参拝に来る人もぽつぽついて、二人は好奇な目で見られることもあったが、次第に気にならなくなった。元ブルーローズのメンバーには、今日は会わなかった。すれちがったのだろう。
朝食のおにぎりを食べたあと、二人はまた階段の上り下りをした。四回往復したあとは、昨日の午後におこなった筋肉を鍛えるトレーニングを始めた。たった一日で筋肉が鍛えられるわけもなく、ヲタはまたもや自分の基礎体力のなさを思い知らされた。腕立て伏せをしたときは、腕の付け根の筋肉が痛み出した。腹筋に力を入れると痛いというよりは硬さを意識させられた。それでもすべてのトレーニングで、ヲタは昨日より多くの回数をこなせた。微々たる変化だが嬉しかった。
「やればできるやないか。今までやろうとしてなかっただけや」
だるまの辛らつな言葉も素直に聞けた。
遅めの昼食を摂ったあとは、またもや階段の上り下りをした。昨日ほどではなかったが、時間が経つにつれ、キツさは増した。一回あたりの時間はだんだんと延び、夕方には朝の倍の時間が必要になった。
だが、泣き言は吐かなかった。
息が切れ、苦しくなったとき、ヲタはチームホルモンのみんなのこと、そしてプリクラのことを思い出した。自分の勝手な気持ちでチームを解散してしまい、みんなに迷惑をかけてしまったことは後悔している。プリクラには、みんなを引き取ってくれたことに感謝さえしている。こんなヘタレなリーダーより、プリクラのようなしっかりとしたリーダーのほうがみんなのためになるだろう。けれども、チームホルモンを解散したことが、あの時点でベストの選択だったのかはわからない。それは今後の、自分の努力しだいだろう、とヲタは思う。事の良し悪しはずっとあとになってからでないとわからないものだ。
だるまはヲタのペースが落ちると発破をかけた。「やらんよりはマシやけど、そんなにゆっくりやったら日が暮れてまうで。さっさとしぃや」
「――っせぇなぁ。やってんだからいちいち言うなっての……」
そう返すヲタは、苦痛に歪みながらも笑顔を作った。
午後の筋トレ一時間と、ノルマの階段十往復が終わったのは、夕日が街の稜線に沈みかけていたころだった。鳥居の下で寝転ぶと、汗まみれになったチームホルモンのジャージから汗の臭いが漂ってきた。しかしそれは不快ではなかった。今日一日、自分ががんばった証だった。
体は無論、何度も悲鳴を上げた。昨日同様、あちこちの筋肉がぱんぱんに張っている。特に脚の疲労はひどかった。
「今日は泣き言、口にせんかったな」だるまが意地悪そうに言ってきた。
「言ったって仕方ねぇしな」
「そうやな。弟子の成長は師の喜びや」
「弟子になった覚えはねえ」
そう言ったとき、ヲタの腹が情けない音を立てて空腹を知らせた。
だるまは豪快に笑った。「なんや、ヘタレはヘタレらしい音を立てるんやな」
「うるせえなぁ。いいから、飯、食おうぜ」
そして二人は夕食の支度をした。今日はだるまが、ガスバーナーコンロでコーンスープを作ってくれた。他には買い置きのおにぎりだけだが、二人はとりとめもない話をしながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。
そのあと、銭湯に行くとき、ヲタはあることに気づいた。「あっ。損した」
「なんや、損て」
「今日、もう十回往復しただろ。今から風呂行くならもう一回往復することになるよな」鳥居の下から暗い階段を見下ろして、ヲタは言った。
「なんや、そんなことか。そしたら一回余分に鍛えられるんやから、損やなくて得やないか」
「明日のノルマから一回引くぞ」
だるまは昨日、途中でやめたら翌日にその分を持ち込むと言っていたのだから、余計にやったのなら差し引いてくれないと理屈が合わない。
「まあ、それもええけど……ホンマにええんか?」
「いいに決まって……」ヲタは言葉を飲み込んだ。昨日はあれほどキツかった階段トレーニングを、自分はもうこなしているのだ。それも、これから一回余計にしようとしている。「――わかったよ。いいよ、引かなくて」
「それでこそ、我が弟子や」だるまは階段を下りはじめた。
「だから弟子じゃねえっつーの」
ヲタはだるまに続いた。
【つづく】