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これから校長と細かな打ち合わせをするという峯岸を校長室に残し、サドは四階の吹奏楽部部室へ向かった。
階段を昇った先の踊り場には、アンダーガールズの四人――ジャンボ、アニメ、昭和、ライス――がいた。なにやらどうでもよい話で盛り上がっているようだったが、四人はサドの姿を認めると弾かれたように姿勢を正し、整列した。
「おはようございますっ」
四人はまったく同じタイミングで言い、膝に顔が着くかと思うほど腰を折った。
「おっす……」サドはいつものように頭を下げず、むしろ顎をくいっと上げてあいさつをした。「ライス、昨日はご苦労だったな、なにもなかったか?」
「はいっ」ライスが顔を上げ、真正面を向いたまま答えた。サドと視線は合わせていない。「なにもありませんでしたっ」
ライスは昨夜、優子の病院の警備に就いていた。
「おまえのおかげだ」
サドはライスの首筋に口づけをした。軽く吸うと、ライスは電流に痺れたように身を震わせ、喘いだ。
サドはライスから離れ、歩き出した。「全員、話がある。ついて来い」
「はいっ」
吹奏楽部の部室にはラッパッパ四天王の、ゲキカラを除いた三人が、それぞれがいつも座る椅子に腰かけていた。
「おはよー、サド……」トリゴヤは枝毛探しから目を離さず、小さな声で言った。
「おいっす」シブヤは折りたたみ式の鏡を見ながらアイラインを引いていた。
ブラックだけは立ち上がり、サドに軽く頭を下げた。
「おはよう」サドは言って、白いファーのかけられた一人用のソファに座った。
隣に置かれている、シルバーとゴールドのシーツのソファをちらりと見る。
『部長様専用』と書かれた紙が、ここにいるべき人の不在をより強調している。
――優子さん……。
いま一番ここにいてほしい人がいない。
もう数ヶ月、この椅子は空席のままだ。もはや空いていることのほうが当たり前のような気さえしてくる。それでもサドは夢想する。再び、優子さんがこの椅子にどっかと腰を据えることを――。
だが、そんな日はもう二度と来ないのだ。おそらく。
そう考えてしまったことを悟られていないかと、サドは一瞬焦った。だが、四天王の三人とアンダーガールズの四人には、その表情の変化は悟られていないようだった。七人はさっきと変わらない視線をこちらに向けていた。
「話がある。全員、集まってくれ」
サドの号令に、シブヤとトリゴヤは立ち上がってブラックの横に、そしてアンダーガールズたちはその背後にそれぞれ並んだ。
目の前の七人が、現在のラッパッパの総戦力だ。サドは内心ため息をついた。
――ゲキカラがいてくれたら……。
明日の「戦争」で使えそうなメンバーはこの中ではシブヤと、せいぜいブラックくらいだった。シブヤは敵を囲い込んでの戦いが得意だが、タイマンでもそれなりに強い。ブラックは闇に乗じた戦闘を得意としているから、今回の戦争ではその力を発揮しきれない可能性もあるが、スピードを生かせる状況に持ち込めば勝機はある。トリゴヤは覚醒させなければ戦力にならないが、それを戦いの最中にどうやってするかという問題もある。うまく覚醒させたとしても、トリゴヤは今回のような「戦争」には不向きだ。相手の過去をリーディングして精神攻撃をしかける、などと悠長なことをやっている余裕があるかどうか。乱戦になればトリゴヤは出番はない。アンダーガールズの四人もラッパッパにいる以上、それなりに強い。しかし、せいぜい学ランか歌舞伎シスターズと同等でしかないだろう。どこまで戦えるかはやってみなければわからない。ゲキカラがいればなにも考えず、戦場に放てばいい。それだけで数十人の敵を倒してくれるはずだ。
サド自身が戦場に出ることはまずないだろう。最後の最後までこの部室で指揮を執らなければいけない。この部屋まで敵が階段を昇ってくるのなら、それはかなり戦況が切迫しているということであり、そのときこそサドの出番ではあるが……。
サドは思考を経ち、話し始めた。「知っての通り、いよいよ明日、アリジョの連中がカチコミに来る。生徒会は約束どおり、作戦計画書を徹夜で作り上げた。そこで私は峯岸とともに校長から今日と明日の授業を中止する許可をもらってきた。あと三十分ほどで生徒全員が体育館に集められ、全校集会で峯岸が非常事態宣言を発令する。形式的にはわれわれラッパッパも生徒会長の指揮下に入ることとなるが、これはあくまで生徒会の顔を立てるためのものだ。実際には、私がこの部屋で指揮を執る。なにか質問は?」
サドはみんなを見回した。トリゴヤがかわいらしく首をかしげただけ――ではなかった。
シブヤが肘から先だけを小さく上げた。
「このこと、優子さんは知ってるんすか?」
挑発的な目つきだった。
「前にも言ったが、この件は私の独断で決めたことだ。優子さんは知らない」
「あのときは、まだこんなに話が大きくなってなかったからよかったすけど……大丈夫すか、ホントに?」
「優子さんには事後報告する」
「シメられますよ」
「覚悟している」
「前から思ってたんすけど……なんで優子さんに知らせないんすか?」
「――おまえたちは知らなくていい」
「それ、おかしくないすか? しかも、よりによって生徒会と組むなんて……。優子さんが知ったらなんて言うか……」
「シブヤ、やめろ」ブラックが低く言った。
「そうだよ、やめときな。サドだっていろいろ考えてんだからさ」
「いずれ、おまえたちにも話す。約束する。だが、いまは言えない」
「いま知りたいんすよ。こっちも命かけるんすから」
「だめだ」
「もしかして優子さんの病気と関係ある……」
サドはシブヤに歩み寄り、ピンクのスカジャンの襟元をつかんだ。そしてそのまま思いっきり自分のほうへ引き寄せた。シブヤはその反動で首をのけぞらしたが、愛嬌のある垂れた瞳の視線はサドから離さなかった。
「一致団結して戦争始める前になって内紛起こす気か? 私は優子さんからラッパッパとマジジョを預かってるんだ。おまえらは黙って私の言うとおりにすればいい」
「戦争が始まるなら、なおさらはっきりしときたいんすよ。あたしらは、だれのために戦うのか。あたしは優子さんのためなら死ねる。けど、あんたのためには死ねない」
「ずいぶんデカい口たたくな。二十人も連れてって、たった二人のガキにボコられたやつが……アん?」
「そうす。あいつらはマジで強ええ。だからあたしらは一心同体で戦わなくちゃけないんすよ。でも、あんただけがなにかを隠してる。みんな口にこそ出さないけど、そう思ってる。そして、それが優子さんのことだってのも……」
サドはシブヤを放した。
ブラック、トリゴヤ、昭和、ジャンボ、アニメ、ライスを順に見た。
シブヤの言葉を否定する者はいなかった。
たしかにシブヤの言うとおりだ。自分が逆の立場なら、サドもシブヤのように食ってかかったかもしれない。
優子の病状に関して本当のことを言い、隠していたことを詫びる。そうすればラッパッパはまとまるだろう。ある種の弔い合戦のような高揚感がわきあがる。
サドは迷った。時間はかけられない。あまりに無言でいれば、それはシブヤの疑惑を肯定することになる。
――どうすればいい? なにが正解だ?
きっと、みんなには、人をにらむときに寄り目気味になるサドの大きな瞳がゆらゆらと揺れているのが見えているだろう。
「――優子さんは……」とりあえず口にした。このあと、どう続けるかは決めていなかった。
前田敦子とタイマンを張る前よりも緊張した。
唾液を飲み込んだ。
みんながサドを見ていた。
「――もうすぐ退院できる。おまえたちが考えているようなことはない。私が優子さんにこのことを言わないのは、余計な心配をさせたくないからだ。ダチのことを一番大切に考えている優子さんに言えば、きっといますぐここに来てくれると思う。私も優子さんがここにいれば、どれだけ心強いか……。しかし、いまの優子さんにそんなことをさせられるか? 病気が悪化して入院が長引けば、今年卒業できなくなる。優子さんはいままで、私たちのことを本当に大切にしてくれた。今度は私たちが優子さんを守る番なんだ」
退院できるという嘘以外は本心だった。
サドはシブヤを見た。
「ま、そういうことにしときますか」シブヤは肩をすくめた。「ただ、これだけは言っておきたいす。あたしはあんたが好きじゃない。だから明日は、あんたのためには戦わない。あたしは、優子さんのために命をかける」
「それなら同じだ。私も優子さんのために戦う」サドは、これで話は終わったとばかりに、部室の奥のタイマン部屋へ歩きだした。「全校集会まで少し休む。だれも入ってくるな」
無言の七人の視線を背中に感じながら、サドはタイマン部屋の中へ入った。
ドアを閉め、施錠する。
サドは部屋を突っ切って、優子に数えきれないほど抱かれたベッドの端に座った。
深いため息。
みんなに優子の病状について嘘をついたのは、優子の秘密を自分ひとりだけが知っているという優越感を持っていたかったから……。
そんな自分にリーダーの資格などあるのか。大島優子という名前を出さなければ、みんなをまとめられない。こんなことでアリジョに勝てるのだろうか。優子さんに恥じない戦いができるだろうか。
シブヤが自分を嫌っているのは、普段から感じていた。しかしはっきりと、他のメンバーたちの前で言われたのはショックだった。比べるのはおこがましいが、やはりサドは優子にはかなわないのだ。
それでも、サドは戦わなければならない。
――優子さんのために……。
サドは熱を測るように額に手のひらを当て、指で茶色の前髪をつかんだ。なぜだかわからないが、このままむしりとってしまいたい気がした。
下唇を前歯で噛む。
床を見ていた視界が滲む。
大粒の雫が、ぽたぽたと、スカートの膝のあたりに染みをつくっていく。
声を上げて泣きたかった。
でも、できなかった。
だれも見ていないとはいえ、ラッパッパのナンバー2がそんなことをするわけにはいかない。サドの矜持が許さなかった。
けれども。
涙ではなくとも、なにかを体から吐き出さなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「――優子さん……助けて……」
サドは嗚咽するようにつぶやいた。
【つづく】