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雨の中、豊洲のシネコンでマイミクのシズクさんと見て来ましたよ。んで、感想。
原作は何ヶ月か前に読んでいたけど、大まかな筋しか覚えていなかった。ハルヒが消えたのは長門のせい、くらい(大まかすぎ)。
ということは、どうしたって原作との比較というか、映像化する意味合いみたいなものを考えながら見てしまうわけで、原作を読んでいるというのは良いことも悪いこともあると思う。
で、忠実さという点では、これはかなり良い出来だ。が、出来はいいんだが、そのせいで上映時間が150分もある。アニメとしてはかなり長いと思う。そして、ここには小説のアニメ化という問題が孕まれている。
『ハルヒ』シリーズには類型的なキャラクターが多数登場するが、その中でもっとも観客(読者)に近い存在なのがキョンだ。彼はこちらの世界とほぼ同様な価値観を持ち、世界の異常にリアクションする。観客はキョンを通じてハルヒと出会う。
今回の映画は、キョンと長門の物語だ。故に、いつも以上にキョンのモノローグが多くなる。小説は一人称だから当然として、アニメではキョンのいない場所で話は展開しない(例外エピソードもあるけど、あくまで例外)。
そして『消失』では、そのキョンのモノローグが原作のほとんどすべてじゃないか、というくらいに詰め込まれている。
小説ならいいが(というか彼が語らなければ物語は存在しない)、映画でそのままやるのはいかがなものか。映画は映像で語るものである。
特にクライマックスのキョンのモノローグは饒舌すぎるし、演出もあまりうまくいってないと思う。これはおれが、心象風景が連続する映像が嫌い、ということもあるんだけど、たとえば鏡の中の自分が語りかけてくるって演出は陳腐以外のなにものでもない。キョンのモノローグが魅力的であることはわかるが、そのままやればいいというのなら、映像化する意味はどこにあるんだろう、と考え込んでしまう。
思い切って、モノローグでなく映像で表現するようにしたら、きっと30分くらいは削れて、時間的にもうまくまとまったのではないだろうか。いや、『ハルヒ』の世界を少しでも長く味わっていたい、という人にとってはいいんだろうし、多分、そういう人のほうが多いとも思う。でもやっぱり、150分は長いと思う。思ってばかりだが。
なにがいいたいかというと、「原作に忠実」ってのが必ずしもいいことではないのではないか、ということ。
また、これは原作にも映画にも共通する、物語の構造の問題なんだけど、長門の作った新しい時間軸(でいいのかな?)にいるキョンの日常は、元の時間軸よりも幸福に満ちていないといけないのではないだろうか。
長門は自分の感情に素直になってあの時間を作り、そして今までとは違うアプローチでキョンと接した。だがキョンはハルヒを追い求める(このあたりのエピソードは、人間っぽい長門のかわいらしさがとてもうまく表現されていた)。そこに長門の悲哀が見えるのだが、それだけだと彼女があまりにも救われないと感じた。キョンがハルヒを探すのはいいとしても、以前とは変わった長門のことも気になりだす、というふうにしたほうが、エンターキーを押すときの葛藤が面白くなると思う。ハルヒはいないけど、そこそこ充実している新しい日常も悪くない、とキョンが感じるような……。
と、大きく分けて2点、気になるところはあった。
あとは、オープニングでテレビ版と同じ曲を使っていたのが気になった。『劇場版 東のエデン』のときも書いたけど、スクリーンで見るものには映画ならではのスペシャル感が必要ではないか。
それなら最後はダンスを踊るんだろうなと思っていたら、そちらはなし(ヤマカンの手柄は封印?)。エンドタイトルのあとの蛇足としか思えないエピソードが入っていたけど。
映画ならではのタイトルの出方とか、それによってはアガる感じで見られたのにもったいないなぁ……。
と、ブツクサはここまで。あとは褒めますw
まずアニメとしてのクオリティはかなり高い。絵ももちろんきれいだし、ところどころのCGも効果的に使っている。
キャラの動きを見ていて連想したのは細田版『時をかける少女』だ。細田は本人も言っていた通り、普通の仕草をアニメですることの意味をよくわかっている。『消失』ではキャラが散らばった靴やスリッパを履くところとか、机の中の物がうまく引っ張り出せずにつかえたり、普通のアニメなら面倒くさくてやらないことをあえてやっている。
また、きちんとしたロケハンによる背景のきめ細やかな雰囲気も良かった。画面の隅まで神経が行き届いている感じ。ロケ地はどこなんだろう。巡りたくなる。サイゼリアのあの席はきっと聖地なんだろうなぁ。
だけどそれは実は危ういことでもある。つまり、ロケ地を忠実に再現できればできるほど、「実写でよくね?」とおれなんかは言いたくなる。もちろんこのスタッフたちは、アニメならではの表現も取り入れているけどね。
それから、平野綾も良かった。ちゃんと二人の涼宮ハルヒを演じ分けている。なんだかんだ言っても、この人はかなりうまいと思う。
……といった感じかな。
『ハルヒ』については実はいろいろ言いたいこともあるんだけど、それはまたいずれ、機会があれば……。
ともかく、良くも悪くも、これが今の世界が求めている小説でありアニメなんだろう、という気がしました。
←原作の小説っていつのまにかカバーイラスト変わったんだね。
原作は何ヶ月か前に読んでいたけど、大まかな筋しか覚えていなかった。ハルヒが消えたのは長門のせい、くらい(大まかすぎ)。
ということは、どうしたって原作との比較というか、映像化する意味合いみたいなものを考えながら見てしまうわけで、原作を読んでいるというのは良いことも悪いこともあると思う。
で、忠実さという点では、これはかなり良い出来だ。が、出来はいいんだが、そのせいで上映時間が150分もある。アニメとしてはかなり長いと思う。そして、ここには小説のアニメ化という問題が孕まれている。
『ハルヒ』シリーズには類型的なキャラクターが多数登場するが、その中でもっとも観客(読者)に近い存在なのがキョンだ。彼はこちらの世界とほぼ同様な価値観を持ち、世界の異常にリアクションする。観客はキョンを通じてハルヒと出会う。
今回の映画は、キョンと長門の物語だ。故に、いつも以上にキョンのモノローグが多くなる。小説は一人称だから当然として、アニメではキョンのいない場所で話は展開しない(例外エピソードもあるけど、あくまで例外)。
そして『消失』では、そのキョンのモノローグが原作のほとんどすべてじゃないか、というくらいに詰め込まれている。
小説ならいいが(というか彼が語らなければ物語は存在しない)、映画でそのままやるのはいかがなものか。映画は映像で語るものである。
特にクライマックスのキョンのモノローグは饒舌すぎるし、演出もあまりうまくいってないと思う。これはおれが、心象風景が連続する映像が嫌い、ということもあるんだけど、たとえば鏡の中の自分が語りかけてくるって演出は陳腐以外のなにものでもない。キョンのモノローグが魅力的であることはわかるが、そのままやればいいというのなら、映像化する意味はどこにあるんだろう、と考え込んでしまう。
思い切って、モノローグでなく映像で表現するようにしたら、きっと30分くらいは削れて、時間的にもうまくまとまったのではないだろうか。いや、『ハルヒ』の世界を少しでも長く味わっていたい、という人にとってはいいんだろうし、多分、そういう人のほうが多いとも思う。でもやっぱり、150分は長いと思う。思ってばかりだが。
なにがいいたいかというと、「原作に忠実」ってのが必ずしもいいことではないのではないか、ということ。
また、これは原作にも映画にも共通する、物語の構造の問題なんだけど、長門の作った新しい時間軸(でいいのかな?)にいるキョンの日常は、元の時間軸よりも幸福に満ちていないといけないのではないだろうか。
長門は自分の感情に素直になってあの時間を作り、そして今までとは違うアプローチでキョンと接した。だがキョンはハルヒを追い求める(このあたりのエピソードは、人間っぽい長門のかわいらしさがとてもうまく表現されていた)。そこに長門の悲哀が見えるのだが、それだけだと彼女があまりにも救われないと感じた。キョンがハルヒを探すのはいいとしても、以前とは変わった長門のことも気になりだす、というふうにしたほうが、エンターキーを押すときの葛藤が面白くなると思う。ハルヒはいないけど、そこそこ充実している新しい日常も悪くない、とキョンが感じるような……。
と、大きく分けて2点、気になるところはあった。
あとは、オープニングでテレビ版と同じ曲を使っていたのが気になった。『劇場版 東のエデン』のときも書いたけど、スクリーンで見るものには映画ならではのスペシャル感が必要ではないか。
それなら最後はダンスを踊るんだろうなと思っていたら、そちらはなし(ヤマカンの手柄は封印?)。エンドタイトルのあとの蛇足としか思えないエピソードが入っていたけど。
映画ならではのタイトルの出方とか、それによってはアガる感じで見られたのにもったいないなぁ……。
と、ブツクサはここまで。あとは褒めますw
まずアニメとしてのクオリティはかなり高い。絵ももちろんきれいだし、ところどころのCGも効果的に使っている。
キャラの動きを見ていて連想したのは細田版『時をかける少女』だ。細田は本人も言っていた通り、普通の仕草をアニメですることの意味をよくわかっている。『消失』ではキャラが散らばった靴やスリッパを履くところとか、机の中の物がうまく引っ張り出せずにつかえたり、普通のアニメなら面倒くさくてやらないことをあえてやっている。
また、きちんとしたロケハンによる背景のきめ細やかな雰囲気も良かった。画面の隅まで神経が行き届いている感じ。ロケ地はどこなんだろう。巡りたくなる。サイゼリアのあの席はきっと聖地なんだろうなぁ。
だけどそれは実は危ういことでもある。つまり、ロケ地を忠実に再現できればできるほど、「実写でよくね?」とおれなんかは言いたくなる。もちろんこのスタッフたちは、アニメならではの表現も取り入れているけどね。
それから、平野綾も良かった。ちゃんと二人の涼宮ハルヒを演じ分けている。なんだかんだ言っても、この人はかなりうまいと思う。
……といった感じかな。
『ハルヒ』については実はいろいろ言いたいこともあるんだけど、それはまたいずれ、機会があれば……。
ともかく、良くも悪くも、これが今の世界が求めている小説でありアニメなんだろう、という気がしました。
![](http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f0442%2f04429204.jpg%3f_ex%3d128x128&m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f0442%2f04429204.jpg%3f_ex%3d80x80)