■決戦―3■
峯岸みなみはこの《戦争》の指揮を執らせてくれと言ったことを、早くも後悔しつつあった。
《開戦》したかどうかもわからないうちに、扉を閉じた生徒会室にいてもわかるほど校内は騒がしくなり、事態の推移を報せる電話は鳴りっぱなしの状態になった。佐藤すみれ、平松可奈子、小木曽汐莉、高柳明音、桑原みずきの五人は、片時も電話を離すことなく対応に追われている。そして、この五人はことあるごとに峯岸に判断を求めた。
自分宛にかかってきた電話に出るだけで精一杯の峯岸のいらつきは、数秒ごとに増していった。
「会長、一階に鳥が……」
「負傷者三名は体育館に搬送していいですか、会長?」
「会長、救護隊が体育館で指示を待ってます」
「一年A組が一階から二階への移動許可を求めていますがどうしますか、会長?」
「会長、体育館に避難させたほうが」
会長会長会長会長会長だ。
指揮官とはもっと雄大に構えているものではなかったか……。峯岸がそんなことを考えたとき、バンジーから電話がかかってきた。一階の廊下に鴉や鳩が飛び込んできて現場はパニック状態になっているため、二階に生徒を退避させたいとバンジーは言った。しかし峯岸はそれを拒否した。生徒たちが二階に移動すれば、サドの立案が崩れてしまう。一から作戦を練り直している時間はない。
「とにかく一階に留まって」
「けど、あたしたち四人じゃ防ぎきれねえぜ」
「いいからやって」
「むちゃくちゃ言う……」
バンジーのあきれたような声を無視して、峯岸は電話を切った。あとは現場の仕事だ。
次の瞬間、今度はサドからの着信があった。峯岸は舌打ちをした。「みなみです」
「一階がパニクってるようだが、現場は把握しているか?」
「報告は受けてるわ」
「報告だけか。現場にはだれも?」
「なにしろ入ってくる電話に対処するだけで手一杯で……」
「では、アンダーのふたりをそちらに回すから使ってくれ」
「助かるわ」
電話は向こうから切れた。
なんとしてもうまく立ち回らなければならない。今後の生徒会がマジ女の実験を握れるかどうかの瀬戸際だ。
ほどなくして、生徒会室にジャンボとアニメが現われた。
ネズミは珠理奈の肩に手を置き、踊り場の折り返し部分の壁から向こうをのぞいた。階段の途中にはチームホルモンの四人がいて、バンジーはどこかに電話をかけている。ウナギとアキチャとムクチは階段を登って二階に退避しようとしている連中を必死に制止している。
一階の廊下にはいまや百羽近い数の鳥が飛び交い、狂ったようなさまざまな鳴き声が、多くの生徒をパニックに陥れていた。むやみに凶器を振り回す者が人間にそれを命中させ、生徒同士の小競り合いすら起きている。その結果、早くも怪我をした者が現われ、救護班に任命されていた生徒が彼女たちに応急処置を施したり、体育館へと連れていった。鳥の抜けた羽や粉塵のようなものが舞う中、バカが慌てふためいているさまは愉快だった。
とはいえ、ネズミの胸の奥ではさっきから不安が渦巻いていた。
鳥がひとつの学校の窓ガラスを破って侵入し、人間を傷つける力などないはずなのに襲いかかる――そんな異常なことが自然に起きるはずがない。
だが――でなければなんだ? だれかが鳥を操っているとでも……いや、アニメじゃあるまいし、そんなバカなことがあるわけが……。
いや、ありえる。
マジ女にも、バカげた存在がいるではないか。他人に触れることで過去を《視る》ことのできる女が……。
人の過去を《視る》人間がいるのなら、鳥を操る人間がいても不思議はない。
しかしネズミはアリ女にそんな人間がするとは聞かされていなかった。なぜ、聞かされていなかったのか。《能力》を持つ人間がいるのかどうかなどよりも、そちらのほうがはるかに重要だ。
「早く図書室に行こう」珠理奈が耳元で言って、ネズミの手をつかんだ。踊り場の上にある窓ガラスに、カラスがまた、ドンッと大きな音を立ててぶつかってきた。「ここは危険だ」
珠理奈に引っぱられ、ネズミは階段を登り始めた。
二階に到達しようかという、その瞬間、背後で踊り場の窓ガラスが割れるけたたましい音が響いた。それと同時に、二階のどこからかいつの間にか侵入してきた十数羽のカラスが、一斉にこちらに向かって飛来してきた。その急襲に、ネズミは恐怖を感じて立ち止まった。カッと開かれたその口が気持ち悪くて、ネズミは短い悲鳴を上げた。
「――まゆゆっ」
振り返った珠理奈がネズミの体に覆いかぶさってきた。
その勢いでふたりはいったん宙に浮き、そして階段から転げ落ちた。カラスはふたりの頭上を通過していった。
ネズミはとっさのことに、珠理奈の体を強く抱きしめた。珠理奈がしっかりとネズミの頭と体を守ってくれたおかげで、ネズミはほとんど痛みを感じなかった。珠理奈が身を挺してくれたのか、それとも偶然なのかわからなかったが、踊り場の床に落ちたとき、下になったのは珠理奈のほうだった。
「珠理奈っ、ごめん」
珠理奈は痛みをこらえるような表情の中に、むりやり笑みを浮かべた。「――ぼくは……大丈夫さ……まゆゆ、は……」
「大丈夫、珠理奈が守ってくれたから……」
「それなら……安心……だ」
珠理奈はまた笑った。
ネズミは体を起こし、珠理奈に手を差し出した。
握った珠理奈の手に、ぬるりとした感触があった。
ネズミは自分の手を反射的に見た。真っ赤に染まった手のひらがあった。
「ちっとも大丈夫じゃないじゃないか」ネズミは珠理奈を正視した。「どこを怪我してるんだ?」
「右腕がズキズキする……。あと、足首も挫いたみたい……。でも大丈夫だよ、こんな傷……」
珠理奈の腕をやさしく持ち上げるようにしたネズミは、上腕部に深々と刺さったガラスの破片を見つけた。ネズミは驚いたが、割れたガラスの上に転がり落ちたのだから、怪我をしないほうがむしろ不思議なくらいだった。
ネズミは恐怖した。
血を見たことにではない。自分を守るべき存在がもっとも必要である、この事態の真っ最中にそれが失われるのではないかということに、ネズミは恐怖した。
「ぬ、抜いたほうが、い、いいのかな……」喉の湿り気が一瞬でなくなり、声が突っかかるようにしか発することができない。若干の震えもある。
「抜いて……そのあと、なにかで強く……縛って……」
ネズミは震える指先で、注意深くガラス片をつかみ、なるべく刺激をしないようにまっすぐにそれを引き抜いた。もともと濃い紺のセーラー服を、血の赤がみるみるうちに侵食し、その色を黒に染めていく。ネズミはポケットからハンカチを出して、傷口の上からきつく縛った。
「おいっ、大丈夫かっ」
振り返ると、チームホルモンのウナギがいた。ふたりが転落した音を聞いて駆けつけたようだ。
「怪我してんじゃねえか」声をかけてきたウナギは、珠理奈のかたわらにしゃがむと腕の傷を見た。「体育館に行ったほうがいい。あそこならキケンに手当てしてもらえる」
「でも、足も挫いたみたいで……」
ウナギがちらりとネズミを見て、「ひとりじゃ支えられないだろう。あたしも肩を貸すから一緒に行こう」
冗談ではない。珠理奈にはこれから自分を守ってもらわなくてはいけないのだ。腕を負傷し、足を挫いた珠理奈にボディガードが務まるのかどうかは疑問だが、とにかくネズミは彼女から離れたくなかった。「なんとかなるッスから、先輩たちはあっしらにかまわず……」
「ぐずぐず言ってると、また鳥が来ちまう」ウナギは座り込んだかと思うと、珠理奈のわきの下に腕を入れ、すぐに立ち上がった。「痛てぇだろうけど、ちょっと辛抱してくれ」
「――は、はい……」
有無を言わせぬウナギの態度に、ネズミは仕方なく反対方向から珠理奈の体を支えた。
【つづく】