■胎動―8■
バンジーが七輪に乗せられた最後のホルモン一切れに箸を伸ばすと、その横から別の箸が現れ、あっという間もなく獲物をさらった。
ムクチはそれを口の中に放り込むと、バンジーに笑顔を向け、わざとらしく口をもぐもぐと動かした。
「うめえか?」
バンジーの皮肉に、ムクチは笑顔で頷いた。バンジーは苦笑した。
すでに日は完全に落ちていた。窓には、蛍光灯の冷たい光に照らされた教室の中の風景が鏡のように写っている。こんな時間まで学園にいるのは文化祭以来だった。
二年C組の教室ではたくさんの生徒たちが夜食を摂っていた。生徒たちは仲のいいダチたちと、生徒会から配給されたおにぎりや弁当を口にしながらつかの間の休憩時間を満喫していた。慣れないことの連続で疲れているはずなのに、みんなの気分が高揚しているのが伝わってくる。もちろんバンジーも。
元チームホルモンの四人はいつものように七輪でホルモンを焼き、それをおにぎりのおかずにしていた。教室に充満するその匂いは成長期の少女たちの食欲を刺激したらしく、こんなときにだけ寄ってくる「クラスメイト」が列を作った。そんなにたくさんあるわけでもなく、アキチャとムクチは反対したが、バンジーは少しずつみんなとホルモンを分け合った。いつもはギスギスしたクラスだが、ホルモンひとつでまとまれるのなら、たまにはこんなことをするのもいい。
昼間はさんざん働かされ、バンジーはクタクタになっている。一年生はもっとも体力を使うバリケード造りをさせられていたが、二年生は買いだしに行かされた。バリケード製作に必要な結束バンドやロープや工具などの資材、それが終わるとたくさんの医療品、その次は二五○人分の食料と飲料水……。郊外にある学園から、駅前の商店街まで片道十分はかかるから、往復するだけで二十分。資材が揃っているホームセンターまでだとその倍の時間だ。それを何度往復させられたか、もう覚えてはいなかった。たしかなのは、ふくらはぎが張って、もうしばらく歩きたくないことだけ。これならバリケード造りのほうが楽だったにちがいない。
しかも生徒会の命令により、全生徒は帰宅を許されず、それぞれの教室で一夜を過ごすことになっていた。アリジョがいつ来るのかわからないことと、怖気づいた生徒が登校してこないのを防ぐ意味があるのだろう。夕方にはレンタル業者が何台ものトラックで校庭に乗りつけ、貸し布団を下ろしていった。いま、二年C組の教室には二十組の布団が隅に積まれている。仕方ない処置とはいえ、寝る前に、せめてシャワーくらいは浴びたい、とバンジーは思っている。
満たされたとはいえない食欲だが、今夜限りは文句を持っていくところもない。バンジーは毒づくのをあきらめ、深くため息をついた。
――こんなときあいつらがいれば、ふざけて八つ当たりして、気をまぎらわせるんだけどな……。
バンジーはこの場にヲタとだるまがいないことが残念で仕方なかった。祭りが始まるのにいないどころか、そもそも祭りがあるとさえ知らないだろう。
「――なあ、バンジー」アキチャが言った。「もうそろそろ、明日になっちまうな」
「だな」バンジーにはその言葉の意味がすぐにわかった。だが、はっきりとした言葉にはしたくなかった。
「明日は今日とはちがうかな?」
「さあな。でも、ちがうと思うぜ」
「どうして?」
「いつだって、明日は今日とちがうって思ってるんだ」
「そんなもんかな……」
「ああ。そんなもんだ」
ムクチが激しく頷き、アキチャとウナギもそれに続いた。
みんなの気持ちもひとつ――バンジーはうれしかった。
自分の言葉にウソはないが、今回ほど、それを信じたいという気持ちが強かったことはなかった。
「星を見に行こう」
珠理奈にそう誘われ屋上に来てみたものの、そこは想像以上に寒かった。ネズミはフードをかぶり、限界までファスナーを上げた。こんな寒いところに好き好んで――、しかもタイツも履かずに来るなんて、ネズミには信じられなかった。
ニーソックスだけではさぞ寒いだろうと思ったが、珠理奈はベージュのカーディガンをひるがえして楽しそうにくるくると回転している。「ねえ、見てっ。すっごくきれいっ」
仕方なしに見上げると、たしかにそこは満天の星空で、じっとしていると吸い込まれそうな感覚に襲われる。ネズミは少しよろけて、数歩後退した。
「こっち行こっ」珠理奈に手をにぎられた。
――あったかい……。
すでに何十回もキスをした仲なのに、ネズミは頬が熱くなるのを感じた。もともと、ちょっとだけなら強引になにかされるのは嫌いじゃない。
珠理奈にひっぱられた先は、屋上に突出している塔屋の脇だった。そこにはだれかが置いたアルミニウム製の梯子が立てかけられていた。
「ここ、たまに来るんだ。だれにも邪魔されずに本を読めるから。いつも図書室ばっかりだと飽きちゃうしね」
珠理奈はさっさと梯子を上っていった。一陣の風がスカートを下から膨らませ、太ももが露わになった。
――やれやれ……。
風でも吹いて梯子が倒れたらどうするんだろうと思いながら、ネズミは仕方なく珠理奈に続いた。
珠理奈は塔屋の上で直立し、首をほぼ九十度に曲げて夜空を見上げていた。「いつか、ここから星を見たいと思ってた。でも夜、忍び込んでまでするほどじゃないからしなかったけどね」
「なんでだい?」ネズミはパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「この町で、ここが一番高い場所だから」
「山に行けばいい」
「行ったよ。でも、木が邪魔して見渡せなかった。三六○度なんにもない場所はここくらいなんだ」
たしかに、ここには遮蔽物がなかった。それだけに少し怖かった。町のあちこちには明かりが灯っているが、空を照らすほど強くも多くもなかった。反対方向には長い山の稜線が夜空に溶けていて、星星がその輪郭を描いていた。
さびしい町だ――とネズミは思う。子供のころ、国道沿いにショッピングセンターが建ち、都会からいろんな企業がやってきて、町はあっという間に寂れていった。カネはすべて都会へ流れていく。地元の商店街の店はほとんどシャッターを下ろしている。
――希望なんてどこにもない。
だから自分がこの小さな学校のルールやしきたりや伝統をぶっ壊してなにが悪い? 大人たちがやってきたこと――子供は大人の真似をするものだ。
視線を空に移した。遥か彼方にある星の光はここでなにが起きようと、何百年、何千年という時間をかけて地球に届く。なんとなく、それはすごく残酷なことに思え――
脚がぐらついた。
よろけたネズミは二三歩後退した。
「あぶないっ」
とっさに珠理奈がネズミの腕をつかんだ。
振り返ると、屋上のフェンスの向こう側に校庭の地面が見えた。落ちたらただではすまない高さだ。
ゾッとした。タイツに包まれた脚の中を風が通り抜けるような感覚があり、力が抜けた。
腕を引っ張られ、ネズミは自然と珠理奈の胸に飛び込むようなかたちになった。珠理奈は両手でネズミを優しく包み込んだ。
「まゆゆ、知ってるかい?」珠理奈はネズミを抱いたままささやいた。「空にはたくさんの星が輝いてるけど、肉眼で見えるのはたった三○○○個くらいなんだって」
興味がなかった。「ふぅん……」
「宇宙には本当に数え切れないくらいの星があるのに、なんで夜空は星の明かりで満たされないんだろうね。数千、数万、数億、数兆、数京の星から光が届けば、暗い夜なんか来ないのに」
「夜は嫌い?」
「一人のときはね」そこで、珠理奈はネズミを見つめた。「でも、いまは嫌いじゃない」
「どうして?」
つぶやいたネズミの唇に、珠理奈が唇が重ねられた。それが答えだった。
珠理奈と舌を絡めると、いつものように体の芯が熱くなり、じわっと蜜が伝うのがわかった。珠理奈の舌と口の中は温かかった。でも、ときおり触れる鼻柱が冷たかった。
甘美な肉体的快感を味わいながら、ネズミは意識のどこかに冷静な部分を残している。こいつは単なる消耗品だ。いざというときは自分のために闘い、そして痛い目にあってもらう女。
珠理奈を解放する、明日が楽しみだ。私を脅したアリジョの連中を、珠理奈にシメさせよう。ネズミ様を舐めたやつには、それ相応の痛みを与えなければいけない。
顔を離したのは珠理奈からだった。キスのあとで目が合うと、まだ照れくさい。ネズミは恥ずかしさを隠すために笑顔を作った。
「まゆゆ」
「なに?」
「明日はどうなるかな?」
「わからない」
「ぼくは勝てるかな?」
「それなら大丈夫。珠理奈なら勝てるよ」
「うれしい」
「――ひとつ約束して」
「なんだい?」
「わたしのそばを離れないで」
「約束なんてしなくたって、もちろんそのつもりだよ。まゆゆはぼくが守る」
「ありがとう」
ネズミを抱きしめる珠理奈の腕に、ぎゅっと力がこもった。
【つづく】