■決戦―4■
この屋上からは、それはまるで馬路須加女学園の上空にぽっかりと現れた雲のようにさえ思えた。密集した鳥の総数はまったくわからなかったものの、集まった鳥たちが急降下爆撃機のように校舎へ向かって突撃していく様子を、やや吊りあがった意思の強そうな大きな瞳を持った少女が、双眼鏡のレンズ越しに見つめていた。
いま少女がいる屋上は、市内でもっとも高い通信会社のビルだ。建屋の中央には大きなアンテナがあるが、どんな役割を持ったものなのかはわからなかったし、そんなことはどうでもよかった。街――というか馬路須加女学園――が一望できる、この場所だけが重要だった。
レンズの向こうに見える不思議な光景もこの離れた場所からはまるで現実味がなく、少女は世界の広さを感じた。あのちっぽけな学校でなにが起ころうと、いま自分が立っている地点にはなんの影響もない。校舎の中はパニックになっているだろうが、自分は落ち着いてそれを観察するだけだ。
地上数十メートルの高さで吹く強い風が、濃紺の制服のワンピースの裾を膨らませ、少女の脚を太ももまで露出させた。しかし少女は少しも動かず、双眼鏡から目を離さなかった。太陽の光が制服の胸元に留められた、中央に『乃』という文字が彫刻された紫色の校章をキラリと輝かせた。
「ね~え~、玲香ぁ……あたしにも見せてよぉ」
背後から声をかけてきた松村沙友理を少女――桜井玲香は無視した。
「あんたが見たってしょうがないでしょ?」桜井の背後にいた橋本奈々未が松村をたしなめた。
「なんでなんよ~」
「ほら、こうして指で丸を作って覗けば? 指望遠鏡のできあがり」
「あ。ホントだ……って、こんなんで望遠鏡になるわけないでしょ」
「ねえ玲香」橋本が呼んだ。「始まった?」
「うん――始まってる」
桜井は双眼鏡を顔から離し、振り返って橋本にそれを渡した。
「あっ。貸してっ」松村がすばやい動きで橋本の手から双眼鏡を奪い取った。
「――ったく……」橋本は松村を横目で見てため息をついた。
「すっごいっ」双眼鏡を覗いた松村ははしゃいだ声を上げた。「鳥がたっくさんむらがってるっ。なにあれ、笑える」
「うっさいよ、あんた」松村を冷ややかな視線で射抜くように見つめたのは、三人から少し離れた場所にいた白石麻衣だった。「あたしたち、遊びに来てるんじゃないんだからね」
「ホント。マジでうるさいんですけど」このビルから北に位置する馬路須加女学園ではなく、東の山を望む位置に立っていた生田絵梨花は迷惑そうに言って、自前の――桜井が持っているのは学校の備品だ――小さな双眼鏡を覗き込んだ。
「まあまあ……ケンカしないでくださいよ」生田の脇にいる困り顔の秋元真夏が生田の肩を軽くたたいた。
それを見て、巨大なアンテナの基礎となっているコンクリートの台座に座っている星野みなみがふっと鼻で笑うと小声でつぶやいた。「バカみたい……」
「玲香」と橋本。
「ん――?」
「どっちが勝つと思う?」
「マジ女」桜井は即答した。
「どうして?」
「勝ってくれなきゃ困るから――かな」桜井はふっと笑った。
「なんだ願望か」
「願望だろうがなんだろうが――」桜井の表情から笑みが消え、いつものするどい目つきになった。「マジ女はわたしたちがいつか倒さなくちゃいけない相手。アリ女なんかに負けてもらったら困るわ」
「そうね」橋本はうなずいて背後を見た。「でもそのためには――あの子に覚醒してもらわないと」
桜井も橋本の視線の先を追った。
そこには細い体躯をあやつり、空手の形のひとつ、抜塞を繰り返し練習する美少女がいた。
少女は先ほどからみんなのやりとりはおろか、馬路須加女学園の様子にさえ興味を持たず、ただひたすらに型を体に染み込ませようとしていた。彼女の体が機敏に動くたび、スカートの裾が弾んだ。
少女はこの場に来ることを最初は拒んだ。そんな時間があるのなら自分は『ノギ女』に残って研鑽していたいと少女は言った。しかし桜井は彼女を強引に誘った。いずれ戦う相手の本拠を見ておくのも大切だ、と。
「生駒ちゃん……ね……」桜井玲香は生駒里奈を見るたびに思う。いまはまだ彼女にマジ女の生徒と渡り合える力はない。しかし、彼女が自分の本当の力に目覚めれば――。「ま――。まだ当分先の話だわ」
「私たちが卒業するまでに間に合うといいけど」
「そうね」桜井はうなずいて生駒に向かって、「生駒ちゃん。こっち来な。始まってるよ」
生駒はその声で動作をやめ、こちらを向いた。汗にまみれた十七歳の顔には笑顔が浮かんでいた。そして生駒はつかつかとやや前のめりの姿勢で歩いてきた。
「松村。渡して」橋本が厳しい口調で言うと、松村は渋々双眼鏡を生駒に渡した。
生駒は屋上の縁まで進むと双眼鏡を目にあて、馬路須加女学園のほうに向けた。
桜井は生駒の顔を見た。
薄い唇が少しずつ笑みを浮かべてきた。「――おもしろい……もっと近くで見たいな」
「今日はダメよ」
「なら、もういい……」生駒は双眼鏡から目を離し、桜井にそれを放った。
そのとき、東側にいる生田が声を上げた。
「あっ……あれ……あんなとこにマジ女の生徒がいる」
「えっ」桜井は早足で生田に近づいた。「どこに?」
「ほら。あのコンビニから出てきた」
桜井は双眼鏡をのぞいた。倍率が高すぎて目標をなかなか見つけることができなかったが、しばらくしてコンビニエンスストアの駐車場を歩く二人の女が視界に入ってきた。ひとりは緑のジャージを、もうひとりは引きずるくらい長いスカート丈のセーラー服を着ていた。
顔には見覚えがあった。桜井は馬路須加女学園の教職員のネットワークに侵入して入手した生徒名簿の写真をすべて覚えている。
ジャージが指原莉乃。セーラー服が鬼塚だるま。
まちがいはなかったが、指原と鬼塚がなぜここにいるのかはわからなかった。馬路須加女学園はいま大変なことになっているというのに、ふたりは呑気にコンビニでお買い物というわけか――。
「どうしていまごろこんなところに……」桜井は双眼鏡を顔から離し、裸眼でふたりを見下ろした。
「遅刻でもして、まだ知らないんじゃないですかね」松村が軽い口調で言った。
「知らないなんてありえない。だれかが携帯に連絡するはず」
「忘れてきたとか……」
「ふたりとも?」
松村はそこで黙りこんだ。
桜井は指原と鬼塚が向かった方向を見つめた。その先にあるのは馬路須加女学園だ。
なにか自分たちに窺い知れない事情があって、二人はいま学園にいないのだろう。それがなんなのかはわからないが、捕まえて聞くわけにもいかない。自分たちのこの偵察活動は極秘におこなわれているのだから。いずれにしろ二人がマジ女に行こうとしていることはたしかなようだった。
ふと、桜井は生駒に視線を移した。
生駒里奈は右手の人差し指と親指を立てて拳銃を模すと、その腕をまっすぐに指原と鬼塚へ向けていた。
大丈夫だろうか、彼女で――。
桜井の胸に不安がよぎる。
そこへ白石麻衣が風のように近寄ってくると、そっとこう言った。「生駒ちゃんがダメなら……あたしがいるから……」
桜井は白石を見つめた。
「あたしはいつだっていける。いまだっていい」力強い目つきだった。
「たしかにいまのあなたなら生駒ちゃんより強いでしょうね。でも強いだけじゃダメなの。先頭に立つ人間はそれだけじゃダメ。そしてその足らないものは生駒ちゃんもあなたも――ノギ女のだれもがまだ持ってない。だからいまマジ女なんかと闘ったら……」桜井はたくさんの意味を込めて白石に笑顔を向けた。「ぼろかすにされて終わりよ」
白石はなにかを言おうとしたが、桜井は彼女に背を向けた。そしてみんなに聞こえる大きな声で叫んだ。「さっ。帰るよっ。視察はおしまいっ」
私たちにはまだまだやらなくてはいけないことがある。それを知っただけでもここに来て正解だったと桜井は思い、みんなが後ろに続く気配を察知して、歩き出した。
【つづく】