■胎動―3■
2年C組の教室に戻ってきたバンジーは、ぽっかりと空いた椅子と机を見つめていた。
――前田……。
あの雰囲気の中、自分一人だけ体育館をあとにできる神経に、バンシーは感心している。仮に闘いたくないとしても、あの場で自分が帰れるだろうか。考えるまでもなく、答えはNOだ。怖くても、女にはやらなければならないときがある。怖いからこそ立ち向かい、克服する。それこそがヤンキーの矜持であり、ヤンキーとはダチを守れる決意の魂のことだ。
それを失えば、もはやヤンキーではない。単なる暴力装置であり、ガキであり、他者に理不尽を要求する輩である。
前田敦子はヤンキーのはずだった。
バンジーは少しだけ失望した。ダチのため――と、バンジーたちのためにゲキカラと闘ってくれた前田敦子はもういなくなってしまったのか。だとしたら、その原因はなんなんだ? いまの前田に、新しい学校のダチ以上の存在があるのだろうか?
一方で、前田にあのような態度をとらせたのには、そんなことよりももっと大きな理由があるのかもしれない、とも思う。たとえば、いまのダチよりも、もっと大切ななにかのため、とか……。
――まあ、いい。あたしが考えても仕方ないこと。
バンジーは生あくびをした。
そんなことより、今日を含めた数日間のことのほうが大切だ。
体育館でサドの檄を受けた生徒たちは、興奮気味に教室に戻ってきた。これから大っぴらにケンカができることで、だれもかもが浮き足立っていた。壁を叩きまくる者、雄たけびを上げる者、シャドウボクシングをする者、竹刀やバットの素振りをする者、ナイフを研ぎだす者、組み手を取り合う者など、おそらくすべての教室で、バンジーの目の前の光景が展開されているにちがいない。
「バンジー」アキチャが背後から声をかけてきた。「前田、帰っちまったな」
「ああ。どういうつもりなんだか……」
「ヲタもだるまもいねえし、チームホルモンは存在しねえしなあ……。派手にケンカができるってのは面白そうだけど、なんかもうひとつ盛り上がんねえよな」
「だな」
アキチャのかたらわで、ムクチがうんうんと頷いた。
「だいたい、アリジョはめちゃくちゃ強ぇえ。前田もゲキカラもいなくて勝てるのかよ」
「さすがに、これだけの人数が相手ならなんとかなるんじゃねえか」
「だといいけど……」
そこにウナギがやってきた。「バンジー。『うちのチーム』のリーダーさんがお呼びだぜ」
ウナギは教室の前方の扉を、親指で指した。
プリクラは教室に入らず、扉の向こうでおじぎをした。
プリクラに連れられ、バンジーは吹奏楽部部室へつながる階段を登った。
校内は廊下を歩くだけでもわかるほど、いつもとはちがう興奮に包まれていた。あちこちの教室が沸いているさまは、校舎という巨大な生き物が躁状態となり体の内部からうねりをあげているかのようだった。無理もないとバンジーは思う。ここ数ヶ月のラッパッパ対前田敦子の抗争は、学園内に存在する数々のヤンキーグループに表立った活動を控えさせるに充分な緊張を強いていた。それがようやく、しかも学校と生徒会とラッパッパによって解禁となるのだ。このままの士気を維持できれば、前田がいなくてもアリジョに勝てるかもしれない。そう思えるほど、馬路須加女学園はアガっていた。
ジャンボがラッパッパからの伝令としてプリクラの元へやってきたのは十分くらい前だった――プリクラは廊下を歩きながら語った。至急、吹奏楽部部室へ来い、とのことだったそうだ。
三階の階段前と途中の踊り場には、どこかの工事現場からかっぱらってきたのか、通行止めを知らせる折りたたみ式のバリケード看板が置かれていた。表示板には『関係者以外立入禁止』と印刷されている。そしてその後ろには三階にジャンボとアニメ、踊り場に昭和とライスが歩哨のように立っていた。四人はプリクラとバンジーの姿を見るとバリケード看板をずらし、顎で階上を示した。
バンジーとプリクラが吹奏楽部の部室の扉を開けると、そこにはすでにたくさんの名立たるヤンキーたちがいた。
腕を組み、壁に体をあずけているチョウコク。
その横でポケットに手を入れて立っている学ラン。
山椒姉妹の三人――みゃお、らぶたん、まなまな――は、生チョコレートのおいしさについて討論していた。
歌舞伎シスターズの二人――大歌舞伎と小歌舞伎――は、ひそひそと内緒話をしていて、ときどき卑劣な笑みを浮かべていた。漏れてくる言葉の中に「カツアゲ」と「中坊」という単語があったので、だいたいの内容は把握できた。
合計九人。プリクラと自分を合わせれば十一人だ。
バンジーはみんなの視線を浴びながら、吹奏楽部に入っていった。
「――サドさんは……?」プリクラが学ランに訊ねた。
「そろそろ来ると思うぜ」
「これで全員ですか?」
「さあな」学ランは肩をすくめた。
と、そのとき、部室の扉が開く音がしたので、バンジーは振り返った。
サドが立っていた。
背後にはゲキカラを除いたラッパッパ四天王がいる。
山椒姉妹の話し声と、歌舞伎シスターズのひそひそ声がぴたりとやんだ。
近くで見る今日のサドはやつれたように見え、いつもに増して眼光が鋭い。見る者をそれだけで威圧するかのような佇まいだった。
「待たせたな――」
みんなは自然と壁際に寄り、部室の中央を開けた。チョウコクは壁から体を離し、学ランはポケットから手を出し、山椒姉妹の三人と歌舞伎シスターズの二人はおしゃべりをやめ、バンジーとプリクラは直立した。
サドに続いてトリゴヤとブラックとシブヤがその通路を通り、「部長専用」と書かれたソファの前でこちらを向いて整列した。中央にいるのはもちろんサドだった。
「おはよう。楽にしてくれ」
サドはふかふかのファーがかけられたソファに座り、くるぶしまであるロングスカートの中で長い脚を組んだ。
みんなは体育の授業でいうところの「休め」のポーズを取った。
もちろんバンジーもそうした。
「これで――全員だな」サドはひとりで頷いた。「ここに集まったメンバーはアリジョと一度は拳を交わしている。いわばアリジョが認めたマジジョ指折りのヤンキーたちってわけだが、ほとんど全員が負けた。情けねえ話だ。揃いも揃ってボコられ、やつらに自信を与えてくれた。おかげでやつらは調子に乗ってこの学園までやってくる。ディズニーランドに行くときみたいなテンションでな。おまえたちはやつらにとっては一度乗った、ちょっと刺激の強いアトラクションでしかない」
だれも反論しなかった。そんなことをすれば、サドの鉄拳制裁の餌食になるだけだ。いや、そうではなかった。サドの言葉は真実だったからだれも言葉を発しなかったのだ。
「だが、てめえらはそれでいいのか? ヤバジョをシメて、この県の天下を獲ったマジジョが負けていいのか? いいわけねえよな、みゃお?」
突然名前を呼ばれたみゃおは、弾かれたように「は、はいっ」と返事をした。呼ばれていないまなまなとらぶたんも、ビクッと体を震わせた。
「おまえたちは普段からなにも考えず、本能のままにミルフィーユだのワッフルだのプリンだのを食い散らかし、そんな体型になっている。だから舐められたんだ、わかるか?」
「はいっ」三人は声をそろえて返事をした。
「悔しいか?」
「はいっ」
「だれに対して悔しいんだ? おまえたちをデブ呼ばわりした私にか? それともおまえたちをボコったアリジョの連中か? あるいは卑怯な作戦を立てたにも関わらず負けた自分たちにか? どうだ、らぶたん?」
「――その……全部ですっ。あ。いえ……サドさんはちがうっす……」
「いや、かまわない。私に対して怒りを感じるのは当然だ。だがそれはすべてアリジョの連中にぶつけてやれ」
「わかりましたっ」
サドは視線を移した。「そこの歌舞伎メイクのカップル二人。おまえたちはどうだ? アリジョの連中が憎くないか?」
「憎いですっ」大歌舞伎と小歌舞伎が同時に叫ぶように答えた。
「だろうな。だったら、今度こそ、そのメイクが伊達じゃないってことを教えてやれ。女同士で乳繰り合うのもいいが、やるときはやれ」
「はいっ」
「おまえがいつも男の格好をしてる理由――」サドは今度は学ランに視線を向けた。「聞いたことねえな。チンポでも付いてんのか?」
「俺は――男ッスから」学ランはいつもよりも低い声で言った。
「性同一性障害ってやつか?」
「難しいことはわからないッス。そうだとしてもアリジョとの戦いにはなんの関係もないッス。自分は自分にやれる、精一杯のことをするだけッス」
「そりゃそうだな」サドは苦笑して、学ランの隣にいるチョウコクを見た。「おまえ……まだ百人斬りは終わってねえみたいだが……今日と明日だけは休戦だ――いいな?」
「ああ――かまわねえさ。私もあいつらには貸しがあるんでね……。ただ、これだけは言っておく。私は私のために闘う。学校とかラッパッパとかは関係ない。あんたのためでも、大島優子のためでもない」
「それでかまわない。闘う理由は人それぞれだ……なあ、シブヤ?」
なぜかサドはシブヤを見た。シブヤは冷笑のような照れ笑いのような表情を浮かべ、小さく頷いた。
サドはそれから、いよいよバンジーたちのほうへ顔を向けた。
「そこのヤリマン――」サドはプリクラを指さした。「男とヤるのとケンカ、どっちが好きだ?」
プリクラは即答した。「両方です」
「おまえもか?」
サドと目が合った。
腋の下に汗が滲んでいるのが自分でもわかる。
サドに見つめられると、バンジーは入学初日の恐怖を思い出す。
新入生だからといって舐められたくない一心で、バンジーはイキがっていた。肩が触れれば相手をにらみ、道を譲られなければタイマンを張り、そして勝った。
昼休みにバンジーが廊下で出合った相手は、当時も三年のサドだった。バンジーは相手がマジジョのナンバー2だということも知らず、サドの直前まで進路を曲げなかった。
立ち止まったのはサドのほうだった。
バンジーの爪先を踏みつけて――。
「おい。謝れよ」バンジーは背の高いサドを見上げていった。
「なんで謝んなきゃいけねぇんだよ」サドの射るような眼光を見た瞬間、バンジーは力量の差を悟った。理屈ではなく、本能でわかった。この女には勝てない。ケンカの腕だけではなく、人としての器もちがう。
――かなわない。
ケンカを売る相手をまちがえた。その後悔は瞬時に恐怖へと変わり、バンジーの心臓をじわじわと侵食しはじめた。
だが、ヤンキーとして素直に引っ込むわけにもいかなかった。
どうすればいいのかわからなくなって、バンジーはほんの少し苦笑いをしてしまった。さっきまであれほどいきがっていた新入生がにらまれただけで完全にビビっている。それが自分のことながらおかしかった。
「おい。なにがおかしいんだよ――あンっ?」
廊下にいた者たちは凍り付いていた。自分たちがこの場に居合わせてしまった不幸を呪っているかのようだった。こんな一触即発の現場からは一刻も早く立ち去りたいが、ここで目立った動きをすればサドの怒りが自分に飛び火する可能性がある――そう考えているのかもしれなかった。ある者は目を見開いて「言わんこっちゃない」と言いたげな表情で周囲を見回し、またある者はクチパクで「マジでヤバいって」と頷きあっていた。
バンジーは逃げることにした。視線を逸らし、無言で負けを認めた――つもりだった。
しかしサドは爪先を力いっぱい踏んだまま、顔を背けたバンジーを覗き込むようにしてきた。「なにがおかしいんだ……?」
泣きそうだった。自分の目が泳いでいるのがわかった。
大島優子が現れたのは、バンジーの背後からだった。「おいおい、そのくらいにしといてやれよ、サド。新入りがちょっとばかしイキがってるだけじゃねぇか。あんまビビらせるなって……かわいそうに、なあ、一年坊?」
大島優子はそう言って、バンジーの顔を覗き込んできた。
あんなに屈託のない笑顔を見せる人間を、バンジーはいまだに知らない。
サドに解放されたあと、バンジーは腋の下に尋常ではない量の汗染みを作っていたことを知った。家に帰るまで自分の臭いが気になって仕方なかった。
それ以来、サドと目が合うと意識より先に体が反応してしまう。
いまもそうだった。
「おまえもか?」と訊ねられただけで、あっという間に腋の下が湿った。
バンジーは視線を半分だけ合わせ、答えた。「自分は男を知りません。だからケンカが好きです」
サドが鼻で笑って、プリクラに向かって言った。「おい、てめえのセフレを紹介してやれよ」
プリクラが横目でバンジーを見た。
優越感と蔑みを含んだ女の目だった。
バンジーはプリクラをにらんだ。
――処女のなにがいけねえ?
一発殴ってやりたかった。
「ま、冗談はともかく、だ……」サドは一瞬で目つきを変えた。「おまえたちには経験がある。勝ったとか負けたとかはどうでもいい。一度でも闘ったということが重要だ。よって、おまえたちには現場で指揮を執ってもらう」
そうしてサドは臨時の組織について説明を始めた。
本作戦の総指揮官は生徒会長峯岸みなみ。サドはその下に就く。軍隊で言えば元帥と大将といったところだと言われたが、バンジーはそのちがいがよくわからなかった。
中将にあたるのは四天王の三人で、トリゴヤは三年、シブヤは二年、ブラックは一年と、それぞれがひとつの学年を担当し、この吹奏楽部部室で指揮を執る。そして、いまこの部屋にいるラッパッパ以外のメンバーたちがその配下となり、現場で人を動かすのだ。
トリゴヤはチョウコクと学ランの二名。
シブヤは歌舞伎シスターズと山椒姉妹の五人。
ブラックは純情堕天使の十人。
バンジーはこの布陣を聞き、なるほどと納得した。実用性があるかどうかはともかく、これはヤンキーの発想ではない。生徒会長の峯岸が噛んでいるのはこのあたりだろう。ただし、この組織がきちんと運用されるかどうかは別の話だ。なんの訓練もしていない、臨時に作られた組織がどれだけ戦えるのだろう……。
低学年に自分たちが充てられたことはいいとして、はたしてうまくできるのか。バンジーは不安しか覚えなかった。
「大丈夫ですよ」隣のプリクラが小声で伝えてきた。この女は妙に人の感情の機微に敏感なところがある。「まあ、なんとかなるものです」
「それなら頼んだぜ、現場指揮官殿」
小声で返すと、プリクラはエクボを浮かべた。
バンジーはふと思った。もしチームホルモンが解散していなかったらどうなっていただろう、と。あのヲタが低学年相手とはいえ、指揮など執れるのか。刻一刻と変化する状況にあわてふためき、決断を下せず、おろおろする様が見えるようだ。
――ヲタ……。
説明を続けるサドの話が、どこか遠くのものに聞こえる。
床を見つめた。アンダーガールズたちがやっているのだろう、ワックスのかけられたタイルが光っている。そこにヲタの情けない困り顔が映ったように見えた。
――明日までに帰ってこいよ、ヲタ……。
その思いが希望なのか願望なのか、バンジーには区別できなかった。
神社の階段を登りきったとき、ヲタはふとだれかに呼ばれた気がした。しかし、あたりを見回したが、いるのは自分と鬼塚だるまだけだった。
鳥居の下で突然立ち止まったヲタにだるまが言った。「どうしたんや?」
「――いや、その……なんでもねえ」ヲタはごまかして、境内を先に進んだ。
携帯電話の電源はもう六日間も入れていない。最初の数日はだれかから緊急のメールが届いていたらどうしようかという不安でいっぱいだったが、ここまでくると、逆にだれからもメールが届いていないのではないかと思うようになってきた。いくらなんでも後者の可能性は低いとはいえ、もしそうだった場合のことを考えると、電源ボタンを押す気にならなかった。
けれども、いま感じた「なにか」がヲタの体を動かした。
拝殿の裏手に回る。いま買ってきたばかりの野菜ジュースとサンドウィッチの入ったレジ袋を床に置いた。そしてバッグをまさぐり、底に転がっている携帯電話を手にした。
親指で弾くように携帯電話を開くと、電源ボタンに触れた。
「――明日までやで」だるまの声が背後からした。「六日間がんばったやないか。あと少し待てへんか?」
「そうじゃねえよ。寂しいとかそういうんじゃなくて……なんか、とんでもねえことが起きてるような予感がするんだ」
「そんなことあらへんって」
「おれだってそう思うよ。けど、理屈じゃねえなにかを感じたんだ。だれかに呼ばれたような……」
「神さんがおまえに超能力でも授けてくれたんか?」
「茶化すな。マジだ」
ヲタの声のトーンに、だるまは目の色を変えた。「そこまで言うなら止めへん」
「ああ」
ヲタは頷き、親指に力を込めた。
が――躊躇する。
怖かった。
だれかのメールに優しい言葉が並んでいたりしたら……。弱虫で甘ったれで、すぐにサボったり泣いたりあきらめたりする、根性なしの自分をどうにかしようと柄にもなく努力しているいま、だれかの優しさに触れてしまったら……。
だから優しさが怖かった。
ヲタを気づかい、勇気づけ、励ましてくれる――そんな内容のメールを読んでしまったら、張り詰めた緊張の糸が切れてしまうだろう。
何日か前にもこんなことがあった。あのころは特訓が辛くて逃げ出したかった。その口実を与えてくれる言い訳メールが欲しかった。けれどもヲタは見なかった……。
ヲタは携帯を閉じた。
「その心意気や」だるまがごつい笑顔を見せた。「安心せえ。緊急事態なんてめったに起こるわけあらへん」
「だよな」
なんの根拠もない虫の知らせを頼りに大慌てで学園に戻ったところで、そこにはいつもと変わらぬ日常が待っているだけ。現実なんてそんなものだ。劇的な事件なんてそうそう起きるわけがない。
「さ。今日もはじめるで」
「ああ。やるか」
ヲタは携帯電話をバッグの中に押し込んだ。
【つづく】