■特訓―4■
体の節々とあるゆる筋肉が痛いことを意識しなければ、とてもさわやかな朝だった。雲がほとんどない青空は見ているだけですがすがしい気分になれる。
今朝もまた、ヲタは携帯電話の電源を入れるか迷ったが、結局そのままにした。だれかからメールが届いていないか気になって仕方がなかったし、自分のいまの状況を知らせておいたほうがいいかもしれないとも考えた。チームホルモン――いや、純情堕天使のみんなが自分のことを探していたら申し訳ない。心配しなくていい、ということだけでもメールをしておいたほうがよいのではないか。
しかしその逆に、自分のことなどみんなはもう気にかけてはいないような気もした。なにしろ自分は、理由はどうあれチームホルモンを捨てたのだ。しかもリーダーみずから。みんなは自分を許してくれないだろう。身勝手なヘタレなど、だれからも愛されなくて当然だった。
それでもヲタは――いや、だからこそ、強くならなければいけなかった。
たった一週間の鍛錬でも、なにもしないよりはいい。きっとなにかが自分の中で変われるはず。ヲタはそう信じて、今日も立ち上がった。
朝食のあと階段を五往復すると、いつものように鳥居の下で倒れこんだヲタに向かって、だるまが言った。「今日からはちがうメニューをこなすで。実戦や」
「実戦って……、おれとおまえで……やるの、かよ……」
初日から比べれば体力のペース配分ができるようになったが、さすがに休みなしで五回の往復はきつかった。
「そうや」だるまはなにかを含んでいるような目つきになった。「ま。とりあえず、立てや」
ヲタはゆっくりと立ち上がった。また体中の筋肉が悲鳴を上げた。「――痛てて……」
「なんや、まだ痛いんか。ほんまに、いままでどれだけ鍛えてなかったかって証拠やな」
「うるせえな」
「師匠にむかって、その口のききかたはなんや」
「だから、てめえを師匠と認めた覚えはねえって、何度言ったらわかるんだ」
「まあ、ええわ。で、実戦なんやけどな、こんなふうにやるんや……」
だるまが突然近づいてきて、ヲタの額に頭突きを食らわせた。
闘う心構えのできていなかったヲタは、その激痛に叫び声を上げた。同時に目の前に火花が飛び散り、脳みそが頭蓋骨の中でグラッと揺れたような気がした。仰け反るような体勢になり、そのまま後ろによろよろと下がった。すると、なにか硬いものに後頭部を強打した。鳥居の柱だろう。ヲタはその反動で再びよろけ、うつ伏せで砂利の上に倒れた。開きっぱなしの口の中に砂利と砂が入ってきて、乾いた苦味がした。唾と一緒にそれを吐き出し、ヲタはだるまを憎しみの目で見上げた。「てめえ、いきなり、なにしやがるっ」
「けっこう効いたみたいやな? せやけど、いまのは二十パーセントくらいの力しか出してへんで」
「マジかよ……」
「敵はおまえのタイミングで攻撃せえへんってことや」
「敵って……てめえは師匠じゃねえのかよ」
「師匠と認めた覚えはないんやろ?」
だるまはにやっと笑った。
「ふざけやがってよぉ……」ヲタは頭を軽く振りながら立ち上がった。「これがてめえの言う『実戦』か」
「そうや。これから、いつなんどきも警戒を怠ったらあかん。おまえに隙があったら、いつでも行くで」
「ふざけんなよ……」
ヲタは後頭部にたんこぶができていないかどうかを確認した。ほんの少し、盛り上がっている箇所をさわると、ずきっとした痛みがあった。
「オレの頭突き、強力やったろう? オレに頭突きという必殺技があるように、おまえも、これという技を見つけるんや」
「おれはてめえみたいにデコの皮は厚くねえから頭突きは無理だ」
「別に頭突きやなくてもええ」だるまは首を横に振った。「ええか。そもそも、たった一週間でケンカが強くなるわけあらへん」
「それ言ったらおしまいじゃねえか」
「事実なんやから、仕方あらへんやろ。おまえがかなりの覚悟で特訓してるのはわかってるつもりや。せやけど、一週間程度の特訓で、朝日に勝てるようになると思うとるんか?」
「それは……やってみなけりゃわかんねえ……」
「無理や。絶対に負ける」だるまは言い切った。「強いやつはそれなりに場数を踏んどるし、日々の努力もしとる。朝日が天才か努力家かはわからへんが、おまえごときヘタレがたった一週間の特訓で勝つつもりでいるなんて、オレからしたら笑い話以外のなにものでもないで」
「おいおい、せっかく四日間も一緒にやってきたのに……」
ヲタは焦った。だるまがそう思っているのなら、特訓の最初の日に言うべきだろう。今さらそんなことを言われたら、意気消沈するだけだ。
「まあ、最後まで聞けや。オレはおまえの心意気は買(こ)うとる。ヘタレのくせによくやっとる、とな。だからおまえには勝ってほしいんや。ほんまにそう思っとるで」だるまの目は真剣だった。「短期間で総合的に強くなるのは無理やから、なにかひとつ、これという必殺技を身につけるんや。それなら、わずかでも勝てるチャンスはあるはずや」
「必殺技が効かなかったらどうすんだよ」
「まあ、負けるだけやろな」
「そんな……」
「甘ったれるんやない」だるまがぴしゃりと言った。「おまえが負け続けてきたのはおまえ自身の責任や。朝日がどれだけ強いのか、オレにはわからへんけど、これだけは言える。朝日はおまえよりは努力してきたはずや。その差は何年もあるかもしれん。それをおまえはたった一週間で埋めようとしてるんや。まともに戦ったら、また負ける。だとしたら、勝てるチャンスは必殺技の一撃しかあらへんやろ」
そうかもしれない、とヲタは思い直した。ヲタがこうして特訓をしているあいだに、朝日もまた自分を鍛えているのかもしれない。そうなれば、実力の差は縮まらないどころか、元々資質のある朝日のほうが早く鍛えられるかもしれず、だとしたらその差は開く一方である。そんな相手とまともに闘ったところで勝ち目はないだろう。
「――わかったよ。お前の言うとおりにやってみるよ」
「わかってくれれば、それでええ」だまるは満足そうにうなずいた。「で。最初に聞くけど、おまえにこれといった技はあるんか?」
ヲタは考えた。ひとつあった。「――肘、だな。肘は鍛えなくても堅くて使えるって聞いたから……」
「肘か。なるほど、それはそうかもしれへん。ちょっと、オレに打ってみい」
「マジでいっていいのか?」
「もちろんや」
だるまは胸を張って、ヲタを向かいいれるように両手を広げた。
ヲタは右手の肘を九十度に曲げ、水平に倒した。肘の頂点はだるまに向けている。そして、少しずつだるまに近づいた。狙うのはだるまの胸だ。背の高さはほとんどちがわないので、肘を水平に当てようとすると必然的にそうなる。
あと一歩で射程範囲内というところで、ヲタは決意して、だるまの懐に思いっきり飛び込んだ。突進した勢いのまま、矢のように直線的に肘をくりだす。
その直後、ヲタは下腹部に強い衝撃を感じた。
あまりの衝撃に声も出せず、弾かれたように背中から砂利の上に転がされた。
さきほどの頭突きが鋭い痛みだとすると、今回は鈍い痛みだった。打たれた瞬間よりも、そのあとに体の奥から痛みが湧き上がってくる。深呼吸をしようとすると、腹がずきんと痛んで苦しかった。ヲタは喘ぐように息を吸わなくてはならなかった。胃のあたりから、なにかが逆流しそうになってきて、ヲタは唾を呑みこみんでそれをおさえた。
「隙があったら行く、言うたやろ。これは相手の突進に合わせてこちらの攻撃を加える、カウンターってやつや」だるまはヲタに食らわせた右膝を下ろしながら言った。「どうや、かなり効いたやろ?」
「――ふざけんな、こんなの、聞い、てねえ……ぞ……」ヲタはだるまを見上げて、にらんだ。
「これが本番やったら、おまえはこのあと朝日にボコボコにされるで。ええか、ケンカにきれいも汚いもない。なにをしようが勝たなあかん。さ、立てや……」
だるまはヲタのジャージの襟元をつかみ、ぐっと引き上げた。すごい力だった。腹を押さえたまま、ヲタはあやつり人形のように立たされた。
思わず文句が出てしまったが、だるまの言うとおりだった。完全に油断していた。この腹の痛みがその代償だ。怒りをだるまに向けるのはまちがっている。愚かな自分に向けるべきだった。
「――おまえが正しいよ、だるま」ヲタは頭を下げた。「たしかにおれは油断してた」
「ひとつひとつ学んでいけばいいんや」だるまはヲタの肩に手を置いた。
ヲタはその直後、密着しただるまの胸に肘を叩きこんだ。
できるだけ小さな動きで打たなければいけなかったし、その瞬間、腹に激痛が走ったから、どれほどの威力があったかはわからない。それでも、だるまのやわらかい乳房の感触は、たしかに肘から伝わってきた。ちゃんと当てることができて、ヲタは喜びを感じた。
意表を突かれたのか、だるまは目を見開いて、二三歩後退した。だが、それだけだった。やはりたいした威力はなかったようだ。
「ふん。やってくれるやないか……」だるまは満足げに笑った。「せやけど、まだまだやな。これなら蚊に刺されたほうが痛いで」
「いずれ一撃で気絶させてやるよ」ヲタは願望をこめて言った。
一日は、まだ始まったばかりだった。
【つづく】
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