■胎動―7■
山の稜線の向こうに太陽が沈みかかり、馬路須加女学園が茜色に染まるころ――いつもであれば、生徒はほとんど校舎に残っていない時間帯だったが、この日はちがっていた。
一階の生徒通用口では約五十名の一年生たちがバリケードの構築作業を続けていた。指揮を執るアンダーガールズのジャンボとアニメは初めての役割に緊張しつつ、少しずつ完成に近づくバリケードに愛着さえ感じ始めていた。
すでにほとんどの教室から机の搬出は終わっていて、廊下には積み上げられるのを待つ机がずらりと並んでいる。そのひとつひとつにはシールが貼られ、元はどこの教室のどの位置にあったかがわかるようになっていた。
机を積み上げる者、結束バンドで脚を止める者、ロープで補強する者などの役割を特に決めたわけではなかったが、いまや五十名ほどの生徒たちは分業し、最初のころとは比べものにならないくらい効率的に作業をおこなっている。
設計ミスや役割分担やケンカでたびたび中断した作業だったが、バリケードが徐々に「かたち」になってくるとともに、それらのいざこざは少なくなっていた。いつもは敵対している組織やクラス同士だから和気藹々というわけにはいかないが、集められた五十人は少なくともただひとつの同じ目標――すなわちアリジョから学校を守るためバリケードを完成させる――においては団結力を示そうとしていた。
ジャンボとアニメはホッとした。完成予定の十九時までには間に合わないだろうが、徹夜で作業をするまでの事態にはならなさそうだった。
天井近くまで積み上げられた机の山を見上げ、ジャンボは誇らしげな笑みを浮かべた。
シャッター音が出ないように改造してある携帯電話だけを壁の向こう側に出し、ネズミは写真を撮った。
確認すると、そこには五十人ほどの生徒たちが生徒用通用口前にバリケードを製作している様子が写っていた。トリミングが気に入らなかったが、概要がわかればいいだろう。ネズミはそれを、先ほど撮った教員用通用口前のバリケード写真とともに、「田中やすえ」――フォンチー――宛のメールに添付した。名前を変えて登録しているのは、携帯が人の手に渡ってしまったときに証拠をつかまれないための策だった。
メールを送信すると、ネズミはだれにも会わないように物陰に隠れながら、非常階段への出入口へと向かった。
この学園校舎への侵入ルートは四つ。生徒用通用口、教員用通用口、体育館への渡り廊下、そして非常階段出入口だ。
ネズミはバリケードが二箇所にしか作られていないことが気になった。そこを封じたところで別の入り口から侵入されるに決まっている。それならわざわざ労力をかけてバリケードなど作っても意味がない。作るならすべての出入り口を封鎖するべきだ。
しかし、そうしていないということは、そこになにかの理由があるからだ。
末端の生徒たちに作戦の概要はほとんど知らされていなかったが、ネズミには見当がついていた。
狭い出入口に戦力を集中しての各個撃破……。
体育館へ続く渡り廊下出入口の扉は大きいから、本来はここにもバリケードを作るべきだろう。しかし、ここは臨時の救護室になる体育館へけが人を搬入するため、アリジョの生徒全員を校舎内に引き込んだあと、しばらくしてから開放される予定になっている。それまでは内側から鍵をかけて侵入を防ぐしかない。
となると、アリジョを誘導するのは非常口出入口のドアということだ。ここなら狭くて一人ずつしか通れない。ネズミが参謀なら、サドにそう進言する。
いまは人気(ひとけ)がないその扉のノブに触れると、違和感があった。ノブが回らないのだ。よく見ると、カギが壊されていた。生徒会の指示かラッパッパの指示か……。だがネズミにとってそんなことはどうでもよかった。
あたりに人がいないことを確認して、ネズミはドアノブと扉の写真をそれぞれ撮影した。さっきのように写真をメールに添付し、本文にはラッパッパは非常口出入口で待ち伏せする作戦らしい、と打った。
送信完了の表示を見て、ネズミは携帯電話を折りたたんだ。
――バカどもが焦る有様……近くで見たいけど、それは無理だろうな。
ネズミは作戦が始まる前に、珠理奈と図書室に篭ることになっている。バカどものケンカに巻き込まれて痛い目に合うのはごめんだった。マジジョ崩壊と前田敦子が斃される瞬間を見られないのは残念だが、自分の身を危険にさらすわけにはいかない。
――まあ、いい。結果さえ出てくれれば。
ネズミは非常口出入口のドアから離れ、廊下を歩き出した。
佐藤すみれは焦っていた。
体育館にはまだ、保健室から運び込まれた三つのベッドしか並べられていなかった。だだ広い体育館の中央に、ぽつんと置かれたベッドはむしろないほうがマシに思えるくらい無意味に思えた。
生徒会室での事務作業を終え、すみれがここにやってきたのは一時間ほど前のこと。約二十人の二年生たちを使って最初にやらせたのは、保健室の機能を体育館にすべて移すことだった。
だが、すみれが保健室にキケンを訊ねると、彼は抵抗した。「きみね、ここにどれだけの道具があると思ってるの? それらはすべて清潔に保っておかなければいけないんだよ。素人に触らせたくないの」
「生徒会の物資調達許可が出ています。校長の承認も……」すみれはA4サイズの紙片をキケンの目の前に掲げた。
椅子に座ったままのキケンはそれにざっと目を通したものの、「あんな不潔な場所に持っていくなんて許可できないね。医者として、断固拒否する」
「こんな狭い場所では負傷者の救護ができません」あまりに抵抗するようであればラッパッパに連絡してキケンを拘束することもできるが、説得できればそれに越したことはない。すみれは切り札を使うことにした。「どれだけの数の生徒が負傷すると思ってるんですか。十数人じゃすみませんよ」
「つまり……?」キケンの喉仏が汚らわしく上下に動いた。すみれの言葉の裏を理解したようだ。
「好きなだけ、若い女の新鮮な傷の手当ができるってことです」キケンがサディストの変態性欲者であることを知っている生徒は数多かった。「先生がお気に入りの前田敦子も運ばれてくるかも……」
教員ではないキケンは、今朝の朝礼には出ていなかったから、前田敦子がいまこの学園にいないことをしらないはずだった。ウソをつくのは嫌いだが、事態は急を要している。
「――まあ、たしかに……生徒たちの怪我や病気に対処するのがボクの仕事だからねえ……」キケンは大きな眼をより大きく見開いて、唇をいやらしく歪めた。
もう一押しだった。飴はもう使った。今度は鞭の番だ。
生徒会はキケンが学校の外で「援助交際」ならぬ「援助治療」をしている証拠をつかんでいる。あまりに拒否をするなら、そのことを告げなければならない。しかし、それは最後の最後までとっておきたかった。
「どうしても許可をいただけないのであれば――」すみれはキケンに近づくと、キケンが制止する間もないすばやさで、背後のデスクの二番目の引き出しを開けた。「いますぐこの場に校長を呼んで、これがなんなのか弁明してもらうことになりますが……」
生徒会はキケンが保健室にビデオカメラを仕掛けていることもつかんでいた。そのリモコンがそこにあることも。
キケンの顔から、先ほどの性倒錯者の笑みが消えた。
今でもあのときのキケンの顔を思い出すと笑える。
だが、笑っている場合ではなかった。もう夕闇が窓の外に迫っている。
三つのベッドの横にはテーブルが置かれ、その上には傷の手当をするための医療品が乗せられていた。これらは元々保健室にあったものではなく、チームフォンデュのメンバーがドラッグストアで買ってきたものだ。
いま、そのチームフォンデュのメンバー五人は、体温計、ハサミ、ピンセット、ばんそうこう、幅のちがう包帯が数種類、三角巾、綿棒、ガーゼ、脱脂綿、油紙、消毒用アルコール、オキシドール、湿布薬、軟膏、ヨードチンキを二十あまりの救急箱に仕分けしながらしまっていた。
「おい、レモンッ」どっちがレモンに救急箱をつきつけた。「おめえ、ちゃんと見たのかよ。こん中、ガーゼばっかり入ってるぞ」
「ホントだー」寒ブリがそれを見て、能天気な声を上げた。
「そ、そんなことねえだろ……」レモンは目をパチクリさせながら、どっちから救急箱を受け取った。「あ。ほんとだ」
「てめえ、マジでやらねえとうちらまでサドさんにぶっ殺されるぞ」ツリが眉をしかめた。
「連帯責任ってやつだ」年増が付け加えた。
「わ、わかってらい。ンなこと」レモンは大げさに頭を左右に振った。「ちゃんとやりゃあいいんだろ。ちゃんと……」
そんなやりとりをする五人を見て、すみれは小さくため息をついた。
体育館には他にも十人ほどの生徒たちがいて、何度も入れ違いながら保健室の設備を体育館に運搬していた。何気なく入口の大扉に目をやると、ちょうど山椒姉妹の三人がなにやら細長い柱の付いた器具を運び込んでいる。すみれは、その器具がなにかわかると足早に三人に近づいた。
その器具の柱の片側には三十センチ角ほどの台座が、もう片方には遊標が付いている。両端を持っているのはらぶたんとまなまなで、リーダーのみゃおは左腕で腋に抱え込むようにして、四角くて薄い機械を持っている。「オーライ、オーライ」などと言いながら先頭を歩いているのは、どうやら誘導しているつもりらしい。
「ちょっと待って――」すみれはそう制止すると、みゃおに訊ねた。「これはなに?」
「ああ。身長を測るやつッス」みゃおは、そんなこともわからないのかとバカにするような視線をすみれに向けた。
「なんで持ってきたの?」
「保健室の物を全部持ってこいって、さっき言ったッスよね?」
「ちょっとは頭を使いなさい。ケガの治療をするってのに、なんで身長計が必要なの?」
「うちらは言われた通りにやってるだけッスから……なあ?」
みゃおの言葉に、らぶたんとまなまなが頷いた。
「それが頭を使ってないって言ってんの。そんなものいらないから元に戻してきて。あ。あなたが持っているのはなに?」すみれはみゃおに訊ねた。
「体重計」
どちらかといえば太目の体型のみゃおがそれを持っているのがおかしくて、すみれは笑ってしまいそうになったが堪えた。
「それもいらない。戻してきて」
「――ンだよ、せっかく持ってきたのによぉ……」
「力が有り余っているのなら、間仕切りでも持ってきて」
「はいはい……」
みゃおは背中を向けたまま、すみれに手を振って答えた。
すみれは今度は深いため息をついた。
【つづく】