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 ■決戦―15■


 階上からいくつかの足音が聞こえてきた。
 バンジーには、その中に大島優子がいることがすぐにわかった。バンジーだけではなく、この馬路須加女学園の生徒は、その独特の足音――力強く床を踏みしめ、そして足をあげるときに少しだけ靴底を引き摺る――が聞こえると、一瞬で気を引き締めた。それはマジ女生徒特有の習性と化している。それができない者は必ず痛い目にあわされるからだ。
 このときも、バンジーだけでなく、その場にいたウナギ、アキチャ、ムクチ――そして、五十人ばかりの生徒たちが反射的に壁側に移動した。
 「もう優子さんが降りてきたのか……」アキチャがささやいた。
 「にしても……早すぎねえか。てっぺんってのは、もっとこう……最後の最後までどっしりかまえてるもんなんじゃねえのか?」ウナギが返した。
 「けど――」バンジーは言った。「あの足音は優子さんにちがいない……」
 ムクチが激しく何度も頷いた。
 足音が大きくなり、やがて大島優子が階段の踊り場に現れた。背後には、いつものようにサド、ブラック、シブヤ、トリゴヤ、そしてアンダーガールズの五人を従えている。
 その瞬間、バンジーだけでなく、そこにいたすべての生徒たちが直立した。
 大島優子はいつもの大島優子ではなかった。
 病気で入院していた大島優子の顔色は良くなく、少しやつれている。しかし、その目は憔悴どころか、これまでに見たことのない輝きを宿し、殺気が漲っていた。こんな大島優子の瞳を、バンジーは見たことがなかった。
 だが、バンジーは恐怖を感じなかった。大島優子のあの目の理由は、これから始まる《戦争》への期待だとわかったからだ。ひさしぶりの本格的な実戦に、大島優子の心は浮かれているにちがいない。
 「二階にいるやつらはこれで全部か?」大島優子はバンジーに話しかけてきた。
 「い、いえ……まだ、向こうの階段のあたりにもいるはずです」
 大島優子と直接話すのは、これが最初かもしれないと思いながら、バンジーは説明した。
 「そうか。そしたら、そいつらにも伝えておけ――これまでの作戦は中止になった。以後の指揮はラッパッパが執る――とな。そして、いまから残った連中全員で、アリ女を一階で迎え撃つ。戦える者は一人残らず集合しろ。ケガをしている者はさっさと体育館へ行け。以上だ」
 「わかりました」バンジーは頷いた。
 大島優子は再び、階下へ向かって階段を降りていった。目の前を通過していくラッパッパ軍団のメンバーたちは、バンジーらに一瞥もくれなかった。
 しばらくして、バンジーは踊り場と廊下にいる生徒たちを見た。バンジーが伝えるまでもなく、みんなはぞろぞろとラッパッパのあとに続いた。
 「あたしらも行くぜ」バンジーはウナギとアキチャとムクチに言った。
 「ああ。いよいよだな」アキチャがやや堅い表情になった。
 「でもよ――」ウナギは寂しげな声で、「間に合わなさそうだな、あいつ」
 バンジーの脳裏にヲタの顔が浮かんだ。なぜか笑顔だったことに、バンジーはちょっと腹が立った。「もういい。あいつのことは……」
 チームホルモンの四人は、階段を駆け上がり、大島優子の命令を伝令するため、二階と三階へ散った。


  【つづく】
 ■決戦―14■


 体育館へ通じる扉の外にいたチョウコクと学ランは、出て行くネズミに一瞥をくれただけでなにも言いはしなかった。
 ネズミは出来る限り目立たぬよう、人を避け、校舎内を進んだ。廊下だけでなく、階段や踊り場には、停滞した状況の中、多くの生徒たちがどうしていいのかわからずに徘徊していた。ネズミはフードを被り、だれとも目を合わせないようにうつむき、しずかに階段を登った。鳥の《襲撃》はもう収まっていたが、床のあちこちに転がる鳥の死骸や、抜け落ちた羽根、そして飛び散った血は床だけではなく壁にも付着していて、気味が悪かった。
 二階の図書室にはすぐに着いた。そっと扉を開け、中を窺う。ひと気はなかった。
 ネズミは最小限に開けた扉の隙間から体を入れ、静かに閉めた。鍵はかけなかった。
 珠理奈と初めてキスをした、窓際のテーブルを一瞥して、ネズミは図書室の奥にあるカウンターの向こう側へと回り込んだ。
 そして、ふうっと行きを吐き、座り込んだ。背負っていたリュックをおろし、カウンターの壁に背をもたれた。
 だれにも見られてなかったか。気づかれてなかったか。
 ネズミはしばらくのあいだ、静かに息をした。
 図書室は、階下でこれから祭りが起きるとは思えないくらい静まり返っている。
 誰もいない――確信したネズミはふたたび大きく息を吐いた。
 もうじきですべてが終わる――いや、始まる。
 ここまでは、ほぼ順調に推移している。あとは、アリ女の連中とどう交渉し、いかに《力》を身につけるか……だ。
 詰めを誤ってはいけない。
 しくじるなよ、ネズミ……。
 ネズミはリュックから、スタンガンを出して電源を入れた。スイッチを押すと、先端の金属の部分から八十万ボルトの放電光がバチッと音を立てた。
 今度はしくじらない。一瞬でも身の危険を感じたら、その瞬間にアリ女の連中に向ける――いや、実際に使ってみせる。この前は余裕を見せすぎただけだ。今回はもうちがう。
 ネズミはカウンターの壁と、自分のお尻の間にスタンガンを置いた。そして、さっと背後に腕を回し、スタンガンをつかみ、それを相手がいると想定した空間にすばやく向け、スイッチを入れた。
 バチンッ。
 相手の身長にもよるが、ネズミが想定した場所は、標的の股間にあたる部分だった。
 バチンッ。
 何度か繰り返すうちに、それらの一連の動作がスムーズにできるようになってきた。
 バチンッ。
 もちろん、使わないに越したことはない。
 バチンッ。
 このスタンガンは、いわば保険のようなものだ。
 バチンッ。
 だが、なんだか楽しくなってきて、何事もなくても使いたくなってきた。
 バチンッ。
 ネズミは笑みを浮かべ、そして待った。


  【つづく】
 ■決戦―13■



 全力疾走で生徒会室から戻ったアニメの、息も絶え絶えの報告を受け、サドは吹奏楽部部室内を大股で歩き、ソファに座る大島優子の元へ急いだ。
 生徒会そのものが壊滅し、機能を停止したとなると、作戦を根本から考え直さなくてはならなくなる。しかし敵はもう、すぐ近くまで来ているのだ。新しい作戦を立て、部隊を再編成し、そして備える。そんなことが短時間で可能だろうか……。
 サドの尋常ならざる様子に気づいていないのか、大島優子は平然とした口調で言った。「どうした?」
 「生徒会室が鳥に襲われ、生徒会の役員たちが全員負傷しました。峯岸が、指揮権をラッパッパに委譲する、と……」
 サドは優子を見下ろしながら説明した。
 「なにが指揮権の委譲だ」優子は小さく鼻で笑った。「最初からあいつらにできっこねえと思ってたぜ」
 この戦争の指揮権が生徒会にあることを、サドはもちろん優子に話してあった。サドはそのとき、優子の叱咤を覚悟した。実戦経験のない生徒会に指揮などできるわけがない、と優子に言われることを――。
 しかし優子は「そうか」と一言つぶやいただけで、叱咤はおろか詳しい事情を聞こうともしなかった。サドは不思議に思ったが、そのときは他にやることが山積みになっていて、深く考えなかった。しかし、今になれば優子の態度に納得できる。
 生徒会が崩壊することを、優子は予測していたのだ。
 「鳥の襲撃がなくても、戦闘が始まれば遅かれ早かれ、生徒会はアップアップになって、うちら――ラッパッパに助けを求めに来たはずだ」
 優子が立ち上がろうとしたので、サドは右手を差し出した。優子はそれを握り――温かい手だった――支えにしてすくっと立った。「みんな、行くぞ」
 「え……どこへ、ですか?」シブヤが言った。
 「そろそろあいつらが校内に入ってくるころだ。顔を見たい」
 「そ、それは――」
 吹奏楽部の部室がざわついた。
 「優子さんがわざわざ出向くような相手ではありません。こちらでお待ちを」サドは優子の手を少しだけ強く握った。
 初っ端から優子が斃れてしまっては、残った生徒の士気に関わる。
 いや、優子がアリ女ごときにやられるわけがない。しかし優子は病人だ。なにがどうなるかわからない。アリ女は侮れない。
 「あたしがやられる……と?」
 「そうではありません。しかし、優子さんは……」
 「病人だから……か……?」
 サドは答えなかった。それが答だった。
 「心配するな。顔を見るだけだ。拳は使わねえよ」
 優子が、言い出したら人の意見など聞く耳を持たないことは百も承知だが、それでもサドは言わざるを得なかったし、そして最終的には自分が折れるしかないこともわかっていた。
 優子の進路を阻むように立っていたサドは振り返り、シブヤとブラック、そしてアニメとジャンボを見た。それで意志は通じた。
 「それに、あたしには最強のボディガードがいる……」優子は昭和を見つめ、顎をしゃくった。昭和にはそれだけで通じた。
 昭和は準備室の扉に駆け寄り、そして二十分ほど前に自分が掛けた南京錠を解錠した。
 優子は準備室の扉に向かって声を張った。「トリゴヤ――行くぜ」
 少しすると、開いた扉の向こうから、ふらりとトリゴヤが現れた。
 数十分前まで全裸だったトリゴヤは、今はセーラー服の上に波タカ柄の赤いスカジャンを着ていた。そのスカジャンは、まるでそれ以上着ることを拒まれているかのように、二の腕のあたりまでしか袖を通されていなかった。赤く染まった髪の毛は顔の左半分を隠すように前に垂れ下がり、目の周りにはクマのような影ができている。そのため、トリゴヤの朗らかで柔らかい、いつもの笑顔が失われていた。
 「やっぱり、おまえにはそれがお似合いだな」優子は微笑んで、「トリゴヤ、おまえは敵の頭の中を『視』ろ。そして、可能なら――ぶっ壊せ」
 トリゴヤは優子の言葉を聞いているのかいないのか、まったく反応せず、どこに焦点が合っているのかわからない視線を漂わせながら、幽霊がいるとすればこんな足取りであるかのようにふらふらと歩き出した。
 《いきなりトリゴヤをぶつけるのか……》
 サドは優子の大胆な作戦に感嘆した。優子といえど、やはりできる限り闘いは避けたいのだろう。トリゴヤでフォンチーを潰せればそれで良し、ダメでも失うものはないと考えたにちがいない。
 「よし、行くぜ、サド」優子は不敵な笑みを浮かべ、サドの前を歩き出した。背後に、トリゴヤを従えて――。


  【つづく】
 ■決戦―12■


 校門の外でおこなわれた戦いのすえ、《敵》を振りきって壁を乗り越え、校舎へ向かって走るジャージ姿の生徒を、宮脇咲良は桜の木の上から眺めていた。校庭の隅に咲く、樹齢百年はくだらない、この桜の木は幹も枝も太く、しっかりと咲良の体を支えてくれていた。ジャージ女との距離は二十メートルほど――あと少しで咲良たちの眼下を通り過ぎるだろう。
 横にいる兒玉遥と田島芽瑠が、ほぼ同時に振り返って咲良を見た。
 「どうする?」と芽瑠が小声で訊ねてきた。
 「やっちゃおうよ」と遥。
 なにを言い出すのかと驚き、咲良はアーモンドのようなかたちの大きな瞳を、より大きく開いた。ダチにはよく表情が豊かだと言われる。
 「そうだよ、こっちは三人なんだし」驚いたことに、芽瑠も同意した。
 「短絡的すぎる。あの人、マジ女の人だよ。先輩になるんだよ」
 「だからこそ――」遥はより小さな声で、「いまのうちにちゅぶしに行かないと」
 「ここでそんなことしたら、あっちの連中の手助けをしちゃうことにな――」
 咲良の言葉を聞かず、遥は枝から枝へと跳ねるようにして桜の木から降りていった。
 「私も行くっ」芽瑠も遥に続いた。
 《――ったく、いつもこうなんだからッ》咲良は遥と芽瑠を追った。
 まだまだケンカは強くもうまくないのに気概だけは一人前な遥と、勝ち気で怖いものなしの芽瑠の二人に、咲良はいつも振り回されている。特に遥は同学年の三人の中でいちばん生まれた日が早いというのに、いちばん落ち着きがなく、いちばん手がかかる。
 咲良は動きながら考えた。いま、馬路須加女学園になにが起きているのか。校舎の外からやってきた集団の制服に、咲良は見覚えがあった。亜理絵根女子高のものだ。それがあのジャージ姿の女と戦ったということは、いまマジ女はアリ女にカチコミをされているのだろう。そして自分たちは来月からマジ女に入学するのだから、ケンカがしたいのであればアリ女の連中と闘うべきだ。
 《なのに、あのバカ――》
 こうなったら、見つけられるよりもこちらが先に動き、イニシアチブを取ったほうがいい。うまくすれば最低限の戦闘で事態を収集できるかもしれない。そして、ひたすら謝るのだ。許してくれるかどうかはわからないが。
 だが、先に動きを止めたのは、木の下まであと三メートルの場所まで来ていたジャージ女だった。遥と芽瑠――あるいは咲良の気配を感じたのか、顔を上げるとややツリ目の瞳で桜の木を見た。
 《見つかった――?》
 桜は戦闘は避けられないと覚悟した。先を行く、遥と芽瑠の最初の一撃が成功することだけを祈った。
 桜の木を見上げていたジャージ女が、地面に降り立った遥と芽瑠に気づき、視線を動かした。「だれ――あんたら?」
 「来年からこの学校に入る予定なんでしゅけどね……」遥はじりじりとジャージ女に近づきつつ、「その前に先輩たちに挨拶ちゃちぇてもらおうと思って」
 「申し訳ありません」芽瑠は軽く頭を下げた。
 「は? なに言ってんの……」ジャージ女は半笑いをした。「いまさ、それどころじゃないから。あんたたち、遊びのつもりならさっさと帰ったほうがいいよ」
 「遊びじゃないですよ」
 遥はスカートのポケットから特殊警棒を抜き出し、それを一振りさせた。一瞬で伸長した警棒は30センチほどの長さになった。芽瑠も特殊警棒を出し、遥の動作に続いた。
 「待ちなさいッ」たまらず、咲良は声を上げた。
 しかし遥と芽瑠はその声が聞こえていないのか、あるいは聞こえていて無視をしているのか、こちらを見る気配すらない。だが、ジャージ女はこちらを向いた。咲良は地面に着地すると、脱兎のごとく駆け出した。
 ジャージ女が咲良に気を向けた瞬間、遥と芽瑠が跳ねた。
 遥は上段から特殊警棒を頭上高く上げ、芽瑠は特殊警棒を水平に構えた。
 咲良から視線を逸らしたジャージ女の動きは早かった。まずは接近してくる芽瑠に、長くきれいな脚を矢のように放った。その甲は芽瑠の右手に命中し、特殊警棒をたたき落とした。ジャージ女はそれを確認したかしないかという早さで、今度は特殊警棒を振り上げながら襲いかかろうとしている遥に向かって駆け、密着するほどの間合いに入った。遥の特殊警棒が振り下ろされるより早く、ジャージ女はその右腕をつかみ、捻りあげた。遥は絶叫して、特殊警棒を離した。ジャージ女は落ちた二本の特殊警棒を遠くへ蹴った。
 すべてが一瞬のことだった。
 《すごい――》
 遙かも芽瑠も、そして咲良自身も、地元の中学校ではてっぺんを獲っている。その二人が目の前で瞬殺された。咲良が行ったところで、結果は同じだっただろう。
 仲間が負けたというのに、咲良は感動さえ覚えた。
 「――挨拶って、これで終わり……?」ジャージ女は軽く肩をすくめた。
 咲良は地面に正座し、両手をつき、深々と土下座をした。「先輩、すみませんでした。完敗です」
 「咲良……」
 遥と芽瑠の声がしたが、咲良はそのまま頭を上げなかった。
 「てゆーか、そういうの、マジでいらないから、頭上げて」ジャージ女が近づいてくる気配と足音。
 「いえ、私の仲間が失礼なことを……」
 「いいって。そんなことより、今日はそれどころじゃないんだって……さ、早く顔上げて」咲良が顔を上げると、ジャージ女は彼女をまじまじと見つめた。「――だれ?」
 「宮脇咲良。博多中学校三年生です」
 「博多? そんなに遠くからなにしに?」
 「来年からマジ女にお世話になる予定なので、視察に来ました」咲良は、自分たちが瞬殺されたことを信じきれていない様子の遥と芽瑠を見て、「あの二人――遥と芽瑠も同じです」
 「あ。そういうことか。そんで一発カマしてやろうと思ったってこと?」
 咲良は頷いて、「はるっぴ、芽瑠。ふたりとも謝りな……その――」とジャージ女を見た。
 「おれか? おれはサシハラ」
 「サシハラ?」変わった苗字だと思った。
 「みんなにはヲタって呼ばれてる。ヲタでいいよ」
 「はい。ヲタ先輩」
 「先輩はいらねえよ」
 「じゃあ――ヲタさん、で」
 「ま、そっちのほうがマシか」
 遥と芽瑠は、渋々、咲良のかたわらにやってきて、膝と両手を砂だらけの地面についた。「ヲタさん、すみませんでした」
 「いいから立てって……」ヲタは照れくさそうに言った。「そんなことより、今日はもう帰った方がいい。いまマジ女はカチコミされてんだよ。しかも、かなりヤバい相手にだ。おまえたちも見つかったら半殺しにあうぞ」
 《――やっぱり》
 咲良の嫌な予感通りだった。
 咲良は立ち上がった。遥と芽瑠も、砂を払いながら立った。
 「それじゃあ、あたしたちはこれで――」咲良は言い、遥と芽瑠と視線を交わした。二人が頷いたので、咲良は歩き出そうとした。
 「待て」ヲタが叱りつけるように言った。「いまから出るのは危ねえ。おれと一緒にいたほうがいい。ついてきな」
 こちらの返事を待たずに、ヲタは言うなり踵を返し、校舎に向かって駆け出した。
 まだ言葉を交わして数分と経っていないのに、咲良はヲタとの出会いになにかの縁を感じていた。この先になにが待ち構えているのかはわからないが、ヲタとならうまくやっていけそうな予感がする。自分だけではない。遥も芽瑠も――。
 こうして宮脇咲良、兒玉遥、田島芽瑠の三人は、ヲタのあとに続いた。
 


  【つづく】
 ■決戦―11■



「やっと終わった……のかな……?」大声を出しすぎたジャンボの声はかすれていた。
「――たぶん……だけど、終わったんじゃない……?」いつもは幼さの残るアニメの声も、いまは少し低くなっていた。
 二階の廊下にいたふたりは、割れた窓から外へ飛んで行く鴉や鳩を見ながら、壁に寄りかかって疲労した体を休めていた。
 二十分ほど前、アニメとともに校内巡回にあたっていたジャンボとアニメは、鳥の襲撃をサドに報告すると、そのまま生徒会室に向かい、別命あるまで峯岸みなみの指揮下に入るように命じられた。
 二人は、生徒会室の喧騒ぶりに唖然とした。十台ほどの携帯電話はひっきりなしに鳴っていて、七人の生徒会役員だけでは対応できていないばかりか、経験不足による指示は拙速さも的確さもなかった。その上、すべては峯岸の判断がなければ決定されず、保留された要件は溜まっていく一方だった。
《所詮は力不足だったか……》
 ジャンボは落胆したが、表情には出さないようにした。アニメと視線を合わせると、彼女は黙って頷いた。
 峯岸みなみはふたりの姿を目にすると、携帯電話で会話を続けたまま、テーブルの上でメモをとった。そして書き上げるとそれを丸め、ふたりに向かって放り投げてきた。アニメがそれを拾い、広げた。A4の紙に、殴り書きの汚い文字が踊っていた。
《一階と二階の混乱を収拾して》
 二人は鳥を避けつつ、二階へ下りた。
 そこは、一階から逃げてきた生徒たちがふたたびパニックに陥るに足る修羅場だった。冷静さを失った者たちは、目上のジャンボとアニメを見ても反応しなかったし、それどころか自分たちが逃げるために二人を押しのける者もひとりやふたりではなかった。これを生徒会が抑えるのは無理な話だった。
 それでも普段から気心の知れているふたりは連携して、大声と威圧によって、少しずつ生徒を落ち着かせていった。泣きわめく者は拳で我に返らせた。その甲斐があったのか、二階に逃げてきた者たちは少しずつ沈着に行動し始めた。
 そしてつい先ほど、鳥たちの襲撃が止んだ。
 もう二階の廊下にいる生徒たちは残り少ない。さっきまでここにいた元チームホルモンのバンジーたちも一階に降りていった。パニックは去ったのだ。
「アリ女の襲撃がある前に終わってよかったね」ジャンボは言った。
「うん――」と頷いたものの、アニメは不安そうな表情を隠さなかった。「でも、けっこう怪我人出てるし、作戦通りに行かないね」
「大丈夫っしょ。優子さん、来てくれたんだし」
「だといいけど……」
 ふたりは階段を登り、三階の生徒会室の前へやって来た。
 扉の前に立ったとき、ジャンボは違和感を覚えた。
 静かすぎる。
 あれだけ鳴っていた携帯電話の着信音も、話し声も聞こえない。
 アニメも同じことを感じたのだろう。あわててドアノブを握り、扉を開き、部屋の中へ飛び込んだ。
 生徒会室の中央に置かれたテーブルの上にあった携帯電話やパソコンや書類は散乱し、正面にあったはずのホワイトボードは倒され、窓はすべて割れ、黒、白、灰色の鳥の羽が室内に吹き込んできた風に舞っていた。筆記用具や書類やペットボトルが乱雑に床に散らばっていた。
 ジャンボとアニメが唖然としていると、テーブルの下から佐藤すみれの情けない声がした。「――ねえ……もう、大丈夫……?」
 覗きこむと、そこには佐藤すみれだけでなく、小木曽汐莉、桑原みずき、大矢真那、中西優香の五人が隠れていた。床にもおびただしい数の羽とガラスの破片が散らばっている。
「あ、ああ……もう、鳥はいない」ジャンボがそう告げると、竦み上がっていた五人は安堵の表情を見せた。
 高柳明音は、窓際の隅に座り込んで泣き崩れていた。ガラスででも切ったのか、顔と手のひらに鋭利な切り傷があった。アニメが近づくと、高柳はしゃくりあげながら取り縋るように言った。「鳥……鳥さん、が……鳥、鳥さんが……こ、こんなこと……する、わけない……よ……」
「大丈夫。鳥さんはもういないよ」アニメが高柳の肩を抱いた。
 背後でガタッとなにかが崩れる音がして、ジャンボは振り返った。倒れかけて壁に斜めに立っているロッカーの影から、峯岸みなみが現れた。
「峯岸……」ジャンボは絶句した。
 峯岸の額から血が流れている。目つきもとろんとして、意識がどれだけはっきりしているのかわからない。ロッカーを跨ぎ、こちらに来ようとしている峯岸の元に、ジャンボは駆け寄った。
「大丈夫か?」
「――鳥が……来た……」
 峯岸はそれだけ言うと、前のめりに倒れてきた。ジャンボは峯岸のお腹に腕を回し、体を支えた。右腕に峯岸の全体重がかかった。
「しっかりするんだ。いま、救護班を呼ぶ」ジャンボはアニメに目配せをしようと顔を上げた。そうするまでもなく、アニメはもう携帯電話を耳に当てていた。
「――甘く、見てた……わ……」峯岸は息も絶え絶えに言った。
「しゃべらなくていい」
「――ううん……これだけは……サドと……優子さんに、伝え……て……。生徒、会は、この、戦い……の、全権を……ラッパッパ……に、委譲……するって……」峯岸はそこまで言うと安心したのか、ゆっくりと目を閉じた。
 ラッパッパに全権を委譲する――峯岸はたしかに言った。
 ジャンボはテーブルの下から出てきた役員に視線を移した。みんな疲労困憊していた。彼女たちには、もう無理だった。というよりも、そもそも無理だったのだ。
 ジャンボはみんなの顔を見た。言葉にはしなくとも、意志は通じた。
「だれか会長を支えてやってくれ」ジャンボは言った。「私はすぐに優子さんに、このことを伝えないといけない」
 生徒会室の外に、駆けつけた救護班の足音が聞こえてきた。
 


  【つづく】
 8月に東京ビッグサイトでおこなわれるコミックマーケット86に参加します。
 サークル名と配置は以下のとおりとなります。
 
 『馬路須加女学園出版部』
   8月14日(金曜日) 西地区 "た" 11b

 三年連続の夏コミ参加となりました。
 それで今回の新刊ですが、このブログで連載している『マジすか学園vsありえね女子高』をまとめて、大幅に加筆修正した『マジ女のいちばん長い日』の4冊目を出す予定なのですが…いつもの半分くらいの薄さになりそうです…。
 というのも、ここのところ小説の執筆がなかなかはかどらず本にするときのストックがあまりないことと、先月にSKE48とHKT48の劇場観覧が当たってしまい二週連続の遠征をしてしまったことがその理由です…。
 楽しみにしてくださっている方には、大変申し訳なく思っています。
 それでも、薄くても出すつもりでいますので、よろしければ西館まで足を運んでください。
 詳しいことは、またこのブログでお知らせします。

 その代わりと言うことではないのですが、今回はNMB48チームBⅡの同人誌を委託販売します。
 そーじゅさん(ツイッター → @so_ju)が去年の冬に作られた『NMB48チームBⅡ 騙されたと思って読んでみて計画』と、新刊(タイトル未定)が発行される予定です。

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 こちらも詳しいことが分かり次第、告知させていただきます。
 チームBⅡヲタの方は必読の同人誌です!
 「ぼくの小説は嫌いでも、そーじゅさんの本だけは買ってくださいっ」

 と、下手な前田敦子の名ゼリフパロディをやったところで、今回はこれまで。
 また、しつこく告知しますよ(笑)。

 というわけで、8月14日に東京ビッグサイトでお会いしましょう!!!
 ■決戦―10■



 廊下と階段を自在に飛び交い、生徒たちを恐怖とパニックに陥らせていた鳥たちの動きが、一斉に――まるで電池が切れたかのようにおとなしくなった、その瞬間をバンジーは見ていた。
 廊下の天井付近を、バサバサと大げさに羽ばたいて飛んでいたカラスも、狂ったように翼を上下し、羽をあちこちに散乱していたハトも、統制なく飛び回り、そこら中にぶつかっては床に落ちたスズメも、その動きを止め、すーっと音もなく滑空し始めた。割れた窓を見つけた鳥は、そこから外へと
 いったい、鳥たちになにが起きていたのか、あるいはこれからなにかが起きようとしているのか、バンジーにはまったく見当がつかなかったが、事態が推移しようとしていることはまちがいないなさそうだった。
 回りにいる生徒たちもざわつき始めた。鳥嫌いの連中も、鳥たちが不気味な鳴き声を上げなくなったことで、少しずつ冷静さを取り戻しつつあるようだった。
 生徒たちの動きを制したいバンジーたちにとっては歓迎するべき変化だが、まだ油断はできない。バンジーはかたわらにいたウナギに言った。「なんだかわかんねぇが静かになったな……でも、気を抜くなよ」
 「ああ。わかってる」ウナギは頷いた。
 いま二階の廊下には、バンジーたちの他に三十人ほどの生徒たちしか残っていなかった。《純情堕天使》の指揮下にあった生徒は百人以上はいたはずだから、西側に配置されているプリクラたちの元も同じような《被害》を受けたのだとしたら、同等の戦力しか残っていないかもしれない。となると、約三分の一が負傷、あるいはそれらの生徒を体育館に運び込む役割を担ったことになる。
 バンジーがやるべきことは指揮下にある生徒たちの士気をこれ以上低下させないことと、部隊の再編成だった。しかし、自分にそんなことができるのだろうか。ダチひとり、救えなかった自分に――。
 「バンジー」アキチャに声をかけられ、バンジーはハッとしたように顔を向けた。
 「どうした?」
 「とりあえず一階に戻ろう。あたしはプリクラのところに行って指示をもらってくる」
 「そうだな、それがいい」バンジーはアキチャの肩を軽く叩いた。「頼んだぞ」
 アキチャはバンジーに向けて親指を立てると、廊下を小走りで駆けていった。


 体育館へと通じる重い扉の前で腕組みをしているチョウコクは、飛び交っていた鳥たちの動きが突然おとなしくなった瞬間を見つめても、特に反応はしなかった。世の中にはバカげたことがたくさん起きる。その理由なんて考えても仕方ないし、ひとつひとつに関わったところで時間の無駄だ。このけたたましい騒ぎになにかの理屈があろうと、それを自分が知る必要はない。知ったところでチョウコクの人生になんの影響ももたらさない。
 もちろん、こんな騒ぎは、これから派手な祭りの余興としても歓迎すべきことではないし、迷惑だった。なによりも戦力が削がれてしまったことにチョウコクは腹を立てていた。自分が背にしている扉は、まだ本格的な戦いの前だというのに何度も開かれ、負傷した生徒たちが何十人と体育館へ運び込まれた。これで生徒会の立案した作戦は初っ端から変更を余儀なくされるだろう。もっともすべてが作戦通りにいく戦いなど、チョウコクの知る限り一度もありはしなかったが。
 「鳥が……」かたわらの学ランが天井を見上げ、つぶやいた。
 「瑣末なことだ」
 「ふん……」学ランは笑った。「あんたらしいな」
 「とはいえ、たかが鳥ごときに大騒ぎした結果がこのざまだ」チョウコクは顎で扉の向こうの体育館を示した。「結果は瑣末なことじゃない」
 いま、鳥たちはほとんどが校舎の中から外へと飛んで行った。それでも取り残された数羽はまだ廊下の天井付近を宛てもなく飛んでいる。
 そして床には鳥の死骸が散乱していた。抜け落ちた無数の羽、ちぎれた脚、踏み潰れた頭や体の一部、飛び散った血……。廊下の床にはあちこちに血溜まりを踏んだ靴底が滑った跡が残されていた。
 《無惨なことをする……》
 チョウコクは怒りよりも憐れみを感じた。
 それを感じ取ったのか、学ランも渋い顔になった。「どうするつもりだ」
 「指示を待つ」
 「打って出ねえのか」学ランが、今度は不満そうな表情を浮かべた。「推測でしかねえけど、この鳥の大騒ぎにはアリ女の連中が絡んでいるにちがいねえ。どんな方法でこんなことをしでかしたのかまではわからねえが。で、それが収まったってことは、いよいよあいつらが来るってことだ。それでも指示を待つのか」
 「今回は、生徒会の指揮に従うと決めたからな」
 「堅てぇんだな」
 「私は功績を上げたいわけじゃない。少しでも、この学園に恩返しがしたいだけなんだ」
 「――前田、か……」
 もし前田敦子と拳を交わさなかったら、もし前田敦子の生き様を目にしなかったら――チョウコクは今回の戦いに参加しなかっただろう。クールを気取り、遠くから部外者のようにみんなを見ているだけだったにちがいない。
 自分は、学ランとはちがった意味で前田敦子に惚れているのかもしれない――とチョウコクは思う。あの小さな体しか持たない女に教えられたことは数多い。
 「あいつはおれが惚れた女だ。あんたが同じ気持ちになっても不思議はない」
 「嫉妬しないのか」
 「そういうんじゃねえよ、あいつへの気持ちは……」学ランはどこか寂しげな表情になった。「あいつは人を惹きつけちまうんだ。それをおれがどうこうできるわけもないし、したいとも思わねえ。それに――いや、なんでもねえ」
 ふと、学ランの小さく端正な顔に陰りが見えた気がした。
 「どうした――水臭いな」無理に聞き出そうとは思わないが、いままで見たことのない表情の学ランに、チョウコクは尋常ならざるものを感じた。「話したいことがあるなら聴くぜ。こんなときだからこそ、言えることもあるんじゃねえか」
 「――ああ、たしかにな……そうかもしれねえ」学ランは、今はもう鳥のいない天井を見上げた。「――名古屋に行くんだ。親の仕事の都合でね。この学園とは今学期でお別れだ」
 「いつ決まったんだ?」
 「二三日前だ。突然で、なにもオレに相談はない。それどころか、電話で知らされたんだ。こんな大事な話なのに……」
 ひどい話だ――と言おうとして、チョウコクは思いとどまった。いくらそうだとしても、ダチの親を悪く言いたくない。
 かといって、黙っているのもどうかと思い、チョウコクは低く「ああ……」と頷いた。
 「まあ、おれにはもう、どうしようもないことだし、あんたも今年でこの学園を卒業するしな、未練はねえよ。けど……あいつのことは心配だ」
 「大丈夫さ。あいつは強い女だ」
 チョウコクがそう言ったとき、体育館へ通じる扉が、外側からゆっくりと開いた。
 現れたのはネズミだった。
 チョウコクはこの女が嫌いだった。アダ名の通り、ちょこまかと動きまわり、その理由もわからない。どうせろくでもないことを考えているのにちがいないが、尻尾をつかませないずる賢さが余計に腹が立つ。そうならないための唯一の方法は、関わらないことだ。
 だからチョウコクは、ネズミのやや焦ったような表情を見ても、感情を動かさなかった。どこに行くつもりかは知らないが、それはチョウコクには関係のない場所にちがいなかった。
 チョウコクも学ランも、ネズミには声をかけなかった。ネズミは二人を交互に見ると、したかどうかもわからないくらい小さな会釈をして、廊下の向こうにある階段を登っていった。
 「――ま。そんなわけでだ……」なにかを吹っ切るように、学ランは言った。「今日は、暴れ納めとでも言うべきかな。派手にやらせてもらおうぜ」
 学ランは顔より少し高い位置まで右手を上げた。
 チョウコクはその意味に困惑したが、やがてそれに思い当たり、少し照れた笑みを浮かべてハイタッチをした。


 セーラー服の上から、背中に龍と富士と花が刺繍されたダークグリーンのスカジャンを着た少女は丘の上で足を止め、遥か向こうにある馬路須加女学園を見つめた。
 この小さな丘は、少女の自宅から学園へと向かう通学路だった。毎日ここから学園を見て、ゆっくりと歩いて行くのが日課になっている。しかし、ここ十日間ほどは自宅と優子が入院している病院を行ったり来たりする毎日で、この丘からの眺めは久しぶりのものだった。進級への成績が足りず、今度の補修テストで赤点を取ったら、留年することになってしまうため、勉強を優子に見てもらっていたのだ。出席日数はぎりぎり足りていた。優子のおかげで、なんとか最低限の理解はできた。あとは来週のあたまにあるテストで合格すればいい。
 本当は、留年しようが進級しようが、どうでもよかった。それでも苦手で大嫌いな勉強をしたのは優子が望んだからだ。テキストを理解し、問題を解き、正解を出すと、優子はとても喜んでくれた。
 優子とのキスもクンニも好きだったが、いちばん好きなのは、柔らかくて大きな優子の胸に顔をうずめ、頭をなでなでしてもらうことだった。あれほど幸せな時間はない。優子の慈愛に満ちた抱擁に包まれると、少女は心の底から落ち着いた。優子の胸は、少女の遠い昔の記憶を呼び覚ます。まだ言葉も覚えていなかったころに授乳をしてくれた母親――そしていまはいない、その存在を。
 今朝、その優子から電話があった。
 「学園に来いよ」優子の声はなぜか興奮していた。「ひさしぶりの祭りだ。相手を殺さない限り、好きに暴れていい」
 《相手》がだれを指すのかはよくわからなかったが、暴れていいことだけははっきりと理解できた。前田敦子とのタイマンから、しばらく拳を使っていなかった。ケンカよりも勉強を優先しなくてはいけなかったからだ。
 でも優子は言った――暴れていい、と。
 少女は馬路須加女学園から視線を移し、丘の向こうへと続く道を見た。
 《殺さない限り、なにをしてもいい》――なんて素敵な言葉なんだろう。
 少女は指の爪を噛みながら、フフフと笑い、再び歩き出した。
 


  【つづく】
 ■決戦―9■



 振り返ったヲタが最初に見たのは、そこに立っている女の脚だった。黒いローファーに白い靴下、そしてスマートな脛と膝小僧――。
 と、そこまで見上げたときに、そのローファーのつま先がこちらに向かって蹴りだされた。
 ヲタは反射的に身をかわした。地面に転がると、砂ぼこりが立ちのぼった。
 「ヲタっ」だるまの声。
 「見つかったぞっ」
 ヲタは叫んだ。もう、こそこそしていても仕方ない。
 ケリをかわそうと転がり続けているうちに、背中をなにか硬いものにぶつけた。ヲタはそれがなにか確認しようともせず、立ち上がる動作に入った。その途中、右手がスカートのポケットのあたりに触れた。携帯がなくなっていた。ハッとしたが、いまは探している暇などない。ヲタは相手の体勢を確認しようと顔を上げねと同時に立ち上がった。
 ツインテールに前髪パッツンという髪型の、見知らぬ女が二メートルほど離れた茂みの中に立っている。とても幼そうな顔立ちだった。
 ヲタはもっと距離をとろうと右脚を下げたが、背後には車輪のない完全に錆びついた乗用車があり、それ以上下がるのは無理だった。乗り越えることのできない高さではなかったが時間がかかりそうだ。おそらくすぐに捕まってしまうだろう。
 「麗奈」だれかの声。だるまではない。「なにしてんだ?」
 「こんなとこに、ゴキブリがいたんですよっ」
 麗奈は余裕があるのか、ヲタから目を離して振り返った。
 ヲタは地面に視線を移した。武器になるものを探した。
 ヲタから二歩の距離に、ひしゃげたパイプが落ちていた。
 「ざけんなっ」ヲタは駆けた。そしてパイプを掴み、麗奈の背中めがけて振り下ろした。
 それとほぼ同時に、麗奈がこちらを向いた。
 「あらよっ……」麗奈は体を反らし、事も無げにヲタの一撃を避けると、すぐに反撃を開始した。ポニーテールがそれに合わせてふわっと揺れる。
 突然、目の前に正拳突きが現れた。
 もう避けることも反撃することもできない間合いだった。ヲタは少しでも衝撃を和らげようと、顔の前で両手をクロスした。
 「うぉりゃああぁッ」だるまの声がすぐ近くで聞こえた。
 だるまはヲタの右側から突然現れた。ドシンと重たい響きがして、麗奈に体当たりを食らわせただるまがもろともに地面に倒れた。だるまは麗奈より先に起き上がると、ツインテールを両方とも引っ張り、その額に頭突きを食らわせた。ゴッ、という鈍い音がして、麗奈は頭をのけぞらせると、そのまま動かなかった。
 「どんなもんじゃいッ」
 そのとき、アリ女のだれかが向こうで指示を出す声が聞こえた。「NEO、ゴキブリ駆除に行ってきな」
 すると、アリ女の連中のうち数人がこちらに向かって歩きだした。知らない顔ばかりだ。
 だるまは素早く立ち上がり、「ヲタ、早よ、行けッ」
 「えっ……」
 ヲタはだるまの言わんとしていることがわからなかった。見つかったからには、不本意ながらここで戦うしかないではないか。
 「なにをグズグズしとるんや。さっさと学校に行け、言うとんじゃッ」
 「おまえはどうすんだよ」
 「ここはオレに任せるんや……」だるまはいかにも作りものといった真顔をヲタに向け、そのあとでにやりと不気味に笑った。「前から一度言ってみたかったんや、このセリフ」
 「ふざけんな、おめえだけ置いていけるか」
 アリ女の生徒たちは、すでにあと五メートルほどの距離まで近づいてきている。
 「ええから早よせえッ」だるまが叫んだ。「ここにいたって多勢に無勢……二人ともやられるだけや。おまえにはやるべきことが残っとるやろ」
 朝日奈央の顔が浮かんだ。「――そ、それはそうだけど……おめえを見捨てて逃げるなんて……」
 「見捨てられるわけやないッ」だるまは立ち上がって、ヲタに背を向けて両手を広げた。「オレがおまえに託すんや。マジ女の未来を」
 「でも……」
 「行くほうが楽だと思っとるんなら、それはまちがいや。ええか、楽なのはオレのほうや。希望を託されるおまえのほうが辛いやろ」
 「そ、それはそうかもしれねえけど……」
 「だからおまえは心置きなくここから去れ。そして、あとでおれを恨め。あのとき、楽な道を選びやがったなって……」
 「だるま……」
 だるまの言っていることは理屈としては正しい――が、正しいからこそ、その通りにこの場を去るわけにはいかなかった。この一週間で、二人のあいだには理屈を超えたものが生まれた。それがいま、ヲタの脚をこの場に縛り付けていた。
 ヒロイックな破滅願望や、のちに対峙しなければならない朝日との闘いへの恐怖、そして自分が卑怯者になってしまうのではないかという利己的な気持ちが、ヲタにないと言えば嘘になる。この場で負けてしまえば、その気持ちは充足される。
 ――だが、しかし。
 こんなところで地を這わされるために、自分たちは辛い体験をしてきたわけではない。
 勝つためだ。
 勝つためだけだ。
 ヲタがグズグズと態度を決めかねているあいだに、NEOと呼ばれた生徒たち五人がだるまに襲いかかった。
 だるまはその大柄な体を堤防のように屹立させたまま、一人でアリ女の生徒五人と向かい合った。
 「さっさと行かんかいッ」だるまはつかみかかられた相手の肘をねじり、脚では別の相手に蹴りを加えようとしていた。しかし、背の高いカエルのような顔をした女がいままさに、だるまの顔面に拳を叩き込む寸前だった。残る二人はだるまの背後に周り、足掻く巨体を押さえつけようとしている。
 五人がヲタに向かってこない理由は明らかだ。誘っているのだ。ダチが袋叩きに合うさまを見せつけ、助けに来たところを潰す――。
 助けるべきか。
 いや、助けることができるのか。
 だるまの頭が大きく、そして激しくのけぞった。カエル女のパンチがもろに入ったのだ。
 逡巡だけでなく、恐怖もヲタの脚をすくめていた。
 「どうすりゃ……どうすりゃいいんだよ……ンなこと、決められねえよ……」
 だるまはそのまま後ろに倒れるかのように思えた。実際、脚はふらっとよろけ、腰も落ちそうだった。しかし、だるまは自力でふんばった。
 「オレは……オレは、負けへんでェッ……。そんなパンチ、蚊が止まったくらいのもんや……」
 ちらりと見えただるまの横顔が真っ赤に染まっていた。
 だるまとの距離は三メートルほど――走れば数秒で助けられる。
 カエル女が今度は、だるまの腹に強烈なフックをお見舞いした。
 「――なん、や……ンなもん……たいしたこと、あらへん……」だるまは髪を引っ張られ、腕の関節を決められ、そして膝蹴りを入れられていた。「オレは……負けてへんで……。負けるまで、負けへんで……」
 そしてようやく、ヲタは決意した。
 「――だるまッ……任せたッ」
 ヲタは踵を返し、脱兎のごとく走りだした。
 馬路須加女学園へ向かって。
 のちに卑怯者と呼ばれてもいい。いまは生き延びることだけを考えよう。
 ヲタは走った。 
 学園を囲む塀にはすぐにたどりついた。ヲタはそれに沿って、さらに走った。もう少し行けば、遅刻してきた者がこっそり侵入するための、塀を乗り越えるハシゴが隠してあるのだ。教師たちは知らないが、産廃の山の中にそれがあることはほとんどの生徒が知っている。
 ヲタは振り返らず、無我夢中で走った。
 そのとき、断末魔の、だるまの叫びが聞こえた。
 「――ヲタぁ、てっぺん、獲るんやでぇッ……」
 ちらりと振り返る。そこでヲタは、だれも追ってきていないことに気づいた。
 それでもヲタは走った。
 どこからかまた新たな敵が現れ、あるいは俊足の敵に追いつかれるのではないかという恐怖で、喉の奥が完全に乾いて、痛みさえ感じるほどの全力疾走のすえ、ヲタはハシゴが隠してある産業廃棄物の山にたどりついた。塀と、倒された冷蔵庫のあいだに手を入れ、錆びた鉄の感触をたしかめる。あった。ヲタは過呼吸に堪えながら、それを思いっきり引っ張り出した。
 ガランと音を立て、重いハシゴを塀に立て掛ける。
 急いでハシゴを登り切ると、もう一度、ヲタはだるまのいた場所に視線を移した。
 いまや遥か向こうの草むらで、だるまは仰向けに倒れていた。表情はわからなかった。まぶたは両方とも腫れ、鼻は曲がり、唇のあたりは血で染まっていたからだ。だるまを屠った五人は扇形に立ち、半殺しにしただるまをヲタに見えるようにした。
 《だるま……おめえの仇はきっと取る。だから、いまは……すまねえっ……》
 ヲタは五人の顔を記憶に刻むと、塀の内側へぶら下がり、小さく飛び降りた。
 そして屹然として校舎へ、ふたたび走り出した。


  【つづく】
 ■決戦―8■



 体育館にはすでに五十人ほどの負傷者が運び込まれており、その広い空間はなにかの映画で見た野戦病院のように騒然としていた。簡易ベッドはほぼ満員で、床に寝転んでいる者もいる。白地に赤い文字で《救護》と書かれた腕章を付けた生徒たちは、けが人たちに包帯を巻いたり消毒液を塗ったりしていた。まだ《戦争》は始まっていないというのにこれだけの負傷者がいるのは、パニックになった生徒たちの同士討ちや、混乱の中で弾かれ、転げ、足を取られ、踏みつけられるといった状態に巻き込まれたからだろう。
 珠理奈の肩を支えていたネズミとウナギが中に入ると、すぐに前田敦子の姿が見えた。二の腕には赤十字の書かれた腕章を付け、出入口にもっとも近いベッドで頭から血を流している生徒の手当をしている。
 マジ女最強の女がこんなところでなにをしているのか……ネズミが訝しげに見つめると、その視線を感じたのか、前田敦子と目が合った。
 「脚を?」前田敦子は包帯を巻く手を止めてから、落ち着いた口調で訊ねてきた。
 「ああ。階段から落ちた」
 「ベッドはもうふさがってるから……そこで、ちょっと待っててください」前田は目で、ベッドの隣に敷かれた体育用マットを示した。
 何度も策を弄して潰そうとした女に借りを作りたくはなかったが、前田はそんなことは考えてもいない素振りだった。
 珠理奈をマットまで誘導したネズミとウナギは、珠理奈を静かにマットの上に座らせた。
 「それじゃあ、あたしはこれで……」ウナギが言った。「まだ、やんなきゃいけねぇことがあっからさ」
 「先輩、ありがとうございます」珠理奈は頭を下げた。
 「ンなこと、いいっていいって……」ウナギは照れくさそうに手を振り、立ち上がると体育館から出て行った。
 ネズミはそれを見届けると、ふたたび珠理奈に向かい合った。「珠理奈……どうだい?」
 「ぼくなら大したことないよ。なんだったら歩けるくら……」介添えなしで立ち上がろうとした珠理奈だったが、膝を伸ばしただけでバランスを失い、倒れ始めた。
 「危ないっ」ネズミはその体をあわてて手で止めた。ネズミは珠理奈を抱きかかえるようなかたちになった。「無理するなって……」
 「――クソッ……」珠理奈が小さく言った。「こんな肝心なときに、まゆゆの約に立てないなんて……」
 「大丈夫。なんとかなる」ネズミは珠理奈をお尻から、ゆっくりとマットの上に下ろした。
 「そうだね、ここにいれば大丈夫さ」
 「でも、それができないんだ」
 「え、なんで――」
 「行かなくちゃいけないところがある」
 「こんなさなかに?」
 「ああ……」ネズミは言い澱んだ。いずれは知られることだが、いまは本当のことを言うわけにはいかない。図書室に珠理奈を連れて行けば、フォンチーたちを警戒させ、下手をすれば裏切ったとさえ思われかねない。アリ女にはマジ女を潰すか、さもなくばそれに類するほどの痛手を与えてもらわう予定だ。そしてそのとき、ネズミと珠理奈は無傷でなければならない。「図書室にね。私の持ち場なんだ」
 珠理奈が傷を負っていなければ、ネズミは教えなかった。しかし、珠理奈は少なくとも、今日は歩くことさえままならないだろう。それなら下手にすべてを隠すよりも、出来る限り情報を与えたほうがいい。肝心なことだけは隠して――。
 「そうなんだ……」珠理奈は落胆したようだった。
 「図書室のドアには鍵がある。アリ女の連中が来たって心配ない」ネズミはおどけた笑顔を作って、指先で鍵を掛ける仕草をした。「ガチャリ。これで私の役目はおしまい。あとはのんびり、中で紅茶でも飲んでるさ。二杯目を飲み終わるころにはすべて終わってるだろうね」
 「でも――」
 「心配性なんだな。珠理奈は」ネズミは珠理奈の額と自分の額を合わせた。「安心してくれ。私だってこう見えて百戦錬磨だ」
 珠理奈が心から安心していないのは、その瞳がかすかに震えていることでわかった。
 「お待たせしました」前田敦子が救急箱を持って、やってきた。
 ふたりは顔を離した。
 「脚を挫いたんですね?」前田はふたりのかたわらに座ると、珠理奈の足首をそっと持ち上げた。「――腫れはほとんどないみたいですね。氷水で冷やして、湿布を貼って、テーピングしておけば二三日で治ると思います」
 ネズミは前田敦子を見つめた。
 前田は、目の前にいる女がネズミだと認識しているはずだ。何度も自分を罠に掛け、いらぬ争いを誘発したネズミだと。控えめに言ってもネズミを憎んでいるはずだし、なんなら拳の一発くらいは叩き込みたいと思っているだろう。しかし、前田はそんな素振りなど微塵も見せていない。
 前田は救急箱からスポーツ用のアイスバッグを取り出した。すでに中には氷を入れてあるようで、足首にそれを置かれた珠理奈は「冷たっ」と小さく叫んだ。
 「二十分くらい冷やしたら、また来ます。湿布を貼って、包帯を巻きますから」 
 珠理奈は頷いて、「前田さん……ですよね?」
 「ええ」
 「マジ女最強の前田さんが、こんなところでなにしてるんスか?」
 前田はそれには答えず、アイスバッグをゴムバンドで足首に固定した。
 「聞こえてますよね?」
 「――見てわかりませんか? 救護です」
 「そんなこと言ってませんよ。前田さんはこんなところにいるべきじゃないって言ってるんスよ」
 前田はそれにも答えなかった。
 「前田さんが最前線に立てば、簡単に勝てるんじゃないスか?」
 「珠理奈……やめておけ」ネズミは早く図書室で待機しておきたかった。ここでつまらない騒動を起こし、時間をとられたくなかった。「なんでそんなに意気がる?」
 珠理奈にそうは言ったが、ネズミには彼女の気持ちはわかっていた。
 おもしろくないのだ。
 マジ女でトップに立つ前田敦子が前線に立たず、よりによって救護係とは……。そして前田の《穴》が開いたのなら、自分がそこに立つべきだと珠理奈は考えている。なのに自分は足を挫き、よりによってその前田に治療をしてもらっている。言ってみれば、一種の八つ当たりだ。
 「それじゃあ……」珠理奈の足首にアイスバッグを固定した前田はそう言って、立ち上がろうとした。
 ――が、珠理奈はその前田の手首をつかんだ。
 「逃げないでくださいよ」
 前田は横目で珠理奈をにらみ、「私は私のいるべきところにいるだけです」
 「ここがそうなのかって訊いてるんです」
 「そうです」
 「前田さんはマジ女の……」
 珠理奈がそこまで言いかけたところに、突然、大きめのハスキーな女の声がした。
 「やめなよ」
 近づいてきたエレナ――小野恵令奈も、前田と同じく赤十字の腕章を付けている。
 「あんた――昨日、前田さんをひっぱたいた……」
 「あなたもひっぱたかれたい?」
 「もう仲直りしたんだ」
 「あなたみたいな子どもにはわからないでしょうね。この人がどんな思いでここに戻ってきたのか」
 珠理奈はそれを鼻で笑った。「ええ、わかりませんね。子どもですから」
 「なら、人の仕事に口出ししないで」
 エレナは言い捨てて、前田の手を引っぱった。
 もう珠理奈もそれ以上はなにも言わなかった。
 「珠理奈」ネズミは小声で言った。「なんであんなことを……」
 「ムカつくんだ」珠理奈の視線は前田を追っていた。「立つべき場所に立たないやつ……」
 やはり図星だった。「あんなやつ、きみの相手じゃない。いつでも潰せるだろ」
 「ああ。でも、立つべき場所に立たないやつなんか潰したってしょうがない。だからあいつは強くなきゃ困るんだ。倒し甲斐がないからね」
 「きみの気持ちはわかった。でも、その怒りはいまはアリ女にぶつけるんだ。いいかい?」
 「まゆゆがそう言うなら……」
 「それじゃあ、行くよ」
 「まゆゆ」
 「ん?」
 「また戻ってくるよね?」
 「もちろん」アリ女の連中にマジ女の布陣を説明すればネズミの役割は終わる。あとはマジ女が勝とうが負けようが同じことだ。どちらにしてもマジ女は疲弊し、しばらくのあいだはだれも実権を握っていない状態になる。その隙にネズミは珠理奈を使い、マジ女のトップに立つ。ここで珠理奈を手放すわけにはいかなかった。「好きだよ、珠理奈」
 「ぼくもさ。まゆゆ」
 ネズミは頬に、珠理奈のキスを受け、そして立ち上がった。



  【つづく】
 ■決戦―7■



 階段を駆け登り、押し寄せる生徒の群れの前で、マユミは右手で山本彩を、左手で渡辺美優紀の手を離さないよう、力強く握っていた。
 校内に侵入した鳥どものせいで、一、二年生たちはパニック状態に陥っていた。これだけあちこちでガラスが割れ、上の階からも鳥どもが飛来してきているのだから、一階から離れたところで意味はないのだが、一度パニックの火が点いてしまった人間には、そんな判断はできないのだろう。その結果、彼女たちは、手をつないでバリケードをつくっている《純情堕天使》メンバーたちを突破しようと、必死の形相で押しくらまんじゅうをしているというわけだった。
 プリクラ率いる《純情堕天使》六人と難波からやってきた三人は、二階の廊下の手前の階段で、殺到する生徒たちを静止していた。少し前に西側の階段の向こうから、わーっという波のような声とたくさんの足音が聞こえてきた。あちらは《チームホルモン》が守っていたはずだが、あの人数では止められなかったのだろう。
 悲鳴と怒号の中、マユミはこの状態をいつまで保てるのかと考えていた。相手の数のほうが圧倒的に多いのだから、このままでは突破されるのは時間の問題だった。
 加えて、難波から来た三人も気がかりだった。彼女たちはほとんどなにも知らされないまま、ここに立ち、バリケードとして使われている。来年からマジ女の生徒になるとはいえ、それがここで踏ん張るモチベーションになるのかどうか……。バリケードが崩壊するとしたら、そこからではないかとマユミは思った。
 すると、まるでマユミの気持ちを察し、反論でもするかのように、山本彩が声を張り上げた。「おいっ、このアホんだらどもっ」
 声は太く、そして大きかった。
 山本彩の一喝は、《純情堕天使》のメンバーと群衆の最前列で怒鳴りあっていた生徒たちだけでなく、踊り場にいる者たちにも届いたようだった。あれほど騒がしかったこの場が、一瞬で凍りついたように静まった。それが聞き慣れない関西弁の響きによるものなのか、それとも――来たばかりだというのに、こんな状況下で先輩たちに向かって怒号を上げる山本彩という女の持つ迫力に押されたのかはわからなかったが、彼女がたった一瞬でこの場を支配したことは事実だった。
 「さっきから黙ってりゃ、クっソしょうもない大騒ぎしやがって、なにを鳥ごときにビビっとるんや。おまえらそれでもオメコついとんのか?」
 本来であれば、たかが――それも見知らぬ――中坊にデカい口を叩れることなど、マジ女にとっては屈辱的であり、あってはならない出来事だった。
 「わー、さや姉、かっこいい……」
 渡辺美優紀が関西訛りの発音で、胸の前で音を立てずに拍手をした。この空気の読めなさは――いや、そもそもそんなことなど意に介するタイプではないのかもしれない――山本彩とは別の意味で、渡辺美優紀もまた、人並み外れた存在感をもっていた。
 「残念ながら、こいつらの言うとおりだ」人間バリケードの端にいたプリクラが大きな声を出した。「とにかく一階に戻れ。怪我をして取り残されてるやつらもいるだろう。そいつらを体育館に運ぶんだ。さあ、さっさとしろッ」
 殺気立っていた生徒たちの中には、舌打ちする者や、山本彩にガンを飛ばす者などもいて、場はざわめいているものの、ほとんどはプリクラの号令に渋々従った。
 そして不思議なことに、鳥どもまでもが山本彩の一喝にビビったのか、その姿を消していた。
 「そこの中坊……山本彩とか言ったな」プリクラの視線には、マユミの隣の山本彩を射るような鋭さがあった。「とりあえず礼を言う。大した度胸だな」
 「なんてことあらへんで、先輩さん」
 さらっと言ってのけた山本彩のその面持ちに、マユミはある予感をいだいた。それは山本彩がいずれ、マジ女のてっぺんに上りつめようとするだろうというものだった。



  【つづく】
 ■決戦―6■



 負傷した松井珠理奈に肩を貸したウナギとネズミは、階段へ殺到している生徒たち数十人のあいだを縫うようにして人混みの中へ消えていった。
 バンジーはその様子を視界の隅に捉えながら、この事態をどう収拾するべきか考えた。目前に迫る生徒たちを、今は自分とアキチャとムクチとの三人でかろうじて抑えているものの、ここが突破されるのは時間の問題だろう。生徒会には増員を要請したが断られた。
 「おい」アキチャがじりじりと迫りつつある群衆から目を離さずにバンジーを呼んだ。「どうするんだ?」
 「考えてる」
 「そんな時間ねえぞ……」
 一階の廊下のどこかから叫び声が聞こえた。また鳥が入ってきたのか……バンジーは身構えた。
 「また来たぞぉぉぉ」だれかが叫んだ。
 それが合図になってしまった。
 バンジーたちと対峙していた群衆の先頭にいる二三人が階段を登ろうと、前進してきた。
 「待てって……」その静止もむなしく、バンジーはだれかに胸を突かれ、壁に背中を打ち付けた。「痛って……」
 最初の数人が踊り場まで一気に走ると、そのあとに数十人が続いた。足音と叫び声が冷たいコンクリートの壁に響いた。群衆は、もはや三人ではどうすることもできないうねりとなっていた。バンジーの視界が、堰を切ったような人の波で埋め尽くされた。
 「バンジーっ」群衆の向こうのどこかからアキチャの声がした。「大丈夫か?」
 「大丈夫だ。ムクチはいるか?」
 「こっちにいる。心配ないっ」
 バンジーがほっとした瞬間、今度は二階からガラスが割れる音と、わっという叫び声が重なった。
 数十羽の鳥が群れとなって、二階の廊下から踊り場へ降下してきた。カラスやハトの羽がふわふわと舞う中で、ついさっき階段を登っていった生徒たちが戻ってきて、一階からの生徒たちと階段のあちこちで衝突した。悲鳴と怒号と床の振動がバンジーを軽くパニック状態にした。踊り場の壁に背をつけ、自分の身を守るのが精一杯だった。バンジーはもはやなすすべなく、混乱した数十人の生徒たちを見つめることしかできなかった。


 大島優子は生徒会室の扉の向こうから伝わってくる、うなるような声と振動をともなう地響きにも、顔色ひとつ変えることなくソファに座ったままだった。
 サドはそんな優子を心強いと感じつつも、これから優子がなにをするのかにわずかな不安を感じていた。いつもみんなの想像の上を行く優子は、それゆえ大胆な行動に出ることがあり、その尻拭いはもっぱらサドの役割だったからだ。とはいえ、サドはそれを苦にしているわけではなかった。
 サドの横に並んだ四天王のうち三人――ブラック、シブヤ、トリゴヤ――も、事態に動ずる気配は皆無だった。
 「鳥、か……」優子はつぶやき、立ち上がった。「理由はわからねえが、鳥が校内に入ってきたおかげで一階にいた連中がパニックになってるってわけか……」
 「はい」サドは答えた。
 「そんなら――好都合なこともあるな」優子は八重歯を見せて微笑んだ。
 「は――?」
 優子はやおら立ち上がると、一直線に四天王の三人が並んでいる壁際に向かって歩き出し、とある人物の前で立ち止まった。「――ほんとならおめえを使いたくはねえんだが、あたしのシマでこんなに派手に暴れ回られちゃあ、そうも言ってられねえんだよ、なあ……トリゴヤ?」
 「あ――え……どういうこと?」
 「こういうことだよ」
 優子はトリゴヤの乳房のような柔らかさの腕をつかむと、タイマン部屋へと通じる扉まで引きずるようにして、強引に連れて行った。そして扉を開き、トリゴヤを放り込み、自分も中へ入った。扉は乱暴に閉められた。
 五秒後、タイマン部屋のガラスが割れる音がした。
 サドは一瞬そちらへ向かいかけた――が、すぐに優子の真意に気づき、同じように二三歩前に踏み出したシブヤとブラック、昭和とライスの四人を手で制した。
 ほどなくして、扉の向こうからトリゴヤの悲鳴となにかをひっくり返したようなドタンという大きな音が聞こえた。
 優子が姿を現したのは、それからすぐだった。優子は落ち着き払っていて、昭和を見やると顎で扉を示した。「昭和。閉めとけ」
 「はい、優子さん」
 昭和は弾かれたように言い、タイマン部屋の扉へ駆け寄った。スカートのポケットから鍵の束を取り出し、南京錠を掛けた。これでトリゴヤは完全にタイマン部屋へ閉じ込められたというわけだった――いまごろは、カラスやハトやスズメが何十羽も雪崩れ込んでいるであろう、部屋の中に。
 「これでよし」
 サドと目が合うと、優子はまた八重歯を見せた。


 【つづく】
 ■決戦―5■



 ヲタと鬼塚だるまの目の前には、馬路須加女学園へ続く上り坂があった。ここを越えると道は緩やかな短い下り坂となり、学園の正門へと辿り着く。たった一週間ぶりだというのに、夏や冬の長期休暇を明けたときよりもヲタにはここがひどく懐かしい場所に思えた。
 そして空には、数える気さえ失わせる数の鳥たちが旋回し、思い出したように馬路須加女学園校舎へ降下している。鳴き声が一面に響き渡り、学園の周囲は異様としか言いようのない雰囲気に包まれていた。
 歩きながら食べていたサンドウィッチの最後の一欠片を頬張り、ヲタはだるまを見た。両手に食べかけのおにぎりを持っているだるまは、それを咀嚼しながら無言で頷いた。
 坂を登り始めたのはだるまだった。
 いよいよだと思う気持ちからか、歩くたびに胸の鼓動が高まった。硬いアスファルトを踏んでいるはずの足底の感触がおぼつかない。なにか柔らかいものの上を歩いているような気がする。微かに震えもあった。決心してやってきたのに、体がまだそんな反応を見せていることにヲタは苛立った。
 ――落ち着け。落ち着け。まだ朝日と顔を合わせたわけじゃねえんだぞ。
 いまからこんな状態では先が思いやられる――ヲタの冷静な部分が自らの小心さにあきれた。
 その異変に最初に気づいたのはだるまだった。
 突然、歩くのをやめただるまは、ヲタの体を腕で止めた。
 「なんなんだよ……」
 「シッ」
 だるまは言うと同時にヲタの腕をつかみ、道の右側にある廃材が不法投棄されている草むらへと導いた。そして腰の高さまで生えている雑草の中で身をかがめた。
 「だれかおるっ」だるまは小声で言った。
 「……アリ女か?」
 ヲタは怖怖と顔を上げ、校門へ向かう道の向こうを見ようとした。途端にだるまの手に頭を押さえつけられた。
 「アホか。見つかったらどうするんや。声だけにしとけや」
 耳をすましてみると、鳥の羽音や鳴き声に混じって、人間の話し声が聞こえるような気がする。しかしこれだけではアリ女の連中とは言い切れない。
 「声はするけどあいつらかどうかはわかんねえだろ」
 「こんな日のこの時間に校舎の外にアリ女以外のだれがいるんや」
 「そりゃあそうかもしれねえけど……どうする?」
 「やつらが中に入るのをここで待っとくか…」
 そのほうがいい、とヲタは無言で頷いた。
 「けど、じっとしとるのは性に合わへんな…」
 言いながら、だるまは匍匐前進のように身をかがめて草むらの中を移動し始めた。
 「――ったく……」ヲタは舌打ちをしてだるまに続いた。
 不法投棄場所と化している草むらには、大型の冷蔵庫やブラウン管型のテレビ、電子レンジなどが散乱している。いちばん大きなものはすべてのタイヤがパンクしている80年台の乗用車だった。二人はそれらの死角で身を隠しながら、できるだけ静かに進んだ。草むらを移動するときの音は鳥たちの騒々しい鳴き声がかき消してくれたため、校門へ近づくのは思っていたよりも容易だった。
 やがて、ヲタには見えてきた。
 草むらの向こうにいる、アリ女の制服を着た十数の女たち――。
 まだ、だれがいるのかは判別できないが、その制服のデザインはヲタの恐怖を呼び起こした。腰から下の感覚が遠くなり、脇の下に自分でもわかるくらいの汗が染みてきた。口の中は一瞬でからからになった。
 アリ女のいる場所まであと五メートルほどまで近づいたとき、うっすらと会話が聞こえてきた。
 「まいぷる。そろそろいいよ」知らない女の声だ。ちょっと甲高い。「休ませないと、まいぷるが壊れちゃう」
 「まいぷるさん」朝日奈央の声だ。「もう終わりにしていいんですって」
 なにが起きたのか知りたくて、ヲタは反射的に顔をあげようとしたが、すぐに思いとどまった。だるまも様子をうかがいたいらしく、そうしたところで見えるわけでもないのに頭を左右に動かしていた。
 朝日はだれと、なんの話をしているのか……ヲタは顔を上げたい衝動を必死に堪えた。
 次の瞬間、女たちにわずかなざわめきが起きた。
 「まいぷるさんっ――」朝日が小さく叫んだ。
 「危ないっ」だれかの声。
 安堵の息がいくつもした。どうやら、まいぷるが倒れそうになり、だれかがすんでのところでそれを支えたようだ。
 するとそれとほぼ同時に、空で異変が起きた。
 滑空していた鳥たちの声が一斉に止んだのだ。
 今の今まで聞こえていた、鳥たちの狂ったように泣き叫ぶ声が、一斉にぴたりと止むことなどあるだろうか。ヲタは反射的に顔を上げた。
 馬路須加女学園上空を包囲するように旋回していた鳥たちの動きが乱れ始めていた。円を描きながら飛んでいた鳥たちが、てんでんばらばらに散っていく。それまで秩序を保っていたかのように見えた異種の鳥たちが、同じテリトリーにいることに突然気づき、カラスが鳩や雀を威嚇し出した。それはまるで――催眠術から解けたような……。
 ヲタの頭に、唐突にある考えが浮かんだ。しかしヲタはそれをにわかには信じられなかった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。マンガや映画では見たことがあるが、現実には超能力などないのだ。
 鳥を操れる人間などいるわけがない。
 が――ヲタはとある一人の女の存在を思い出した。
 馬路須加女学園ラッパッパ四天王、トリゴヤ――。
 触れることで人の心を読み、トラウマを引き出し、精神を揺さぶる恐るべき女。
 それだって、普通に考えればありえない存在のはずだ。しかしトリゴヤは実在し、その能力で四天王の地位に就いている。
 《こちら》にそんな人間がいるのだとしたら、《あちら》にもそんな人間がいなくては《アンフェア》ではないか。まるで意味のない理屈だが、ヲタはそう考えると、なにかがしっくりといった。
 この鳥たちは、《まいぷる》が操っているのではないか――現実の光景と先ほどの会話が、その仮説を裏付けている。
 だるまはじっと、アリ女たちの動向を見つめている。ヲタは自分の仮説を説明すべきか迷った。しかし、声を上げたらアリ女に見つかるかもしれない。また、説明したところで事態が好転するわけでもない。ヲタはそう結論し、なにも言わずにいようと決めた。
 それにしても自分たちはいつまでここに隠れていればいいのか。アリ女の連中がずっとここにいるわけはないが、かといってだるまと二人でこうしているのも耐えられそうにない。
 どうするべきか思案しているとき、ヲタは天啓のように、とあることを思いついた。校舎の中にいるはずのバンジーに、いま状況を伝えるのだ。《まいぷる》が鳥を操っているかもしれないという情報は、なにかの役に立つかもしれない。
 ヲタは緑のジャージの裾をめくって、スカートのポケットに手を入れた。そして携帯電話を取り出したとき、背後から聞き覚えのない女の声がした。
 「ゴキブリ二匹、みーつけたっ」



  【つづく】
 コミックマーケット84告知の二回目です。

 今回は『濡れ娘。』ではなく、『馬路須加女学園出版部』というサークル名での参加ですが、着衣入浴写真集の新作も作りました!!! 昨日から毎日、一着ずつ新作写真の告知をしています。

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 今日はこちらの衣装です。モデルは『濡れ娘。』初登場の はる さんです。
 衣装はなにかのコスチュームというわけではなく私服のワンピースです。ご覧のとおり、色変わりの激しい生地で、とってもすばらしい濡れ色が表現できました。

 他に4着の衣装を収録したDVD-ROM写真集は定価3000円のところ、コミケットでは2500円で販売します。あまりたくさん持って行かないので、必ず入手されたい方は以下のメールアドレスまでご予約ください。

 nuremusume@mail.goo.ne.jp

 件名を「コミケ予約」として本文にハンドルネームをお書きください。

 コミケまであと5日。ビックサイトでお会いしましょう!
 8月に東京ビッグサイトでおこなわれるコミックマーケット84に参加します。
 サークル名と配置は以下のとおりとなります。
 
 『馬路須加女学園出版部』
   8月11日(日曜日) 西館 "こ" 24a

 去年の夏にも参加しましたが、今回も新刊を出す予定です。
 もちろんこのブログで連載している『マジすか学園vsありえね女子高』をまとめて、大幅に加筆修正した『マジ女のいちばん長い日』の三冊目です。
 というわけで、このブログでの連載は一時中断します。
 まあ、いままでも実質的には何ヶ月も中断してたわけですが…(笑)。

 というわけで、8月11日に東京ビッグサイトでお会いしましょう!!!
 ■決戦―4■



 この屋上からは、それはまるで馬路須加女学園の上空にぽっかりと現れた雲のようにさえ思えた。密集した鳥の総数はまったくわからなかったものの、集まった鳥たちが急降下爆撃機のように校舎へ向かって突撃していく様子を、やや吊りあがった意思の強そうな大きな瞳を持った少女が、双眼鏡のレンズ越しに見つめていた。
 いま少女がいる屋上は、市内でもっとも高い通信会社のビルだ。建屋の中央には大きなアンテナがあるが、どんな役割を持ったものなのかはわからなかったし、そんなことはどうでもよかった。街――というか馬路須加女学園――が一望できる、この場所だけが重要だった。
 レンズの向こうに見える不思議な光景もこの離れた場所からはまるで現実味がなく、少女は世界の広さを感じた。あのちっぽけな学校でなにが起ころうと、いま自分が立っている地点にはなんの影響もない。校舎の中はパニックになっているだろうが、自分は落ち着いてそれを観察するだけだ。
 地上数十メートルの高さで吹く強い風が、濃紺の制服のワンピースの裾を膨らませ、少女の脚を太ももまで露出させた。しかし少女は少しも動かず、双眼鏡から目を離さなかった。太陽の光が制服の胸元に留められた、中央に『乃』という文字が彫刻された紫色の校章をキラリと輝かせた。
 「ね~え~、玲香ぁ……あたしにも見せてよぉ」
 背後から声をかけてきた松村沙友理を少女――桜井玲香は無視した。
 「あんたが見たってしょうがないでしょ?」桜井の背後にいた橋本奈々未が松村をたしなめた。
 「なんでなんよ~」
 「ほら、こうして指で丸を作って覗けば? 指望遠鏡のできあがり」
 「あ。ホントだ……って、こんなんで望遠鏡になるわけないでしょ」
 「ねえ玲香」橋本が呼んだ。「始まった?」
 「うん――始まってる」
 桜井は双眼鏡を顔から離し、振り返って橋本にそれを渡した。
 「あっ。貸してっ」松村がすばやい動きで橋本の手から双眼鏡を奪い取った。
 「――ったく……」橋本は松村を横目で見てため息をついた。 
 「すっごいっ」双眼鏡を覗いた松村ははしゃいだ声を上げた。「鳥がたっくさんむらがってるっ。なにあれ、笑える」
 「うっさいよ、あんた」松村を冷ややかな視線で射抜くように見つめたのは、三人から少し離れた場所にいた白石麻衣だった。「あたしたち、遊びに来てるんじゃないんだからね」
 「ホント。マジでうるさいんですけど」このビルから北に位置する馬路須加女学園ではなく、東の山を望む位置に立っていた生田絵梨花は迷惑そうに言って、自前の――桜井が持っているのは学校の備品だ――小さな双眼鏡を覗き込んだ。
 「まあまあ……ケンカしないでくださいよ」生田の脇にいる困り顔の秋元真夏が生田の肩を軽くたたいた。
 それを見て、巨大なアンテナの基礎となっているコンクリートの台座に座っている星野みなみがふっと鼻で笑うと小声でつぶやいた。「バカみたい……」
 「玲香」と橋本。
 「ん――?」
 「どっちが勝つと思う?」
 「マジ女」桜井は即答した。 
 「どうして?」
 「勝ってくれなきゃ困るから――かな」桜井はふっと笑った。
 「なんだ願望か」
 「願望だろうがなんだろうが――」桜井の表情から笑みが消え、いつものするどい目つきになった。「マジ女はわたしたちがいつか倒さなくちゃいけない相手。アリ女なんかに負けてもらったら困るわ」
 「そうね」橋本はうなずいて背後を見た。「でもそのためには――あの子に覚醒してもらわないと」
 桜井も橋本の視線の先を追った。
 そこには細い体躯をあやつり、空手の形のひとつ、抜塞を繰り返し練習する美少女がいた。
 少女は先ほどからみんなのやりとりはおろか、馬路須加女学園の様子にさえ興味を持たず、ただひたすらに型を体に染み込ませようとしていた。彼女の体が機敏に動くたび、スカートの裾が弾んだ。
 少女はこの場に来ることを最初は拒んだ。そんな時間があるのなら自分は『ノギ女』に残って研鑽していたいと少女は言った。しかし桜井は彼女を強引に誘った。いずれ戦う相手の本拠を見ておくのも大切だ、と。
 「生駒ちゃん……ね……」桜井玲香は生駒里奈を見るたびに思う。いまはまだ彼女にマジ女の生徒と渡り合える力はない。しかし、彼女が自分の本当の力に目覚めれば――。「ま――。まだ当分先の話だわ」
 「私たちが卒業するまでに間に合うといいけど」
 「そうね」桜井はうなずいて生駒に向かって、「生駒ちゃん。こっち来な。始まってるよ」
 生駒はその声で動作をやめ、こちらを向いた。汗にまみれた十七歳の顔には笑顔が浮かんでいた。そして生駒はつかつかとやや前のめりの姿勢で歩いてきた。
 「松村。渡して」橋本が厳しい口調で言うと、松村は渋々双眼鏡を生駒に渡した。
 生駒は屋上の縁まで進むと双眼鏡を目にあて、馬路須加女学園のほうに向けた。
 桜井は生駒の顔を見た。
 薄い唇が少しずつ笑みを浮かべてきた。「――おもしろい……もっと近くで見たいな」
 「今日はダメよ」
 「なら、もういい……」生駒は双眼鏡から目を離し、桜井にそれを放った。
 そのとき、東側にいる生田が声を上げた。
 「あっ……あれ……あんなとこにマジ女の生徒がいる」
 「えっ」桜井は早足で生田に近づいた。「どこに?」
 「ほら。あのコンビニから出てきた」
 桜井は双眼鏡をのぞいた。倍率が高すぎて目標をなかなか見つけることができなかったが、しばらくしてコンビニエンスストアの駐車場を歩く二人の女が視界に入ってきた。ひとりは緑のジャージを、もうひとりは引きずるくらい長いスカート丈のセーラー服を着ていた。
 顔には見覚えがあった。桜井は馬路須加女学園の教職員のネットワークに侵入して入手した生徒名簿の写真をすべて覚えている。
 ジャージが指原莉乃。セーラー服が鬼塚だるま。
 まちがいはなかったが、指原と鬼塚がなぜここにいるのかはわからなかった。馬路須加女学園はいま大変なことになっているというのに、ふたりは呑気にコンビニでお買い物というわけか――。
 「どうしていまごろこんなところに……」桜井は双眼鏡を顔から離し、裸眼でふたりを見下ろした。
 「遅刻でもして、まだ知らないんじゃないですかね」松村が軽い口調で言った。
 「知らないなんてありえない。だれかが携帯に連絡するはず」
 「忘れてきたとか……」
 「ふたりとも?」
 松村はそこで黙りこんだ。
 桜井は指原と鬼塚が向かった方向を見つめた。その先にあるのは馬路須加女学園だ。
 なにか自分たちに窺い知れない事情があって、二人はいま学園にいないのだろう。それがなんなのかはわからないが、捕まえて聞くわけにもいかない。自分たちのこの偵察活動は極秘におこなわれているのだから。いずれにしろ二人がマジ女に行こうとしていることはたしかなようだった。
 ふと、桜井は生駒に視線を移した。
 生駒里奈は右手の人差し指と親指を立てて拳銃を模すと、その腕をまっすぐに指原と鬼塚へ向けていた。
 大丈夫だろうか、彼女で――。
 桜井の胸に不安がよぎる。
 そこへ白石麻衣が風のように近寄ってくると、そっとこう言った。「生駒ちゃんがダメなら……あたしがいるから……」
 桜井は白石を見つめた。
 「あたしはいつだっていける。いまだっていい」力強い目つきだった。
 「たしかにいまのあなたなら生駒ちゃんより強いでしょうね。でも強いだけじゃダメなの。先頭に立つ人間はそれだけじゃダメ。そしてその足らないものは生駒ちゃんもあなたも――ノギ女のだれもがまだ持ってない。だからいまマジ女なんかと闘ったら……」桜井はたくさんの意味を込めて白石に笑顔を向けた。「ぼろかすにされて終わりよ」
 白石はなにかを言おうとしたが、桜井は彼女に背を向けた。そしてみんなに聞こえる大きな声で叫んだ。「さっ。帰るよっ。視察はおしまいっ」
 私たちにはまだまだやらなくてはいけないことがある。それを知っただけでもここに来て正解だったと桜井は思い、みんなが後ろに続く気配を察知して、歩き出した。




  【つづく】
 ■決戦―3■



 峯岸みなみはこの《戦争》の指揮を執らせてくれと言ったことを、早くも後悔しつつあった。
 《開戦》したかどうかもわからないうちに、扉を閉じた生徒会室にいてもわかるほど校内は騒がしくなり、事態の推移を報せる電話は鳴りっぱなしの状態になった。佐藤すみれ、平松可奈子、小木曽汐莉、高柳明音、桑原みずきの五人は、片時も電話を離すことなく対応に追われている。そして、この五人はことあるごとに峯岸に判断を求めた。
自分宛にかかってきた電話に出るだけで精一杯の峯岸のいらつきは、数秒ごとに増していった。
 「会長、一階に鳥が……」
 「負傷者三名は体育館に搬送していいですか、会長?」
 「会長、救護隊が体育館で指示を待ってます」
 「一年A組が一階から二階への移動許可を求めていますがどうしますか、会長?」
 「会長、体育館に避難させたほうが」
 会長会長会長会長会長だ。
 指揮官とはもっと雄大に構えているものではなかったか……。峯岸がそんなことを考えたとき、バンジーから電話がかかってきた。一階の廊下に鴉や鳩が飛び込んできて現場はパニック状態になっているため、二階に生徒を退避させたいとバンジーは言った。しかし峯岸はそれを拒否した。生徒たちが二階に移動すれば、サドの立案が崩れてしまう。一から作戦を練り直している時間はない。
 「とにかく一階に留まって」
 「けど、あたしたち四人じゃ防ぎきれねえぜ」
 「いいからやって」
 「むちゃくちゃ言う……」
 バンジーのあきれたような声を無視して、峯岸は電話を切った。あとは現場の仕事だ。
 次の瞬間、今度はサドからの着信があった。峯岸は舌打ちをした。「みなみです」
 「一階がパニクってるようだが、現場は把握しているか?」
 「報告は受けてるわ」
 「報告だけか。現場にはだれも?」
 「なにしろ入ってくる電話に対処するだけで手一杯で……」
 「では、アンダーのふたりをそちらに回すから使ってくれ」
 「助かるわ」
 電話は向こうから切れた。
 なんとしてもうまく立ち回らなければならない。今後の生徒会がマジ女の実験を握れるかどうかの瀬戸際だ。
 ほどなくして、生徒会室にジャンボとアニメが現われた。


 ネズミは珠理奈の肩に手を置き、踊り場の折り返し部分の壁から向こうをのぞいた。階段の途中にはチームホルモンの四人がいて、バンジーはどこかに電話をかけている。ウナギとアキチャとムクチは階段を登って二階に退避しようとしている連中を必死に制止している。
 一階の廊下にはいまや百羽近い数の鳥が飛び交い、狂ったようなさまざまな鳴き声が、多くの生徒をパニックに陥れていた。むやみに凶器を振り回す者が人間にそれを命中させ、生徒同士の小競り合いすら起きている。その結果、早くも怪我をした者が現われ、救護班に任命されていた生徒が彼女たちに応急処置を施したり、体育館へと連れていった。鳥の抜けた羽や粉塵のようなものが舞う中、バカが慌てふためいているさまは愉快だった。
 とはいえ、ネズミの胸の奥ではさっきから不安が渦巻いていた。
 鳥がひとつの学校の窓ガラスを破って侵入し、人間を傷つける力などないはずなのに襲いかかる――そんな異常なことが自然に起きるはずがない。
 だが――でなければなんだ? だれかが鳥を操っているとでも……いや、アニメじゃあるまいし、そんなバカなことがあるわけが……。
 いや、ありえる。
 マジ女にも、バカげた存在がいるではないか。他人に触れることで過去を《視る》ことのできる女が……。
 人の過去を《視る》人間がいるのなら、鳥を操る人間がいても不思議はない。
 しかしネズミはアリ女にそんな人間がするとは聞かされていなかった。なぜ、聞かされていなかったのか。《能力》を持つ人間がいるのかどうかなどよりも、そちらのほうがはるかに重要だ。
 「早く図書室に行こう」珠理奈が耳元で言って、ネズミの手をつかんだ。踊り場の上にある窓ガラスに、カラスがまた、ドンッと大きな音を立ててぶつかってきた。「ここは危険だ」
 珠理奈に引っぱられ、ネズミは階段を登り始めた。
 二階に到達しようかという、その瞬間、背後で踊り場の窓ガラスが割れるけたたましい音が響いた。それと同時に、二階のどこからかいつの間にか侵入してきた十数羽のカラスが、一斉にこちらに向かって飛来してきた。その急襲に、ネズミは恐怖を感じて立ち止まった。カッと開かれたその口が気持ち悪くて、ネズミは短い悲鳴を上げた。
 「――まゆゆっ」
 振り返った珠理奈がネズミの体に覆いかぶさってきた。
 その勢いでふたりはいったん宙に浮き、そして階段から転げ落ちた。カラスはふたりの頭上を通過していった。
 ネズミはとっさのことに、珠理奈の体を強く抱きしめた。珠理奈がしっかりとネズミの頭と体を守ってくれたおかげで、ネズミはほとんど痛みを感じなかった。珠理奈が身を挺してくれたのか、それとも偶然なのかわからなかったが、踊り場の床に落ちたとき、下になったのは珠理奈のほうだった。
 「珠理奈っ、ごめん」
 珠理奈は痛みをこらえるような表情の中に、むりやり笑みを浮かべた。「――ぼくは……大丈夫さ……まゆゆ、は……」
 「大丈夫、珠理奈が守ってくれたから……」
 「それなら……安心……だ」
 珠理奈はまた笑った。
 ネズミは体を起こし、珠理奈に手を差し出した。
 握った珠理奈の手に、ぬるりとした感触があった。
 ネズミは自分の手を反射的に見た。真っ赤に染まった手のひらがあった。
 「ちっとも大丈夫じゃないじゃないか」ネズミは珠理奈を正視した。「どこを怪我してるんだ?」
 「右腕がズキズキする……。あと、足首も挫いたみたい……。でも大丈夫だよ、こんな傷……」
 珠理奈の腕をやさしく持ち上げるようにしたネズミは、上腕部に深々と刺さったガラスの破片を見つけた。ネズミは驚いたが、割れたガラスの上に転がり落ちたのだから、怪我をしないほうがむしろ不思議なくらいだった。
 ネズミは恐怖した。
 血を見たことにではない。自分を守るべき存在がもっとも必要である、この事態の真っ最中にそれが失われるのではないかということに、ネズミは恐怖した。
 「ぬ、抜いたほうが、い、いいのかな……」喉の湿り気が一瞬でなくなり、声が突っかかるようにしか発することができない。若干の震えもある。
 「抜いて……そのあと、なにかで強く……縛って……」
 ネズミは震える指先で、注意深くガラス片をつかみ、なるべく刺激をしないようにまっすぐにそれを引き抜いた。もともと濃い紺のセーラー服を、血の赤がみるみるうちに侵食し、その色を黒に染めていく。ネズミはポケットからハンカチを出して、傷口の上からきつく縛った。
 「おいっ、大丈夫かっ」
 振り返ると、チームホルモンのウナギがいた。ふたりが転落した音を聞いて駆けつけたようだ。
 「怪我してんじゃねえか」声をかけてきたウナギは、珠理奈のかたわらにしゃがむと腕の傷を見た。「体育館に行ったほうがいい。あそこならキケンに手当てしてもらえる」
 「でも、足も挫いたみたいで……」
 ウナギがちらりとネズミを見て、「ひとりじゃ支えられないだろう。あたしも肩を貸すから一緒に行こう」
 冗談ではない。珠理奈にはこれから自分を守ってもらわなくてはいけないのだ。腕を負傷し、足を挫いた珠理奈にボディガードが務まるのかどうかは疑問だが、とにかくネズミは彼女から離れたくなかった。「なんとかなるッスから、先輩たちはあっしらにかまわず……」
 「ぐずぐず言ってると、また鳥が来ちまう」ウナギは座り込んだかと思うと、珠理奈のわきの下に腕を入れ、すぐに立ち上がった。「痛てぇだろうけど、ちょっと辛抱してくれ」
 「――は、はい……」
 有無を言わせぬウナギの態度に、ネズミは仕方なく反対方向から珠理奈の体を支えた。
 


  【つづく】
 ■決戦―2■



 元チームホルモンの四人は一階へと向かう2年生の殿をつとめ、生徒たちを一階へと誘導していた。篭城作戦の序盤で殿もなにもなかったが、元チームホルモンはラッパッパの命令で2年生たちを統率する役目を担っている。本来はプリクラもここにいるはずだったが、純情堕天使のオリジナルメンバーたちはいまは校庭周辺の巡回をしているはずの時間だった。といっても、アリ女が姿を現したことは知っているだろうから、そろそろ合流できるはずだ。
 バンジーがガラスが砕けるような音を聞いたのは、あらかたの生徒たちを階下に誘導し終えたときだった。
 「え。もう来たのか?」ウナギが踊り場で立ち止まった。
 たしかにいまの音は、投石かなにかでガラスが割れたようにも聞こえた。しかし、ほんの一分前にアリ女の連中はまだ正門の向こうにいた。ガラスを割るほどの攻撃ができるほど近づいたとは思えない。バンジーは混乱しつつあった。階下が必要以上に騒がしいこともそれに拍車をかけた。ケンカの始まる前の高揚感は、逆に人を落ち着かせるものだ。
 「まだ校舎の中には入ってきてねえだろ」アキチャがつぶやく。
 「行ってみよう」バンジーはみんなをうながし、駆け足で階段を降りた。
 叫び声と驚いた声が波のように響いてきた。
 一階の廊下が見えた。狭い場所に武装した生徒たちがひしめきあいながら、口々になにかを叫んでいる。それらの断片的な言葉には、「鳥」や「カラス」といった単語が多く含まれていた。
 生徒たちの頭上――わずか十センチあまりの高さ――を、黒く大きな鳥が狂ったように翼をバサバサと動かしながら飛んでいる。飛ぶことのできない哀れな人間たちは頭をすくめてカラスとの接触から逃れようとした。しかし満員電車の車内と化した廊下では思うように身動きがとれず、配置されていた百人以上の生徒たちは混乱し、体をぶつけあっている。
 「おいっ」だれかの金切り声。「そのカラス、窓開けて逃がせっ」
 「ざけんなっ」他のだれかが反論した。「他のやつまで入ってきちまうだろ」
 そうしているあいだに、侵入したカラスがひとりの生徒の背後から接近し、後頭部を足で蹴った。マスクをしていた生徒は死角からのカラスの攻撃に、ギャッと叫んで頭を押さえた。それがパニックの引き金だった。その生徒がカラスに攻撃をされるのを見ていた別の生徒が悲鳴を上げた。さらにその声に驚いた隣の生徒が人を掻き分け、どこかへ逃げようとした。彼女に体をぶつけられた生徒は、「ンだよっ」としかめっ面で振り返った。そこにカラスがやってきて、ふたたび足で生徒を蹴った。うわっとみんなの声が上がる。人の波がうねる。
 冷静な判断力を失っただれかが窓を開けた。
 鳥たちがすさまじい勢いで侵入してきた。今度は一羽どころではない。少なく見積もっても数十のカラスやハトやスズメが廊下に飛び込んできた。バットを持った者が天井に向けてそれを振り回した。逃げた鳥たちが壁や天井にぶつかり、狭い廊下に白や黒や茶の羽が舞った。
 「おい、バンシー。ヤベえぜ」アキチャが顎で階下を示した。
 すでに数人が一階から脱出しようと、こちらに向かって階段を登ってきていた。
 まずい。バンジーはその生徒たちの前に立ちふさがった。
 「おい、邪魔だ。どけよ」長髪で厚化粧をした、昔ながらのヤンキースタイルの女がガンをとばしてきた。
 「所定の位置に戻れ」バンジーは毅然と言った。「ラッパッパの命令はまだ生きてる」
 「てめえ、見てわかんねえのか?」女は自分の背後を親指で示した。「ケンカどころじゃねえよ」
 「単なるアクシデントだ。じきに落ち着く。こうしているあいだにも、アリ女がやってく……」
 バンジーの声は、ふたたびガラスが割れる音と、より大きな悲鳴でかき消された。
 いまや鳥たちは廊下の天井直下にあふれかえり、鳥同士でぶつかりあっていた。廊下のいたるところに数十、数百の羽が舞い、動物特有の臭いが漂ってきた。なるほど、たしかにケンカどころではない。しかしバンジーたちはラッパッパの命令を受け、一年生と二年生を一階に留めておく役割を担っている。引くわけにはいかない。
 「とにかく持ち場にもど……」
 バンジーがそこまで言ったとき、背後で大きな音がした。反射的に振り返ったバンジーは、踊り場の窓に次々と体当たりをしているカラスを見た。
 「マジかよ……」


 「騒がしいな。もう来たのか……」『部長専用』の一人掛けソファに脚を組んで座っている大島優子がつぶやいた。
 階下から悲鳴や咆哮に似た音と振動が、扉を閉めた吹奏楽部部室にかすかに届いていた。
 そんなはずはありません、とサドは答えようとした。校門の向こうにアリ女の姿が見えたと報告があったのはついさっきのことだ。だが、そう言いきれない不安がサドの胸には渦巻いている。サドは優子との闘いから回復したジャンボとアニメに目配せした。二人はすぐさまうなずき、脱兎のごとく扉を開けて部室から消えた。
 「やけに鳥も騒がしい」大島優子は顔だけを窓に向けた。
 「鬱陶しいですね」サドは短く答えて、昭和を見た。「屋上からの報告は?」
 昭和はあわてて携帯電話を取り出し、屋上の歩哨に電話をかけた。そして短く二三言話すとサドに報告をした。「まだ校庭には侵入していないそうです。校門の前で立ち止まったままで……」
 《なんで入ってこない?》サドの不安はより大きくなった。
 吹奏楽部部室は校庭に面しておらず、窓からその様子をうかがうことはできない。サドはもどかしくなり自分の目で状況を確認したかったが、優子のそばを離れたくなかった。
 サドの携帯電話がなった。アニメからだ。「どうなってる?」
 「鳥が」アニメの声は上ずっていた。「鳥でパニックになってます」
 「鳥、だと?」
 次の瞬間、優子が座っているソファの背後にある窓に、なにかがぶつかる音がした。振り返ると、ガラスに当たったハトが気絶でもしたのか、腹部をガラスに密着させたまま、つーっとすべり落ちていくのが見えた。
 いや――正確には、ぶつかったというより、体当たりをしたというほうが正しいようだった。そのハトだけではなく、続いて何羽ものスズメやカラスが続々とガラスに正面から突撃してきたからだ。その様子は、まるで無謀とわかっている軍事作戦に捨て駒として投入された兵士を連想させた。
 サドは携帯電話の向こうのアニメに言った。「こっちも鳥が騒がしい」
 「鳥がどうした?」優子が眉をしかめた。
 「はい。一階で騒ぎになっているそうです」サドは答えて、アニメとの通話を切った。そして続けざまに、二階の生徒会室にいるはずの峯岸みなみに電話をかけた。


  【つづく】
 ■決戦―1■



 馬路須加女学園三階の生徒会室に置かれた三十台ほどの携帯電話のいくつかが、ほぼ同時にけたたましく鳴りだした。
 テーブルに就き、それを待ちかねていた生徒会役員たち――小木曽汐莉、高柳明音、桑原みずき――は携帯電話をひったくるように取り上げ、通話を始めた。
 峯岸みなみは反射的に立ち上がり、喉の渇きを潤わそうと唾液を飲み込み、三人の報告を待った。
 少しすると小木曽がこちらを見て無言でうなずいた。峯岸は握りしめていた自分の携帯電話を開き、サドの番号を呼び出そうとボタンを押したが、指先が震えてうまく操作できず苛立った。その間に、生徒会室に隣接している放送室の扉の前でスタンバイしていた佐藤すみれが、放送室へと脱兎のごとく突入した。
 峯岸は落ち着こうと、いったん携帯から指を離して、高柳に訊ねた。「方角は?」
 「正門です」
 「数は?」
 「確認されただけでも五十人です」
 「少ないわね」
 「少数精鋭?」
 「あるいは後続が……」
 峯岸の声は、佐藤が放送を始めたサイレンにかき消された。


 あらかじめ知らされていたとはいえ、突如鳴り響いたサイレンの音に、教室は騒然となった。多くの生徒が、敵の姿を見ようと窓際に殺到した。
 机の上に座り、このときを待っていたバンジーは無言で元チームホルモンのメンバーと目を合わせた。ウナギ、アキチャ、ムクチの三人は黙ってうなずいた。四人は一斉に立ち上がった。
 数十人の生徒が群がっている窓際には立錐の余地もなかったので、バンジーは近くにあっただれかの机の上に乗り、立ち上がって同級生の頭越しに外を眺めた。
 まず気づいたのは、空の暗さだった。さっきから学校の上空を旋回している鳥の数はいつの間にか数百にまで増え、それが校庭や校舎に影を落としている。鳴き声や羽ばたきの音もこれだけの数がいると幾重にも重なり、とても気持ちの悪い光景だった。
 バンジーは視線を落とし、正門の向こうの道を見た。アリ女の制服を着た女たちが歩いている。この位置からではだれがだれだか判別できなかったが、あの中に朝日奈央がいるのかと思うと、バンジーの胸の中に小さな炎が上がった。
 「――間に合わなかったな……」
 ウナギがバンジーの体につかまりながら、机に登ってきた。
 「ああ。けど、まだ始まっちゃいねえ」
 「あいつが来る前に、朝日に会ったらどうする?」
 「――シメる。あたしだって、あいつにやられたんだ」
 「とっといてやらねえのか?」
 「朝日になんて言う? ヲタが来るまで待ってろ、と?」
 「そりゃそうだな」
 「あいつに運があれば、あたしたちより先に朝日と遭遇するさ。なけりゃあ――あたしがシメるまでだ」バンジーは言ってしまってから、みずからの言葉に苦笑した。朝日をシメる――できるのか、あたしに……。「ま。もっとも、あたしがシメる前にだれかがやっちまうことだってあるしな」
 「そりゃそうだな」
 鳴り響いていたサイレンが止まり、教室の古いスピーカーからガサガサと雑音がして、峯岸みなみの声が聞こえてきた。「総員、配置について」
 わいわいと騒がしかった生徒たちが、声を上げたり体をほぐしたりして気合を入れはじめた。武器を持つものはそれを持ち、足早に教室を出て行った。二年C組は一階で敵を向かえ撃つことになっている。
 「あたしらも行こうぜ」
 「ああ……」
 バンジーはウナギに続いて机から下りた。

 
 一階の正面玄関に構築されたバリケードを、難波から来た三人は物珍しそうに見上げていた。
 「なんやこれ」山田菜々はだらしなく口を開いて、「よう作ったな……」
 「さすがは関東一の高校やな」山本彩は机の足をにぎり、何度かゆすった。
 「――登下校どうしてるんやろ」渡辺美優紀が小さくつぶやいた。
 マユミはプリクラ、ナツミとともに、この女たちをラッパッパのいる吹奏楽部部室まで『護送』していた。一度の戦闘からうかがえた雰囲気からは、この三人がアリ女のスパイや撹乱要員である可能性はほとんどなかった。そうであれば、これほど易々と捕らえられたりしないだろうし、あんなに無防備な侵入経路をたどるはずがない。裏の裏を考えれば、だからこそそうしたとも取れるが、それを判断するのは自分たちではなくラッパッパの役割だ。
 アリ女の襲撃を知らせるサイレンが鳴ったのは、階段を登ろうと一歩足をかけたときだった。階段のすぐ近くにスピーカーがあったため、音の大きさにマユミはかなり驚いた。
 「なんや、うるさいなぁ……」山本彩が眉をしかめた。
 「なにこれぇ……」渡辺美優紀が耳をおさえた。
 「これは――まずいですね」プリクラが立ち止まった。
 「どうします?」ナツミが訊ねた。
 「急ぎましょう」マユミは急かすつもりで提案した。早くこの三人を人の手に渡し、自分は闘いで戦果を挙げ、トップにのし上がるチャンスを逃したくなかった。
 だが、ラッパッパは開戦の準備で忙しいにちがいない。そこへのこのこと三人を連れて行ったらどうなるか。怒鳴りつけられるだけならマシかもしれない。場合によってはシメられることもありえる。なんにしても歓迎されないことだけはたしかだ。
 プリクラは腕を組んだ。迷っているようだ。
 と――階上から、どたどたと数十の足音が聞こえてきた。
 敵影発見のサイレンとともに、マジ女の生徒全員は決められた配置につくことになっている。一年生と二年生は一階に集結して人の壁をつくり、徹底的に敵の侵入を防ぐのがその役目だ。
 「今度はなんや……みんな降りてくんで」山本彩が階段を見上げた。
 「――仕方ないですね」プリクラは難波の少女たちを見た。「あなたたちは私の指揮下に入ってください」
 「シキカ……って、なに……?」山田菜々は、またぽかんと口を開いた。
 「この人の命令に従うってことや」山本彩が説明した。
 「なんでさっき会ったばっかりの人に命令されなあかんの……」
 「つべこべ言うてる場合やなさそうやで」
 数十の足音はいまや、階段の踊り場付近にまで響き、その直後には木刀やバットや角材を持った生徒たちがぞろぞろと現われた。生徒たちの多くは、ちがう制服を着た三人にガンを飛ばしながらも、プリクラが近くにいることに気づくと、アクションを起こすことはなかった。
 「なんやのこれ……」渡辺美優紀が不安げな表情になった。
 「いまから他校との戦争が始まるんです」プリクラはお天気の話をするような口調で言った。「いいときに来ましたね」
 「なんかおかしな雰囲気やと思ってたけど、そういうことやったんか」山本彩は苦笑いをした。「よりによって、そんなときに来たとは……あたしら運がええのか悪いのか……」
 「怖かったら体育館にでも避難するかい?」ナツミが廊下の向こうを指差し、山田菜々を見た。
 「怖い? そんなことあらへんよなあ、さや姉」
 「あたしは、な」
 その間にも、生徒の数は続々と増えていた。いまや廊下は血気盛んな女たちであふれかえり、緊張感と高揚感の入り混じった独特の雰囲気に満ちている。
 「とりあえず私たちは二階で待機しましょう」
 プリクラがそう言って階段を登りはじめたとき、マユミは廊下の窓の外の異変に気づいた。
 鳥――。
 鳥が窓の外を飛んでいる。それだけなら異変とは言えないが、スズメ、鳩、鴉、そして名前のわからない野鳥たちが狂ったように羽ばたき、暴れまわり、何十羽もの鳥たちが空中で衝突しているさまは、どう考えても正常とはいえなかった。
 何百――いや、何千もの鳥の群れは馬路須加女学園の一階から四階までを帯のように取り囲んでいるようだった。風を切る音と空気が窓ガラスを激しく揺らした。
 体育館へと向かう廊下のほうから、バンッという衝撃音が響いた。マユミが頭をそちらに向けると、十人ほどの生徒たちが窓から後じさりしていた。窓に鳥が衝突したらしい。だれかが悲鳴を上げると同時に「ンだよっ」、「鳥だ鳥っ」、「気持ち悪りいっ」などの言葉が聞こえた。
 それがきっかけだった。
 バンッ。
 バンッ。バンッ。
 バンッ。バンッ。バンッ。
 衝突音があちこちの窓から聞こえ始めた。音を発生させているのはもちろん鳥だった。意図的なのか、それとも数が多いために衝突してしまうのかはわからなかった。
 廊下に響くざわめきは次第に大きくなり、生徒たちは徐々に廊下の窓から離れた。
 マユミの胸の中に、じりじりとした恐怖が生まれつつあった。ケンカのときにはこんな気持ちを感じたことはない。どれだけ相手が強そうであっても、しょせんは人間であり、限界もうかがえる。だが、これは――。
 「さ。早く」異様な光景を目にして固まってしまったマユミたちを、プリクラがうながした。
 しかし遅かった。
 どこかの窓ガラスが割れる音が、生徒たちで埋め尽くされた廊下に響いた。  



  【つづく】
 ■決戦前―6■



 校内放送で大島優子の演説が始まったとき、ネズミははらわたが煮えくり返る思いでそれを聞いた。
 大島優子の参戦はネズミの描いたシナリオにはなかった。もちろん、当然それはありえるとは考えてはいたものの、こんなギリギリのタイミングとまでは想定していなかった。だれの意思が関わっているかはネズミにさえもわからなかったが、そんなことは闘いが迫っているいま、もうどうでもいい。
 しかも、戦いからは下りたはずの前田敦子まで来ているという。
 大島優子と前田敦子が参戦することによる、マジ女生徒全員の士気の高ぶりはすさまじかった。生徒たちが待機しているあちこちの教室からは高揚した歓声が上がり、体で喜びを表現する者たちによって、学校が文字通り、揺れた。
 これでは、マジ女が「勝ってしまう」かもしれない。
 マジ女は負けなければならない。ヤンキーどもは再起不能なまでに叩きのめされ、ぼろ雑巾のようにならなければいけない。いまの秩序を破壊し、新しい『ネズミ帝国』を興すのだから。
 そのための右腕となる珠理奈は、いまネズミと背中合わせになり、すやすやと眠っている。こんなときに眠れるなんて、この女はやはり只者ではない。この神経の図太さがあれば、新興ネズミ帝国の優秀な軍事力となるだろう。珠理奈を手に入れたことを、ネズミは本当に幸運だと思った。
 昨夜、星が見たいという珠理奈に誘われて登った屋上にある塔屋の上からは、マジ女の正門へと続くゆるやかな下り坂がよく見えた。アリ女の連中はそこから列を成してやってくるはずだ。ネズミはそのときを、いまかいまかと待っていた。
 《それにしても、この鳥はいったい……》
 どういうわけだか、一時間ほど前から馬路須加女学園の上空をたくさんの鳥が滑空している。鳩や雀や鴉があちこちでぶつかりそうになっているのにケンカもしないのは、まるでなにかに憑かれたのか、それとも操られているかのようだった。
 塔屋から見下ろした屋上には、歩哨役として二十人の生徒が配置されていた。下からこの位置は死角になって見えないが、ネズミの位置からはちょっと首を伸ばせばその様子がうかがえる。生徒たちは不安を隠せないのか、あるいはこれから始まる戦いに胸を躍らせているのか、いずれにしても落ち着きのない様子でマジ女へ通じる道を監視していた。
 ネズミはこれからの行動予定を、心の中で確認した。なにも難しいことはない。アリ女の連中が来たら、すぐに図書室に珠理奈と向かう。図書室は無人にしておき(だれかがいれば、珠理奈に排除してもらうだけだ)、そこをアリ女の橋頭堡として提供する。それによってネズミの安全は約束されていた。あとは勝負がつくまで待ち、すべてが終わったあとに『ケガの手当て』をしたネズミと珠理奈は廊下に転がっているところをだれかに発見される。それだけだ。
 フードのついたスウェットのポケットから携帯電話を取り出して開く。そろそろアリ女の連中が来る予定の時刻だ。
 「珠理奈、起きて」ネズミは肩越しに言った。
 「――ん……」珠理奈はゆっくりと両手を挙げて伸びをした。「始まるの……?」
 「そろそろ、ね……」
 珠理奈が背中から離れたので、ネズミは立ち上がった。
 マジ女へ続く登り坂の向こうに、大勢の人影が見えた。小高い岡の上にある馬路須加女学園への道は、一度登って少し下るようになっている。その道をいま、まちがいなくアリ女の制服を着た人間たちが登っている。個人は判別できないが、その数――ざっと五十人。生徒会以外の生徒も動員されているのは聞いていたとおりだった。
 初めてアリ女を訪れ、フォンチーと面会したのは三ヶ月以上前のことだ。そのとき蒔いた種が、ようやく実ろうとしている。ネズミは気分が高まっていくのを自覚した。
 「――来たよ、珠理奈」ネズミは坂道を指した。
 「ほんとだ」
 「珠理奈」
 「なんだい、まゆゆ」
 「そばから離れないでね」
 「もちろんだよ、まゆゆ」
 見つめ合った珠理奈の瞳を見て、ネズミは中学生のときに出会った、とある転校生のことを突然思い出した。
 年明けにネズミのクラスに転校してきた少女――カオル――はショートカットの髪型がとても似合っていて、背はネズミより遥かに高く、スレンダーな美人だった。中学生とは思えぬ、宝塚の男役を思わせるそのフォルムは、転校初日に全校の女子生徒に知れ渡っていた。ネズミでさえ、三次元の人間である彼女を美しいと思った。
 しかし毎日の陰湿なイジメに耐えていたネズミは、一躍クラスの人気者になったカオルに話しかけることはなかった。見た目だけでなく、そうした環境もあって、彼女と自分はちがう世界にいる人間だと感じていた。
 ところがある日、カオルがノートの片隅に描いていたマイナーなアニメのキャラクター(そしてそれは、驚くほど精密で上手かった)を見たネズミは、思わずその作品名を口にした。カオルはとても喜んだ。クラスには、このアニメを見ている人がだれもいないとあきらめていたと言う。
 二人は友だちになった。好きなアニメの話をたくさんしたり、おたがいが描いたイラストを見せ合ったり、デッキの設置してあるカラオケルームでDVDを見たりした。
 カオルと一緒にいることで、目に見えるイジメは鳴りを潜めた。表面化しないイジメは続いたが、ネズミはそれらをなかったこととしてふるまい、彼女にはなにも言わなかった。自分がみじめなイジメられっこだと知られたくなかった。
 だが幸せな日々は一年も続かなかった。カオルが突然、学校に来なくなったのだ。入院のためしばらく休校すると教師は説明した。体調不良という理由だったが、詳しいことはメールで訊いても教えてくれなかった。彼女自身が把握できていないように感じた。
 結果的にカオルは学校を去った。もっといい環境の病院へ移ったらしい。メールのやりとりはしばらくのあいだ続いてが、やがてどちらともなく途絶えてしまった。
 彼女はスポーツも得意だったから、格闘技をやっていたらそれなりの腕前になっていただろう。入院や休校をしなければ、いま自分の横にいるのは珠理奈ではなく、彼女だったかもしれない。
 あるいは二人とも――。
 そう、二人が並び立ったとすれば、その姿はどれだけ美しかっただろう。一度でもいいから、その勇姿を見てみたかった。絶対にかなわぬことだが、だからこそネズミは夢想した。
 「――まゆゆ?」気がつくと、珠理奈がネズミの瞳を覗き込んでいた。
 「――ああ。ごめん。ちょっと考えごとしてた」
 「別の女のこと考えてたね」
 「え」
 「やっぱりだ」珠理奈はほんの一瞬だけ、怖い目になった。「ぼくはまゆゆのことならなんでもわかるよ」
 「でもちがう――そういうんじゃない……」
 「いいんだ。まゆゆがだれを思おうと。ぼくがまゆゆを思うことに変わりはない」
 ネズミは軽い恐怖とうれしさを同時に感じ、少しはにかんでみせた。
 《よろこんでる――あたしが?》
 ネズミはその感情を否定した。珠理奈の怖さを垣間見たとはいえ、自分が楽しさやうれしさを感じることなどないはずだ。そんな人間らしい――あるいは人間が持って当たり前の気持ちなど、とっくに捨てた。こんなゴミ溜めみたいな、クズしかいない場所にいる限り、そんなことがあるはずがない――。
 ネズミは珠理奈から視線を逸らした。
 眼下の、双眼鏡で通学路を見張っていたひとりの生徒が声を上げた。それをきっかけに、周りにいたほかの生徒たちは騒然となり、通学路の見える位置に殺到した。あの位置からも、アリ女の生徒たちの姿を確認したのだろう。ある者は携帯電話で連絡を取りはじめ、ある者は校舎内に向かって駆け出した。
 いよいよだ。
 ネズミはさすがに緊張に包まれた。心臓の鼓動が少し早くなり、喉も渇きだした。
 「さ。行こう」ネズミは珠理奈をうながした。「パーティーが始まるよ」 



  【つづく】
 ■決戦前―5■



 目の前の大島優子の姿を実在のものと認識するまで、サドにはしばらくの時間が必要だった。
 自分の思考がこれほど混乱したのは初めてだ。交感神経が興奮し、瞳孔が開き、心臓が早鐘を打つ。血圧を測れば異常なほど上昇していただろう。
 どうしてここに? だれかに訊いたのか? だれかが教えたのか?
 それらの疑問が一塊になってサドの脳裏を巡ったが、いくら考えたところでわかるわけがなかった。
 次にサドは、これが自分の夢の続きである可能性を考えた。自分はまだ裸のトリゴヤを無意識に抱きまくらのように抱いたまま夢を見ているのではないか――。
 だがそんなはずがなかった。自分はいま、しっかりとした意識で立っている。夢の中で冷や汗を感じるだろうか。細かな脚の震えを感じるだろうか。そして、なにより、圧倒的な恐怖を感じるだろうか。
 「――どうしたサド?」静寂を破ったのは、優子だった。その声はとても遠くから聞こえたように、サドには思えた。「あたしがここにいたらおかしいか?」
 サドは恐怖で答えられなかった。言葉を発すれば、すべてを優子に見抜かれるような気がした。
 優子は表情に怒りをあらわしていない。それどころか笑顔を浮かべているように見えるくらいだ。だがサドは知っている。優子がもっとも恐ろしいのは、この表情のときだ。一見、冷静に見える優子の胸のうちは、いま満身の怒りに満ちている。優子がそれを制御せず、自分のリミッターを解除したときの恐怖をサドは身をもって知っている。
 「なんで黙ってる?」
 優子はソファに座ったままなのに、サドは自分の胸倉をつかまれ引っぱられているような威圧感を覚えた。
 なにか答えなければならない。サドは必死に考えようとした。だが、そうしようとすればするほど頭の中にはなにも浮かんでこなかった。
 優子はそんなサドの内心に気づいたのか、ふっと苦笑した。「おまえがあたしになにかを隠していることは知っていた。けど、登校してきて、さすがにびっくりしたぜ。あちこちにバリケードが組んであるわ、歩哨はいるわ……どんな祭りがはじまるかはなんとなく察しはつく。が、あたしはおまえの口から聞きたいんだ、サド。答えてくれるな?」
 「私は……」
 沈黙が怖くて、サドはようやくそれだけの言葉を発した。しかしあとが続かない。それ以上話せば、優子の病気に言及してしまいそうだった。
 「私は――なんだ?」優子はまだ笑顔のまま言った。
 「勝手な真似をして、すみませんでした」サドは頭と膝がくっつきそうになるくらいに腰を曲げ、頭を下げた。とにかく謝るしかない。なにを言われても謝り続け、優子の怒りを静めるのだ。
 「だれが謝れって言った? あたしは理由を聞きたいんだ」
 「――すみませんでした」
 そのままの姿勢で繰り返した。
 優子の病気――いや、わずかな命のことだけは知られるわけにはいかない。自分が泥をかぶって済むなら、いくらでもかぶってやる。
 しばらくの静寂があった。
 頭に血が上ってきたが、サドは我慢した。優子がいいと言うまで、そのままでいるつもりだった。優子の表情はうかがえないし、近づいてきてヤキを入れられるのではないかという恐怖もあった。いや、そうなってもかまわないから、このまま質問を切り上げてほしい。
 「――そうやっていれば、あたしがあきらめるとでも思っているのか、サド。顔を上げろ」
 サドは仕方なく姿勢を戻し、優子を見た。目の前が少しクラッと揺れた。
 「おまえがなぜ、あたしにこの祭りのことを黙っていたか――だいたいのところは察しがついている。あたしの病気のことだろう?」
 核心を突いた優子の言葉に、サドは体を硬直させた。話をそらすべきだ。しかし、どうすればいいのか、サドにはわからなかった。
 「おまえは病気のあたしの体を気遣って、あたしに負担をかけないようにと、独断で祭りの用意をした――そんなところか?」
 「――はい……」サドはからからに渇いた喉から、ようやく声を絞り出した。優子の話にサドは少しほっとしたと同時に拍子抜けをした。そのくらいの認識であれば問題はない。「優子さんには余計な心配をかけたくなかったもので……いまはなにより、安静が必要ですから……」
 よし。これでいこう。この理由で押し切るのだ。言葉にしてから、サドは最初からこの理由でよかったのだと気づいた。どうしてこんな簡単なことがわからなかったのか。あくまでも優子には安静を願うのだと言い張ればいい。残り少ない命であることに触れる必要はない。安心したせいか、口の中に湿り気が戻ってきたような気がする。サドは渇いていた唇を、そっと舌で舐めた。
 だが、そうして徐々に落ち着きを取り戻しつつあるサドを、優子の訝しげな視線が貫いた。「――なるほどな……。けど、その理由がすべてとは思えねえな」
 瞬時に、サドは悟った。
 優子はサドの言葉を信じていない――まったく。
 湿らせたはずの舌が、ふたたび渇きはじめた。
 「おまえがいつまでたっても本当の理由を言わないのなら、あたしが言ってやるよ。サド、おまえがあたしに内緒でこんなことをしているのは、あたしがもうすぐ死ぬからだろう?」


 殴られたわけでもないのに、サドの目の前に火花が散った。そして自分の立っている床が突然ゼリーのように柔らかくなったような感触があり、なにかにつかまらないと倒れそうな錯覚に襲われた。
 同時に吹奏楽部の部室がざわめいた。背後から、みんなの視線が背中に突き刺さるのをサドは感じた。
 《優子さんは知っているっ……?》
 なぜだ?
 どうして?
 いつから?
 瞬時にそれらの疑問が浮かび、サドの脳を駆け巡った。
 「図星だな」優子のかわいい八重歯が見えた。「おまえがどうして、あたしの体のことを知ったのかはわからねえが、ンなことはどうでもいい。とにかくおまえはあたしの命があとわずかだと知っていた。そして、抗争のことを知ればあたしが黙っていないと考え、すべてを自分で処理することにした。ちがうか、サド?」
 だがサドには、その言葉の意味は半分も頭に入ってこなかった。
 《もうすぐ死ぬかもしれないというのに、優子さんはどうしてそんなに平然としていられる?》
 優子の様子にいつもとちがった様子は微塵もないのだ。
 《たった十八年しか生きていないのに。人生の楽しみはこれからなのに。それなのに、なぜ……》
 自問するサドだったが、答えには薄々気づいている。
 それが大島優子だからだ。
 目の前に堂々と座り、なにものも寄せ付けない王――大島優子。
 みずからの死すら、大島優子を動じさせることはできない。
 それほどの人物だからこそ、サドは大島優子に従い、そして愛したのだ。
 サドは恥じた。
 自分如きの小さな人間が、大島優子の命を守るなどと考えたことを……。
 「BINGO! ……だな」優子はまた笑った。あの屈託のない笑顔で。
 「優子さん……どうして……それを……?」
 サドはなんとか、それだけの言葉を絞りだした。この部屋にいる、すべての者を代表した問いかけだった。
 「自分の体のことは自分がいちばんよくわかる。頭痛や立ちくらみは毎日だし、痛みも尋常じゃねえ。ここんとこ食欲もなくなってきてる。しかも医者や看護士は腫れ物に触るみたいにオドオドして、あたしのむちゃくちゃな要求にも応えようとする。あたしが入院しているヤクザたちとつるんで博打をしても、無断外出をしても、おかまいなしだ。残り少ない命を好き勝手に使わせてくれているんだろう」優子はゆっくりと話しすと一息置いて、「サド、あたしをかわいそうだと思うか? あと一ヶ月も生きられそうにない、たった十八年しか生きられなかった、あたしを?」
 《もちろんだ》
 サドは間髪いれず、そう思った。しかし、即答できなかった。
 十八年――たった、十八年。
 人生が楽しくなるのはこれからだ。
 健康であれば、たくさん遊び、たくさん愛をはぐくみ、たくさん笑える――これから数十年間も……。
 なのに、もうじき優子さんは死ぬ。
 かわいそうに決まっている。
 「おまえの気持ちは顔に書いてあるな。いや、おまえだけじゃねえ。シブヤ、ブラック、アニメ、昭和、ジャンボ、ライス――おまえらもそうだな」
 だれも返事をしなかった。サドは振り返らなかったが、みんなの表情がこわばっているのが空気で伝わってくる。
 「――ところが、あたしはそうは思ってねえんだよ」そのときの優子の瞳に、ウソや強がりはなかった。サドにはわかる。大島優子はそんなことをする小さな人間ではない。「むしろ、あたしをかわいそうだと思ってる、てめえらのほうがよっぽど哀れだ。なんにもわかってねえ。いいか。人間なんて死ぬときは簡単に死んじまうもんだ。本当にあっけない。さっきまでピンピンしていたやつが、一分後に車にはねられて死ぬ。ケンカで刺されて死ぬ。風呂場で足を滑らせ打ち所が悪くて死ぬ。乗っていた飛行機が落ちて死ぬ。家が燃えて逃げ出せずに死ぬ――あるいは、とんでもねえ災害に巻き込まれて、な……。そんなことはだれの身に起こってもおかしくねえ。てめえらの命を担保してくれるモンなんて、この世界にはなにひとつねえんだ。明日、てめえらが生きてるってだれが断言できる? 明日、あたしが死ぬってだれが言い切れる? 病気の進行が理由もわからず突然止まった例なんて山ほどある。あたしはこれから何年も生きるかもしれない。そして、てめえらは明日死ぬかもしれない。だれにもわからねえ。ただ、ひとつだけ絶対揺るがねえもんがある。いま、この瞬間、あたしたちは生きているってことだ」
 だれかがすすり泣く声が聞こえた。
 「なんの根拠もなく明日が来ると信じ込んでいるから、目の前の病気の人間を哀み、日常が薄くなる。あたしがかわいそうなら、てめえらはもっとかわいそうだ。自分の命がこの先何十年も続くと勝手に思い込んでいるんだからな。いいか、今しかねえんだ。だれにとっても、命はこの一瞬一瞬にしか存在しねえ。そしてだれもがいずれ死ぬ。だからこそ、生きるってのはキラキラしてんだろ。それが――あたしがここにいる理由だ」
 すすり泣きの音が幾重にもなり、そのときサドは自分が涙を堪えていることに気づいた。意識していないのに、サドはいつのまにか歯を食いしばり、泣くまいと耐えていた。
 「サド」優子に呼ばれ、サドは伏せていた顔を上げた。「てめえのやったことは、あたしの時間を勝手に使ったのと同じ――本当なら、みんなの目の前で半殺しにしなくちゃいけねえほどの大罪だ。けど、その分、おまえはあたしが持つべき荷物をひとりで背負っていた。それに免じて今回だけは見逃してやる。重かっただろう、サド? でも安心しろ。その荷物、あたしが半分背負ってやる」
 涙腺が決壊し、サドは膝から崩れた。
 自分がいかに小さい人間かを思い知らされ、それでも自分を愛し続けてくれている優子の心の大きさに、サドは再び堕ちた。神社でタイマンを張った、あの日と同じく――。
 そしてもはや、どんな説得もウソも脅しも、この世界のだれも、優子の命をかけた決心を変えることはできないと、サドは悟った。
 「すみません……優子さん、すみませんでした……」四つんばいになったサドは、その姿勢からゆっくりと頭を下げた。床に額をこすりつけるように心の底から詫びた。そうすることしかできなかった。涙と鼻水がだらしなく流れ、床にぼとぼとと落ちていく。
 「サド、頭を上げろ。そして立て。ラッパッパのナンバー2が人前でそんな姿見せんじゃねえ」
 優子の叱咤にサドは従った。とてつもない安堵が今まで感じていた恐怖を滲むように包んでいき、それにともなって体全体に力が戻ってきた。涙でにじんで、優子の顔をはっきりと見られなかったが、サドには優子が微笑んでいるとわかった。
 「おまえに涙は似合わねえ」優子が体を伸ばし、サドになにかを差し出してきた。
 ハンカチだった。
 サドはそれを恭しく受け取り、涙と鼻水を拭った。いつも優子が漂わせている微かな甘い女の匂いがした。
 それで少し気分の落ち着いたサドは、背後を振り返った。
 全員が泣いていた。
 シブヤは口をヘの字に曲げ、斜め上を見上げるようにして大きな瞳を見開いていて、そこからは止めどなく涙が溢れている。ブラックは深くうつむいており、長い髪が表情を隠していたが、そのあいだから涙が落ちているのが見える。
 昭和は泣くのをこらえようとしているのか、開いた唇のあいだから食いしばった歯が覗き見えるが、それでも垂れた目からは涙が流れている。アニメは眼鏡を外し、しきりに溢れる涙を拭いている。ライスは泣き顔なのか笑顔なのかわからないほど表情が崩れている。ジャンボは嗚咽していて、涙よりも鼻水の処理に追われている。
 みんなわかっているのだ。
 この闘いが優子の命を縮めることを――。
 それでも優子を求める、自分たちの身勝手な残酷さを――。
 「おいおい。おまえら、これから祭りが始まるってのに辛気臭せえぞ」優子の明るい声が響いた。それはさらにみんなの心に響いたのか、鼻水をすする音と鳴き声がより大きくなった。「派手にやろうぜ、派手に」
 「――はい」自分以外のだれも答えられないと思い、サドはうなずいた。
 「それにな。そろそろ泣きやんでおかねえと、くしゃくしゃになったみっともねえ顔をあいつに見られることになるぜ」
 「――えっ……」
 「ほら。ちょうどいいタイミングでやってきた……」
 優子が部室の扉に視線を向けたので、サドもみんなもそちらを見た。
 扉の向こうから、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。サドにはその歩調と強さで、それがだれのものなのかすぐにわかった。サドの推測が当たっているとしたら、それはここへ来るはずのなかった人物だった。
 《――まさか……。なぜだ?》
 足音が止まり、扉をノックする音が部室に響いた。
 「待ってたぜ」
 優子がそう言うと、ジャンボが小走りで扉に駆け寄り、それを開いた。

 前田敦子がいた。

 わかってはいたが、それでもサドは息を呑んだ。
 前田は小さく一礼し、部室へ入ってきた。
 「あたしに今日のことを教えてくれたのは前田なんだ」
 優子の言葉に、サドはさっきから引っかかっていた《なにか》の正体に気づいた。前田が優子にこのことを知らせる可能性を失念していたのだ。あるいは前田を、まだ一匹狼だと誤解していた。サドとタイマンを張り、熱い拳を交わした前田はいまはもうダチのひとりだった。前田はアリ女との件も知っているし、優子と接点もある。前田が優子にこのことを教えてもなんら不思議はない。サドが口止めをしていたとしても、前田は己の責任において優子に伝えただろう。悔しくて妬ましいが、前田と優子もダチなのだから――。
 サドの横まで来たとき、前田はそれ以上前に出てもいいのかどうか躊躇したように見えた。サドは自分が一歩下がり、前田を促した。
 「ありがとな……前田」
 優子が立ち上がって、前田に袖をめくった右手を差し出した。
 前田と優子の手が重なった。
 現在の、マジ女の実質的ナンバーワンと実力的ナンバーワンが共闘する――。
 サドの胸に複雑な思いが去来する。本来全面的に頼られるべきは自分だという思い。優子に頼られている前田への嫉妬。しかし自分の力ではどうにもならなかった事態。
 喜ぶべきなのに、小さな怒りを感じる。
 「私で――お役に立てますか?」前田が握手をしたまま言った。
 「もちろんだ。おまえが来てくれたなら、どんなやつが相手でも負けやしねえ。そうだろ、サド?」優子が微笑んで、サドを見た。
 「――はい……」
 サドは頷きながら、前田に視線を向けた。サドが土下座をしても首を縦に振らなかった前田がここに来た本当の理由はわからない。しかし、その決断の一助にはなったかもしれず、サドはそれでもよかった。なんであれ、前田が来てくれたことに変わりはない。
 優子は前田から手を離して、「今朝、前田からメールをもらってな。看護士にはちょっくら散歩に行くって言って、そのままトンズラだ。制服、病室に置いといて正解だったぜ」
 「あとで怒られますよ、優子さん」
 「もうじき死んじまうんだから関係ねえよ」
 笑えない冗談だが、自分の命すらネタにしてしまう優子の強さに、サドは苦笑した。
 「それと病院から来る途中でゲキカラに電話しといたぜ。じきに来るはずだ」
 「――ゲキカラが?」ある意味で、前田がここに来たことよりも衝撃的な優子の言葉に、サドは驚いた。「あいつが電話に出たんですか? どこにいたんです?」
 「ああ。昨日ひょっこり病院に現われたんで訊いたんだが、留年しそうなんでしばらく自宅で勉強してたんだと。だれかから連絡が来ると気がまぎれるから携帯も電源入れてなかったそうだ」
 「そんなことだったんですか……」知ってみればなんということのない平凡な理由だ。ゲキカラは普段から登校してもろくに授業に出ず、ケンカ三昧の日常を送り続けている。留年しないほうがおかしい。そのツケが、よりによってこんな時期にまわってきていたというのは、ゲキカラらしいといえばゲキカラらしい。
 「閉じこもって慣れない勉強をしてたから、ストレスが溜まってたんだろうな。今日の祭りの話をしたら、一も二もなく来るって言ってたぜ」
 優子の言葉を聞いているうちに、サドの気分は少しずつ高まっていった。
 今回の作戦で懸念していた、マジ女の『最強』と『最狂』が参戦するのだ。
 サドは拳を握りしめた。
 《これで――勝てる……》
 もちろん勝てるとしても、楽勝というわけにはいかないだろう。油断は禁物だ。前田やゲキカラでさえ苦戦するかもしれない。しかし、それでも勝利の確率が格段に高くなったことはまちがいない。なによりも、精神的支柱としての、優子の存在が大きい。サドにとっても、ラッパッパにとっても、マジ女の全生徒にとっても――。
 「――どうだ、サド? これで勝てるか?」
 「勝てるもなにもありません。優子さんが来てくれただけでも、みんなの心の支えになります」サドはそこで前田を見た。「もちろん前田も――」
 前田はサドの視線に気づき、小さくうなずいた。
 「それなら来た甲斐があったってもんだぜ」優子は一歩前に出た。「みんな安心しろ。どんな相手だろうと、あたしたちは勝てる」
 「はいっ」
 吹奏楽部部室にいる全員の力強い声が重なり、ここ数日間部室に留まり続けていた張りつめていた空気を吹き飛ばした。
 優子の存在がいかに大きなものか――サドはあらためて思った。自分の器では、けっして大島優子には及ばない、と。
 「――優子さん」シブヤが唐突に言った。「全校生徒に向けて、優子さんの声を聞かせてあげてください」
 名案だ、とサドは思った。シブヤを見ると目が合ったのでうなずいた。ブラックもその横で納得のいった顔をしている。
 「生徒会には私が――」サドは言いながら携帯電話を取り出し、峯岸みなみの電話番号をアドレスから探し始めた。そして同時に歩き出した。
 ――そのときだった。
 ザザザザ――と、その行く手を阻むものがいた。
 アンダーガールズ――アニメ、ジャンボ、昭和、ライス――の四人だ。
 しかも、四人はやや腰を落とし、両手でファイティングポーズをつくっている。
 サドの脳裏に一瞬、反乱という言葉が浮かんだ。しかし、このタイミングでアンダーガールズたちがそんなことをするわけがない。いや、どんなときであっても、この四人が優子への忠誠を破るわけがなかった。
 「どうした、おまえたち?」優子は余裕の笑みを浮かべ、そう訊ねた。
 「優子さん」アニメが言った。「もうすぐ闘いが始まります」
 「知っている」
 「しかし」ジャンボが言った。「優子さんは長きに渡り、実戦から遠ざかっておいでに――」
 「あたしの腕が鈍ったとでも……」
 「畏れながらっ」昭和が小さく頷いた。
 優子はとまどいなど一切見せることなどなく、ふっと鼻で笑った。
 狭い部室の幅いっぱいに、アンダーガールズの四人が優子を扇状に取り囲む陣形をとった。サドは数歩下がって、優子が自由に動ける空間をつくった。
 前田がサドに不安な色を浮かべた視線を向けた。サドは小さくうなずいて、大丈夫だと伝えた。
 四人が束になってかかったところで優子に勝てる見込みなど百万分の一もない。しかしそれでも、四人は優子のリハビリ代わりにみずからの肉体を捧げようとしている。これこそアンダーガールズの忠誠心の証だった。これだけの判断を自分たちだけでできるようになった四人に、サドは敬服する思いだった。
 四人は互いに顔を見合わせ、間合いを計っていた。
 一方、優子は堂々たる立ち姿のまま、四人を順に見回した。
 「よし。全力でこい」
 優子の言葉が開戦の合図だった。
 まずは昭和が優子の左側から襲いかかった。その回し蹴りは、くるぶしまであるロングスカートが遠心力で広がり、太ももまで見えるほどのスピードで放たれた。
 そのコンマ五秒後に、今度は優子の右側からライスが突進した。昭和の蹴りを避けようと、体をひねった優子にカウンターの左ストレートを叩き込もうという作戦のようだ。
 しかし優子は、命の火がもうすぐ消えようかという人間とは思えない素早さを見せた。胸の辺りに迫った昭和の蹴りを右回りに回転して難なく避けると、その遠心力を利用して蹴りを放ち、ライスの土手っ腹にローファーの爪先を喰らわせた。優子に指一本触れられなかったライスは、部室の壁に弾き飛ばされた。
 しかし――ライスは囮だった。
 最初の回し蹴りがかわされることを見抜いていたであろう昭和の、今度は脚払いを狙った低い回し蹴りがそのとき優子に襲いかかった。体を低くした昭和の攻撃は、ライスへの攻撃に気をとられている優子の背後の完全な死角に入っている――はずだった。
 だが、まるで背中に目があるかのように、優子は昭和の回し蹴りによる脚払いを、三歩退いてかわした。驚いた昭和は目に動揺の色を浮かべた。
 攻撃の第三陣は、昭和の足払いの直後にやってきた。アニメが大胆にも優子の左腕をつかみ、そのまま引き寄せると腹への膝蹴りを放ったのだ。
 これはさすがにヒットする間合いだとサドは思った。しかし優子は少しもあわてず、自由になっている右手でくの字に曲げられたアニメの脚をつかみ、それをすくい上げると同時にアニメのもう一本の脚を払った。体勢を崩したアニメは背中から床に激しく落ちた。その腹に優子がストンピングの追い撃ちを加え、アニメは悲鳴を上げた。
 その優子の背中を、二度の攻撃をかわされた昭和がまたもや襲った。これで三発目となる回し蹴りだ。腰の位置の高さで、いままで以上のスピードを持った蹴りだった。アンダーガールズとはいえ、ラッパッパに所属している昭和の蹴りは、たとえれば歌舞伎シスターズのそれの数倍の破壊力を持っている。直撃を食らえば、常人なら骨折してもおかしくないほどだ。
 さらに、それを援護するかのごとく、優子の正面からはジャンボが接近していた。これで優子は、仮に背後からの昭和の蹴りを察知したとしても、前にも横にも避けることはできない状況に置かれてしまった。
 優子は頭をほんの少し頭を横に向けた。昭和の攻撃を確認したらしい。
 ジャンボは優子との身長差を生かし、優子の射程距離外から右ストレートを打ち込もうとしている。
 「あぶないっ」隣にいる前田が小さく叫んだ。
 「大丈夫だ」サドは答えた。
 次の瞬間――優子は舞った。
 昭和の回し蹴りの進行方向へ体を回転させつつ、紙一重でそれをかわしたのだ。不思議なことにその動きは、サドにはスローモーションに見えた。遠心力で広がるロングスカートは、ケンカの最中だというのにとても美しく思えた。
 優子がもともといた場所に放たれた、ジャンボの右ストレートは虚空を突き進んだ。その射線上には、回し蹴りを空振りした昭和がいた。ジャンボの攻撃がカウンターで昭和に入りそうになったそのとき、優子のケンカキックがジャンボの側頭部に叩き込まれた。瞬時に白目を向いたジャンボはそのまま膝からくず折れた。
 度重なる空振りをした昭和は、目の前で気絶したジャンボを見て顔色を変えた。優子は電撃的なスピードで昭和の前に移動し、渾身の左フックをその腹に打ち込んだ。体を二つに折った昭和は、口から液体を吐き出した。
 優子はふっと笑って、昭和の腹をえぐった左腕を抜いた。支えを失った昭和は前のめりに倒れていき、やがて床に寝転がった。
 「――他愛ない」
 最初に昭和が優子に襲いかかってから四人が倒れるまで、わずか十秒たらずの出来事だった。
 「完璧……です。優子さん」
 サドは圧倒された。華麗な動きと、それに反比例するかのような力強い攻撃。これが死期の迫った人間の身体能力か――いや、だからこそなのかもしれない。炎が消える直前に、もっとも輝くように。
 「だろ?」優子はあの人懐っこく笑った。
 もう何百回と見た、その笑顔に、サドは安心とわずかな不安を感じた。優子はたしかに闘える。だが――この動きはあきらかに命を削っている。
 「けどよ。こいつらの動きも前よりよくなってるな。おまえが教えたのか」
 「少しだけ。しかしこれは彼女たちの努力の賜物です」
 アンダーガールズの四人が手を抜くことなく全力で闘ったことが、サドは心からうれしかった。
 「いや。なにより、おまえたちはよくやってくれた」優子は床に転がりうめいているアンダーガールズの四人を見た。「この闘いが終わったら、全員抱いてやる」
 「優子さん」突然、前田が言った。「――ご無理はなさらずに……」
 「なあに、ちょろいもんさ」
 そのとき、タイマン部屋に通じる扉が大きな音を立てて開いた。
 ボサボサのロングヘアのまま、まぶたをこすりながら、トリゴヤが立っていた――脚元にスリッパをつっかけただけの全裸で。「もー……朝からドッタンバッタンうるさいよぉ……なにしてんのぉ……」
 窓から入る陽光が、トリゴヤの淫靡な肢体を照らしていた。形のいい張りのある乳房と、その先端の美しい乳首、ゆるやかな腹のライン、小さな面積にうっすらと密集する柔らかい陰毛、適度な太さを持った太もも――。それら、女の肉体にしか存在しない体の曲線は、部屋にいた全員の視線を浴びることによって、より輝きを増しているようだった。
 「よお、トリゴヤ。久しぶりだってのに、そんな格好とはな……。また抱きたくなるじゃねえか」
 半分ほど寝ぼけているような表情のトリゴヤだったが、優子の言葉にはハッとして一瞬で完全に目を覚ましたようだった。「え。え。えっえっ。なになに。なんで優子さんがここにいんの?」
 ピリピリとした状況に突然現われた全裸の女のエロさと間抜けさに――それこそがトリゴヤだ――、サドは声を上げて笑った。つられて優子が笑い、シブヤとブラックも笑いはじめた。あの前田までも、口元に笑みを浮かべている。
 きっかけは全裸のトリゴヤではあるが、サドが笑えたのはそれだけが理由ではなかった。優子とともに闘えることの喜びの感情が、笑いというかたちになったのだった。
 なによりも、大きく開いた口からチャームポイントの八重歯を見せ、だれよりも笑っている優子を見ると、サドはそれだけで幸せな気分になった。
 しかし、サドは見逃さなかった。笑顔の優子が、体のどこかが痛んだのか、一瞬だけ表情を曇らせたことを――。
 その原因がアンダーガールズとの闘いかはわからない。だが、もはやそんなことを指摘するつもりはなかった。
 サドは決めたのだ。
 命尽きようとも、優子とともに闘う――と。


  【つづく】
 数ヶ月に渡って連載が中断している『マジすか学園VSありえね女子高』の続きですが、一日数行のペースで書いています。
 コミケのあと、すぐに続きを完成できるものとばかり思っていましたが、連日の猛暑で疲労しているのと、他にこなさないといけないこともあり、なかなか集中することができません。そんな中でも、少しずつ進めてはいますので、もうしばらくお待ちください。期待して待ってくださっている方々、本当にごめんなさい。
 今月中にはなんとか……と思っています。
 いよいよあさってに迫ったコミケットですが、販売するものの正式タイトルなど決まりましたので告知します。

 ■日時/2012年8月10日金曜日 1000~1600まで。
 ■場所/東京ビックサイト西地区「れ-66b」『馬路須加女学園出版部』

 同人誌の販売物は以下の3点です。

 ■『マジすか学園外伝1』(A5版・100ページ・500円)
 ■『マジ女のいちばん長い日 マジすか学園外伝2』(A5版・84ページ・500円)←新刊!!!
 ■『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る論 岩田華怜は「革命」の花を咲かすのか。』(A5版・20ページ・200円)←新刊!!!

 あと、『濡れ娘。』関連商品も、少しずつですが持っていきます。
 どんなものを売るかについては、『濡れ娘。』のサイトをご覧ください。
  →http://www.nuremusume.com/

 以上、よろしくお願いいたします。

 
 おひさしぶりです。

 いよいよ一ヵ月後に迫ったコミケットに合わせて発行する本の原稿を、印刷屋さんに入稿してきました。いやー、一年半ぶりの作業はもろもろ大変でした。
 というわけで、印刷屋さんがしくじらない限り(失礼なこと言うな)、コミケで『マジすか学園外伝2』を出します!!!

 そして今回から、大きく変更したことがあります。
 それはタイトルです。

 一年半前に『マジすか学園外伝1』を出すときもかなり迷ったあげく、なんの工夫もないタイトルになってしまって……それでもなんとかしたいとずっと考えていました。
 もともとパロディ色の強い小説のため、タイトルもなにかのもじりにしたかったんです。
 で――結局、こうなりました。
 夏のコミケットでの新刊タイトルはこれです!!!

 『マジ女のいちばん長い日 ~マジすか学園外伝2~』

 もちろん、ぼくの大好きな映画『日本のいちばん長い日』をパクった、もとい、パロディにしたものです。
 それで、この小説はこれを正式タイトルとします。つまり次回は『マジ女のいちばん長い日 ~マジすか学園外伝3~』となるわけです。ちょっとややこしいことになってしまいましたが、よろしくお願いいたします。

 さて、この『マジ女のいちばん長い日 ~マジすか学園外伝2~』はA5版、84ページ、定価は前作同様に500円です。ページ数は減っていますが、本文のレイアウトを変えて読みやすくしていて、内容量は前作とほとんど変わりありません。
 このブログで連載していたときと構成を少し変えたり、文章はかなり手直しをしました。ブログの場合、パソコンや携帯の画面で読むことを考えて意識的に改行を多くしています。しかし、本には本の読み方があるわけで、そのあたりもかなり意識をしました。
 本のかたちになった『マジ女のいちばん長い日 ~マジすか学園外伝2~』は、ブログ版とちがった感じで楽しんでいただけると自負しています。ぜひぜひコミケットで実物を確認してみてください。
 コミケットに来られないというかたには通販もいたしますので、そのときはまた告知いたします。

 そして。
 まだコミケットまでは一ヶ月弱あるので、コピー本も作っちゃいます!!!
 そちらは小説ではなく、ぼくの(いまのところ)2012年映画ベスト1作品『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』について語りまくってしまおう、というものです。
 この映画についてはいろんな思いがあって、ブログでも書いていませんでした。なので、せっかくコミケに出られるならそれをまとめて本にしたいと考えました。
 どんなかたちになるかは、まだ書き始めていないので模索チユウです。完成はコミケットぎりぎりになりそうですが、なんとかがんばりまーちゅん。

 というわけで、現状報告でした。
 今年の夏のコミケットにサークル参加できることが決まりました!!!
 2010年の冬コミ以来、落選が続いていたので、実に一年半ぶりということになります。いやぁ、長かった。

 しかも前回は、ぼくが運営しているフェチサークル『濡れ娘。』に間借りをしたかたちでしたが、今回は新サークル『馬路須加女学園出版部』として参加します(コミケでは複数取りは禁止されているので、今回は『濡れ娘。』での申込みはしていません)。
 もちろん、新作……というかプログ連載分の再構成バージョンを発行する予定です。では、詳細をお知らせします。

 ■日時/2012年8月10日金曜日 1000~1600まで。
 ■場所/東京ビックサイト西地区「れ-66b」『馬路須加女学園出版部』
 ■販売物/『マジすか学園外伝1』定価500円(A5版・100ページ)
        『マジすか学園外伝2』予価500円(A5版・100ページ予定)←新作!!!
 

 前作もまだまだ在庫があるので持っていきます。この機会に、ぜひ前作も合わせて買ってください(笑)。
 その他、詳しく決まり次第、ブログやツイッターでお知らせします。
 『濡れ娘。』関連商品に関しても、すべてかどうかは決めていませんが、販売する予定です。

 そこで、お知らせというかお詫びなんですが……

 ブログ上での『マジすか学園vsありえね女子高 AKB48×アイドリング!!!』はしばらく休載します。

 新刊の締め切りが過ぎる七月中旬過ぎの連載再開を予定しています。いよいよ優子が登場したばかりで申し訳ありませんが、なるべく早く再開するつもりですので、そのときはまた読みに来てください。

 それでは、また~。
 ■決戦前-4■



 カーテンを透かして部屋に入ってくる陽光の暖かさに、サドはゆっくりと目を覚ました。
 体を横にしたまま、薄目を開けてその光を見る。いつもとちがう目覚めの景色に違和感があったが、次第にここが自分の家の部屋ではなく、吹奏楽部部室の隣にあるタイマン部屋だということがわかってきた。自分はその部屋の隅にあるベッドの上にいて、隣には全裸のトリゴヤが寝ている。そういえば、昨夜はなかなか眠れないサドのために添い寝をしてくれたのだった。シーツの中でもぞもぞと動いたサドに反応して、トリゴヤは少し目を覚ましたのか、喘いだときに漏らす吐息に似た溜息をついた。トリゴヤの腰からお尻、そして太ももの肉感的なラインが、シーツの皺によって裸以上に強調されていた。
 上半身を起こしたが少し肌寒い。自分も裸だったサドは、シーツを胸元に手繰り寄せた。トリゴヤの太ももが付け根寸前まで露わになった。サドはそのトリゴヤの背中に、シーツ越しに中指を走らせた。トリゴヤはうーんと唸り、くすぐったさか性的に感じたのか、身をよじってサドの指から逃げた。
 ベッドから降り、全裸のまま窓際へ歩く。カーテンを思いっきり開けた。まぶしいほどの光ではなかったが、ぼんやりとした目には刺激的だった。窓の外は曇り空で、学校からほど近い山の頂には霞がかかっている。あの山の上には、優子と闘った神社があったはずだ。
 ――おまえはサドだな。
 あのときの優子の声をいまでも覚えている。
 そしてその日は「篠田麻里子」が初めて「サド」になった日でもあり、二人が初めて結ばれた日でもあった。
 男という生き物を心底軽蔑し、憎むサドは、優子によって新しい人生を獲得した。人を愛し、尊敬することに性別など関係ない。年齢も出自も――。
 だから。
 ――すべては優子さんのために……。
 今日これから自分がやろうとしていることは、突き詰めれば、たった一人の女を守ることだった。そのために数百人という人間を犠牲にしてでも、サドはやらなければならなかった。すべては優子に、残り少ない命を謳歌してもらうためだ。
 サドはその「罪」を一身で引き受ける覚悟もしている。今日の夜、サドは優子の病室を訪ね、すべてを打ち明けるつもりだった。今回の件は自分の独断と強権によっておこなったことであり他の者に咎は一切なく、どんな制裁も受け入れる――と。どんな罰でもかまわない。優子が腹を斬れと言えば、本当に斬ってみせる。もとより、優子に預けた命だ。惜しくはない。先にあの世で優子を待つのもいいかもしれない。
 ともかく――まずは全力でマジジョを守ることが重要だ。
 サドはベッドの傍らに戻り、床に落ちていた自分の下着を拾い、身に着けた。トリゴヤに脱がさせるといつもこうだ。まだ半分以上眠ったままのトリゴヤを一瞥し、肩から腰にかけて薔薇と髑髏の刺繍がしてあるセーラー服を着た。
 それから部屋の片隅にある小さな机の前に座り、鏡を見ながら髪を整え、化粧を始める。道具は常に常備してある。着替えてから化粧をするのは、セーラー服を被るときにファンデーションなどを付けないためだった。
 化粧を終えたサドは、入口の近くの壁にハンガーで吊るされている白のファージャケットを羽織った。
 スタンドミラーを覗くと、そこにはラッパッパ副部長のサドがいた。
 自信に満ちた鋭い瞳のサドは、鏡の中の自分に見下すような視線を浴びせ、踵を返すようにしてタイマン部屋を出た。
 扉の外の部室には、アンダーガールズの四人と四天王のシブヤとブラックがいた。全員が一斉に背筋を伸ばして直立し、「おはようございますっ」と声をそろえて頭を下げた。
 「ああ。おはよう」サドは挨拶を返した。「ちょっと校内を見回ってくる」
 すかさずアンダーガールズのジャンボが、「お供しますっ」
 「いや、かまわない」サドは片手でジャンボを制した。「ひとりで大丈夫だ」
 「はいっ。では、いってらっしゃいませっ」
 「いってらっしゃいませっ」
 ジャンボの言葉のあとに、部室にいた全員が続いた。
 アニメがさっと引き戸に駆け寄り、それを静かに開いた。
 サドはファージャケットのポケットに手を突っ込み、部室を出ると階段を降りた。
 ひとりでいたかった。あと数時間もすれば心身ともに忙殺される。嫌でもだれかが隣にいる状態が延々と続くのだ。だから静かな今のうちだけでも、のんびりとしていたかった。
 三階の教室と廊下には、数十名もの生徒が思い思いの相手と、配給されたおにぎりを食べていた。その雰囲気は戦争前の張り詰めたものではなく、良くも悪くも一様に明るかった。それもそうだろうとサドは思う。三度のメシよりケンカが好きな連中が集まった学校だ。学校を挙げてケンカをするとなれば心躍らないわけがない。
 二階と三階を結ぶ西側の階段踊り場では、チームフォンデュの五人が、おにぎりとペットボトルの配給をおこなっていた。机の上には生徒名簿が置かれ、年増こと大場美奈が赤ペンでチェックを入れている。
 どこもガヤガヤと騒がしかったが、サドの心にはそれも心地よく響いた。食事をしない者、もしくは終わった者の中には、ケンカのときに使うのであろう、角材やバットや木刀で素振りや演舞をする者もいた。なにも持たない者も、組手の練習に余念がなかった。
 ただし、すべての生徒はサドを認識すると、あらゆる動作を止め、直立して挨拶をした。おにぎりが落ちようがペットボトルが倒れようが、サドへの挨拶はすべてに優先した。サドは一瞥さえくれず、自分の前を通り過ぎるというのに。
 二階から一階へと続く階段を降りようとしたとき、サドの正面に立つ者がいた。
 馬路須加女学園校長、野島百合子。
 なにがあっても生徒を見捨てない教師。
 サドは立ち止まり、敬意を込めて、おはようございます、と頭を下げた。
 「おはようございます。ミス・シノダ」目を伏せたままのサドに、野島百合子の声が聞こえた。「ミス・シノダ――勝てますか?」
 サドは頭を上げ、野島百合子を真正面から見据えた。
 「勝てるようにがんばります」
 「ミス・マエダは――」
 「前田は……」
 昨日の朝礼で前田が去ったことは、野島百合子も知っているはずだ。それでも野島百合子は信じているのだろう。前田が戻ってくる、と。
 だが、サドにとって、それは終わった話だ。
 サドはそのまま一礼して、野島百合子のかたわらを通り過ぎた。
 一階まで下りると、正面玄関のバリケード前にいた峯岸みなみと目が合った。峯岸は平松可奈子とともに、バリケードの強度の最終確認をしているところだった。
 「あ。サドさん。おはよう」
 「おはようございます」平松も丁寧に頭を下げた。
 「ああ。おはよう」サドは天井まで積み上げられた机を見上げた。天井まで届いているように見える、結束バンドとロープで固定された数十の机は、とても堅牢に思えた。「よくできてるじゃないか」
 「私が指揮を執ったからね」峯岸はそう誇った。「いま最後の確認をしているところ」
 「そのようだな」
 「サドさん。約束、忘れないでね」峯岸みなみは大きな瞳をより見開いて、サドに疑念とも信頼とも取れる視線を向けてきた。
 ――作戦運用ならびに指揮は生徒会の最高責任者である峯岸みなみに執らせること。
 ――今後五年間ラッパッパは生徒会を実力行為レベルで守ること。
 昨日、交わした約束だ。忘れていないし、反故にするつもりもない。
 「もちろんだ。準備ができたら部室に来てくれ」
 そう言って歩き出したサドを、峯岸は背後から呼び止めた。「サドさん」
 立ち止まり、横顔を峯岸に向ける。
 「これがすんだら奢らせて」峯岸はウインクをした。
 「喜んで」
 サドは短く言い、体育館へ向かった。
 体育館に入って最初に感じたのは、保健室と同じ、ツンとする薬品の臭いだった。だだ広いその空間には急ごしらえのベッドや椅子が並べられ(それらはあちこちから集められたために大きさも高さもバラバラだった)、テーブルの上には医療器具や薬が置かれていた。さながら野戦病院といった雰囲気だ。
 壁際には、普段は武器として使われているであろう、アルミニウムやスチールのパイプと、どこからかかき集めてきた毛布が十数と置かれていた。その前で、生徒会が集めた三十人ほどの生徒たちに、変態保健医のキケンが応急担架の作り方を教えている。いつになく真面目な表情で、サドはキケンの持つ真摯な面を見た思いがした。キケンのかたわらには生徒会の佐藤すみれが膝下まである長い白衣を着て、キケンの説明を実践してみせている。
 説明を受けていた生徒の一人がサドを発見し、直立して大声であいさつをしてきた。すると、それをきっかけにサドの存在に気づいた他の生徒たちが、輪唱のようにあいさつを繰り返した。キケンはサドに対する恐怖心を露わに瞳に浮かべ、佐藤すみれは手を止めた。
 「あいさつはいい」サドは言って、キケンを見た。「邪魔してすまない。続けてくれ」
 ふと視線を逸らすと、頭を下げる数人の生徒の向こうに、昨日、この体育館で前田の頬をはたいたエレナがいた。サドと目が合うと、エレナは無言で頭を下げた。彼女なりに前田を説得しようとしたエレナに敬意を感じていたサドは、自分も小さく頭を下げて応じた。
 これから数時間後、この体育館には百を越える生徒たちが運び込まれるだろう。サドは不揃いのベッドが並ぶさまを見回し、自分の立案した作戦の狂気を改めて感じた。しかし、もう後戻りはできない。このやり方が正しいかまちがっているかを問う段階はすでに過ぎている。
 体育館から出たサドは、吹奏楽部部室へと戻る廊下をゆっくりと歩いた。壁にスプレーで書きなぐられたいたずら書き。なにかで空けられた壁のあちこちの穴。割れた痕をダンボールで補修した窓。壊れたまま教室の隅に放置されている机や椅子。サンドバッグ代わりにされた、掃除用具が入れられているロッカー。
 まさにここは不良の吹き溜まりであり、サドが優子と出会った場所でもあった。
 もうすぐ卒業するのだと思うと、このデタラメで薄汚れた光景であっても、柄にもなく心に染みた。優子といたいためにわざと留年した一年を含め、サドが過ごした四年間という歳月の残滓があちこちに残っているこの学園から去るのは寂しくもあった。だから、最後の最後に、派手に暴れまわれる「ケンカ」の機会を提供してくれたアリジョの連中に、サドは感謝にも似た気持ちをいだいている。
 四階の吹奏楽部部室に続く階段を上ぼる。
 学園内には体育祭当日に似た高揚感が漂っていた。そして、だれもが勝ちを疑っていないように思えた。制限時間いっぱいにはなったが、一階のバリケードは完成したし、最低限の医療と通信体制は整えた。やれることはすべてやったという気迫が感じられる。士気も衰えていない。楽観はできないが、そう悲観することもなかろう……。
 だが。
 なにかをしくじっているような気がしてならない。
 昨日も感じた不安が、胸に空いた風穴から侵入してくる。
 階段の踊り場に響くのは、サドのショートブーツの足音だけ。
 ――と。
 サドは気づいた。
 静か過ぎるのだ。
 部室にはシブヤとブラックとアンダーガールズがいるはずだ。だれかが部屋を歩き回る気配や、話し声がしてもいいはずなのに、今は部室から誰もいなくなったように感じる。通夜だってもう少しにぎやかだろう。
 心がざわざわと揺らいだ。
 やや早足で階段を昇る。ロングスカートを踏まないよう、裾を持ち上げた。
 部室の前に立ち、叩きつけるように引き戸を開いた。大きな音がした。
 正面にシブヤとブラックが立っていた。その両脇に、アニメ、ジャンボ、昭和、ライスのラッパッパアンダーガールズたち四人。
 みんなはこちらに背を向けていたが、いまの音に全員が振り返った。
 その顔は、一様にこわばっている。
 尋常でない出来事が起きているのだと、サドは一瞬で悟った。
 「――どうした?」
 だれも答えない代わりにシブヤとブラックが左右に分かれた。アンダーガールズの四人もその動きに連動した。
 そしてサドは見た。
 部室の窓際に置かれた、金色のサテンが掛けられている一人用のソファ――そこにはいつも「部長様専用」と書かれた紙が置かれている――に座っている人物を。
 そのソファに座ることを許されている、たった一人の存在であるが、ここにいるはずのない人物を。
 「――よっ。サド」
 馬路須加女学園吹奏楽部部長――大島優子が右手を軽く上げて微笑んだ。



 【つづく】

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