ぼくはこの子、推すよ。
■決戦前―2■
「行ってきます」
前田敦子は小さな声で父にそう告げ、玄関のドアを開いて外に出た。
学校に行くつもりはなかったが、父に怪しまれないよう、制服は着てきた。カバンも持っている。いつもと同じ、登校するときのスタイルだ。
駅へと続く道を歩きながら、今日はどうしようかと考えた。平日の金曜日に、セーラー服姿の女の子が街中にいたら補導の対象になる。補導が怖いわけではなかったが、警察に行けば身元を調べられ、過去の事件のことをあれこれほじくり返されるに決まっている。両親にも連絡され、そこでも言い訳をしなくてはならない。それは本当に面倒くさいし、なにより不快だ。
一日中、列車に乗っていよう、と思った。列車の中なら、警察はほとんどいないだろう。都会へ向かう長距離列車の中で、ぼんやりと過ごす。着いたら折り返せばいい。馬路須加女学園に転校してきてからというもの、心が休まる日がなかった。今日一日くらいは、介護士のテキストも読まず、なにもせずに過ごしたっていいはずだ。
――今日だけはいいよね、みなみ?
いつだって、みなみは敦子と一緒だ。
敦子はいまも、すぐ隣にみなみを感じている。
「敦子がそうしたいならそうすればいい。そんな日だってあるさ」
シャツの襟をブレザーの上に出し、袖をまくった制服姿の高橋みなみが微笑んでくれた。
それは、みなみの「ばっちゃん」を見舞いに行ったときに見た、あの日の笑顔に似ていた。
ガンギレ高校の生徒五人を相手に始まったケンカが終わるまでは、ものの一分もかからなかった。
私立八木女子高校の敦子は土手の斜面にもたれている一人の生徒に近づいた。
女の襟元をつかんだ。すでに戦意をなくした女は、敦子を怯えた目で見つめた。恐怖に支配された心が、その瞳に揺らめいて見えた。
敦子はその鼻っ柱に右ストレートをぶちこんだ。鼻が潰れるときの、あの「めしゃり」とした感覚があった。女は「ブッ」と鼻からだか口からだかわからない音を出して、土手の斜面に背中から倒れた。
その様子を見ていたのか、すでに地面に倒れている他の四人が、這いつくばったまま敦子から距離をとろうと蠢きだした。その動きは瀕死の芋虫みたいで、追いつめられたときに人が見せる無様さが、敦子にとっては腹立たしかった。
同士に敦子はいらだってもいた。
足りない。
どうしてこうも、弱い連中ばかりなんだろう。
――こんなんじゃ、濡れねえよ。
敦子は自分を、きわめて暴力的な人間であると自覚している。暴力を振るうと、体の中で常にうずめいてる性的な欲望が呼び覚まされる。特に存分に相手を叩きのめしたとき、敦子は濡れた。
満足にケンカができた日の深夜、敦子の淫猥な指はいつも以上に敏感な自分の肌を伝う。指先がふやけるくらいの長い時間をかけ、敦子は自分を高めていく。
人を殴ることが快楽に直結している自分の性癖に、敦子はどうしようもない後ろめたさを感じてはいる。みなみのように「マジに生きる」ことができないのは、この性癖のためだとも思っている。自分は人を殴ることをやめられないんじゃないかと恐怖を感じることもある。しかし、拳を振るう「チャンス」があると、抑えきれない悦楽への欲望が敦子を動かす。
たとえば――いまがそうだった。
敦子は芋虫の一匹を追い、長いプリーツスカートに包まれた尻を、サッカーボールのように蹴り上げた。ぎゃんっ、と女は声を上げ、海老のように体を折った。その反応が面白くて、敦子はもう一発蹴りを加えた。今度はローフアーの踵が、尻の谷間に食い込むように狙った。また、ぎゃんっ、と音がした。
「――助けっ……」芋虫が堪らないのか、声を上げた。
「最初に手ェ出してきたのはそっちだろうが」敦子は低い声で言った。
その直後、敦子は背後から、強い意志を感じた。
新たな敵か? ――敦子は芋虫を放り投げ、瞬時に振り返って迎撃する姿勢をとった。
三メートル離れた場所に、高橋みなみが立っていた。
「みなみ……」
「敦子、よせ」みなみは近づきながら、「もう終わってる」
「こいつらからケンカを売ってきたんだ。動けなくなるまでやられて当然だろ」
「いいからやめろ。それに、前に何度も言っただろう……」みなみは敦子を真正面から、その大きく強いまなざしで見つめた。「マジに生きろって」
みなみは右腕を敦子の前にかざした。
ケンカをやめる誓いの証のシュシュ。
敦子は左腕に、みなみがプレゼントしてくれたお揃いのシュシュを付けている。
なんて答えればいいのかと考えているうちに、みなみが敦子の手を引っ張った。「さ。これからばっちゃんの見舞いに行くんだ、付き合ってくれ」
敦子は不承不承、その場をあとにした。
みなみの祖母――「ばっちゃん」が市立病院に入院して、すでに一ヶ月が経っている。六人部屋に入っているばっちゃんのベッドは南向きの窓際に置かれていて、いつも温かな光がベッドに当たっていた。ばっちゃんはここを「特等席」だと喜んでいた。
ばっちゃんは、いつでも二人を歓迎してくれる。この日も敦子とみなみが病室に訪れると、ばっちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「あら。今日は敦子ちゃんも一緒だ。ありがとね」
「こんにちは」敦子は笑顔を作った。
「ばっちゃん、具合どう?」
「おかげさまでね。少しずつ良くなってるよ」
「そうかい? それならよかった」みなみも笑ったが、本心ではないはずだった。
みなみが主治医から聞いた話によれば、ばっちゃんの病状は良くなっていない。ばっちゃんが罹っている肺の病気は、年齢的なこともあって、完全に回復するのは難しいようだ。
それでもみなみは、最期のときは自宅で迎えさせたいと話していた。だから完治はしなくとも、せめて退院できる程度には回復してほしい……ばっちゃんを看取ってあげることが、迷惑しかかけてこなかった自分にできる最期の孝行だ、と――。
「エレナ、もう来た?」
「あぁ。三十分くらい前に帰ったよ。夕飯の支度するって……。あ、そうだ。敦子ちゃん、いまお茶入れるからね……」ばっちゃんは掛け布団をめくり、ベッドから下りようとした。
「あ、いいですよ。お構いなく……」
「ばっちゃん、寝てろって」
「いいんだよ。少しは動かないと……」ばっちゃんは床頭台の上にある急須と日本茶の入った円筒に手を伸ばした。「あ。みなみ、ポットにお水入れてきておくれ」
「はいよ」みなみは小さな電気式の湯沸しポットを持ち上げた。「んじゃ、敦子。ちょっくら、ばっちゃん頼むわ」
「うん。わかった」
みなみが病室から消えると、ばっちゃんは茶葉を急須に入れながら、敦子の名を呼んだ。
「はい?」
「みなみは最近、ケンカしてない?」
「ええ」敦子は頷いた。本当のことだ。
「それはよかった。でも、敦子ちゃん……あんたはしてるね」
敦子は答えに窮した。
「ちゃんと顔に書いてある」ばっちゃんは笑った。「――なんてのはウソでね。敦子ちゃんの手……傷だらけよ」
敦子は拳を見た。
「それに、女の子の手にしちゃ、ゴツいわ。硬いもの、たくさん殴ってきたでしょ」
敦子は苦笑いをした。
「ケンカをしたけりゃおやんなさい。若い人になに言ったってやめないでしょうからね。だったら嫌になるまでやらせるしかないわ。あの子はなんにも言ってないのに自分からやめてくれたけどね……」
ばっちゃんは一人で、納得するように頷いた。
離婚した両親を嫌っていたみなみは、高校に入学すると、妹のエレナと一緒に母方の祖母であるばっちゃんの家で居候のような暮らしを始めた。そのころのみなみは、外に出かけるたびにケンカをして、ばっちゃんに傷の手当をしてもらっていた。
そのばっちゃんが地元の商店街の一角で、ガンギレ高校の生徒に襲われたのは、みなみが二年生に進級したころだった。みなみに恨みを持つ生徒がばっちゃんを拉致しようとしたのだ。たまたま通りがかった敦子がばっちゃんに気づいたため、事態はそれ以上進展しなかった。
敦子の報せで、みなみはアルバイトを早退し、文字通りすっ飛んできた。そしてばっちゃんの顔を見ると、安心したのか泣いた。
その事件と関係あるのかどうかはわからないが、ばっちゃんはほどなく発作を起こし、入院することになった。みなみは自分がヤンキーであり続けることが、ばっちゃんを危険にさらすことだと考えたようだった。みなみはそれからケンカを忌避するようになった。
「それでね、敦子ちゃん。身勝手なお願いってことは充分わかったうえで言うんだけど……みなみを守ってあげてね」
「――はい……」
「いままで斬った張ったの世界にいた人が足洗うのは簡単じゃないからねぇ。みなみがやめるったって、相手にはそんなこと関係ない。けど、みなみは一度決めたらそれを貫く
子なんだよ。あの子はもう二度と人様を殴ることはない。だから、敦子ちゃん、あなたがみなみを守ってあげて。そしていつか、敦子ちゃんも人様を殴るのをおやめなさい」
言われなくてもみなみは守る。というより、そんなことは考えるまでもない。空気を吸って生きていることを意識しないのと同じく、敦子にとってダチを守ることは自明すぎることだった。
敦子が返答しようとした瞬間、みなみが病室に戻ってきた。「ただいまぁ」
ばっちゃんは軽くウインクをして、今の話は内緒という合図を送ってきた。もちろん、それがなくてもするつもりはなかった。
「すぐに沸くからね……」
みなみは微笑んだ。
それから一週間後――みなみは死んだ。
いま思えば、みなみは敦子がばっちゃんと交わした視線に気づいていたのだろう。
――あたしに内緒なんて通じないよ。
あの微笑には、そんなみなみの気持ちが込められていたのかもしれない。
「そうだったの、みなみ?」敦子はかたわらのみなみに問いかけた。
「――どうだろうな」みなみはいたずらっ子のように目を細める。
敦子は駅前のロータリーまでやってきた。小さな街とはいえ、出勤する人や登校する人たちで、この時間の駅はいつものようににぎわっていた。
毎日繰り返し見ている光景に、敦子は不思議な気持ちになった。ここにいる、ほとんどすべての人たちは、マジジョの生徒や敦子がいま置かれている問題や立場を知りもしない。何百人かの人間がどうなろうと、ましてやそれが、たかだか学校同士のケンカであれば、社会ではなにも起きていないも同然なのだ。
けれども敦子にとってはちがう。
改札を抜け、階段を使って、島式ホームへ立った。混雑している階段近くから、ホームの端へと歩いていく。
上り線の列車に乗れば都会へ。
下り線の列車に乗れば馬路須加女学園へ。
――ねえ、みなみ。どっちに乗ればいい?
「敦子」すぐ横にいるみなみが言った。「あたしが決めることじゃない。敦子自身がどうしたいか、だろ?」
「――みなみ……」
行かないと決めていたはずなのに……。
サドの土下座でもエレナのビンタでも動じなかった。それなのに、いまになって迷い始めている自分に、敦子はとまどい、そして腹を立てた。
サドが他人に土下座をするのは、どれだけ屈辱的だったか。
大勢の生徒がいる場所で敦子をひっぱたいたエレナの度胸と覚悟はどれほどのものだったのか。
敦子はそれを結果的に無視し続けた。
それが、「マジに生きる」ということなのか?
下り列車がまもなく到着することを告げるアナウンスが聞こえた。
敦子は左手のシュシュを見つめた。
みなみの顔が浮かんだ。
続いて、だるまの鬱陶しい顔と「あつ姐」という声。
ヲタ、バンジー、ウナギ、アキチャ、ムクチ。
大歌舞伎、小歌舞伎。
学ラン。
みゃお、らぶたん、まなまな。チョウコク。
シブヤ。
ブラック。
ゲキカラ。
そして、サド――優子……。
マジジョで出会った、かけがえのないダチたち。
――ちがうっ。ダチなんかじゃねえっ。ダチなんかいらねえんだっ。
列車が線路の向こうで汽笛を短く鳴らした。
――みなみと約束したんだ……マジに生きるって。
「そうだよね、みなみ?」
顔を上げると、みなみはいなくなっていた。
「みなみ……?」
敦子はホームに、みなみの姿を求めた。
レールの継ぎ目でガタンゴトンと音を立てながら、三輌編成の列車がホームに進入してきた。列車を待つ何十もの人々が列車に乗車しようと、少しずつホームの端に向かって移動を始めた。
その中に、私立八木女子高校の制服を着た、一四八センチの少女はいなかった。
いるわけがない。
みなみは死んだのだ。
敦子が救えなかったから。
敦子が守れなかったから。
敦子がそばにいなかったから。
列車が完全に停止すると、圧縮空気によって開かれたいくつもの扉から人々が吐き出され、そして吸い込まれていく。
マジジョに向かうにしても、必ずしもこの列車に乗る必要はない。二十分もすれば次の列車が来る。ただ、それをしてはいけないような気がした。ずるずると結論を先延ばしにするだけで、なんの解決にもならない。
――私は……どうすればいい?
自分にそう問いかけた瞬間、さっきのみなみの言葉が繰り返された。
――あたしが決めることじゃない。敦子自身がどうしたいか、だろ?
そのとき、敦子に決断を急かすかのごとく、発車ベルが鳴った。
敦子は最後の瞬間、なにも考えなかった。
ただ、体が反応していた。
扉が閉まる寸前、敦子はその間をすり抜けるようにして、列車に飛び乗った。
列車が動き出すと、敦子は振り返って窓からホームを見た。
みなみがいた。
袖をまくった左手をブレザーのポケットに入れ、親指を立てた右手を敦子に向け、みなみは満面の笑みを浮かべていた。
敦子は何度も何度も頷き、みなみの姿が見えなくなるまで窓の外に目を向けていた。
やがて列車が駅から離れると、自分の決断を伝えなければならない人にメールを送るため、敦子は携帯電話を取り出した。
【つづく】
「行ってきます」
前田敦子は小さな声で父にそう告げ、玄関のドアを開いて外に出た。
学校に行くつもりはなかったが、父に怪しまれないよう、制服は着てきた。カバンも持っている。いつもと同じ、登校するときのスタイルだ。
駅へと続く道を歩きながら、今日はどうしようかと考えた。平日の金曜日に、セーラー服姿の女の子が街中にいたら補導の対象になる。補導が怖いわけではなかったが、警察に行けば身元を調べられ、過去の事件のことをあれこれほじくり返されるに決まっている。両親にも連絡され、そこでも言い訳をしなくてはならない。それは本当に面倒くさいし、なにより不快だ。
一日中、列車に乗っていよう、と思った。列車の中なら、警察はほとんどいないだろう。都会へ向かう長距離列車の中で、ぼんやりと過ごす。着いたら折り返せばいい。馬路須加女学園に転校してきてからというもの、心が休まる日がなかった。今日一日くらいは、介護士のテキストも読まず、なにもせずに過ごしたっていいはずだ。
――今日だけはいいよね、みなみ?
いつだって、みなみは敦子と一緒だ。
敦子はいまも、すぐ隣にみなみを感じている。
「敦子がそうしたいならそうすればいい。そんな日だってあるさ」
シャツの襟をブレザーの上に出し、袖をまくった制服姿の高橋みなみが微笑んでくれた。
それは、みなみの「ばっちゃん」を見舞いに行ったときに見た、あの日の笑顔に似ていた。
ガンギレ高校の生徒五人を相手に始まったケンカが終わるまでは、ものの一分もかからなかった。
私立八木女子高校の敦子は土手の斜面にもたれている一人の生徒に近づいた。
女の襟元をつかんだ。すでに戦意をなくした女は、敦子を怯えた目で見つめた。恐怖に支配された心が、その瞳に揺らめいて見えた。
敦子はその鼻っ柱に右ストレートをぶちこんだ。鼻が潰れるときの、あの「めしゃり」とした感覚があった。女は「ブッ」と鼻からだか口からだかわからない音を出して、土手の斜面に背中から倒れた。
その様子を見ていたのか、すでに地面に倒れている他の四人が、這いつくばったまま敦子から距離をとろうと蠢きだした。その動きは瀕死の芋虫みたいで、追いつめられたときに人が見せる無様さが、敦子にとっては腹立たしかった。
同士に敦子はいらだってもいた。
足りない。
どうしてこうも、弱い連中ばかりなんだろう。
――こんなんじゃ、濡れねえよ。
敦子は自分を、きわめて暴力的な人間であると自覚している。暴力を振るうと、体の中で常にうずめいてる性的な欲望が呼び覚まされる。特に存分に相手を叩きのめしたとき、敦子は濡れた。
満足にケンカができた日の深夜、敦子の淫猥な指はいつも以上に敏感な自分の肌を伝う。指先がふやけるくらいの長い時間をかけ、敦子は自分を高めていく。
人を殴ることが快楽に直結している自分の性癖に、敦子はどうしようもない後ろめたさを感じてはいる。みなみのように「マジに生きる」ことができないのは、この性癖のためだとも思っている。自分は人を殴ることをやめられないんじゃないかと恐怖を感じることもある。しかし、拳を振るう「チャンス」があると、抑えきれない悦楽への欲望が敦子を動かす。
たとえば――いまがそうだった。
敦子は芋虫の一匹を追い、長いプリーツスカートに包まれた尻を、サッカーボールのように蹴り上げた。ぎゃんっ、と女は声を上げ、海老のように体を折った。その反応が面白くて、敦子はもう一発蹴りを加えた。今度はローフアーの踵が、尻の谷間に食い込むように狙った。また、ぎゃんっ、と音がした。
「――助けっ……」芋虫が堪らないのか、声を上げた。
「最初に手ェ出してきたのはそっちだろうが」敦子は低い声で言った。
その直後、敦子は背後から、強い意志を感じた。
新たな敵か? ――敦子は芋虫を放り投げ、瞬時に振り返って迎撃する姿勢をとった。
三メートル離れた場所に、高橋みなみが立っていた。
「みなみ……」
「敦子、よせ」みなみは近づきながら、「もう終わってる」
「こいつらからケンカを売ってきたんだ。動けなくなるまでやられて当然だろ」
「いいからやめろ。それに、前に何度も言っただろう……」みなみは敦子を真正面から、その大きく強いまなざしで見つめた。「マジに生きろって」
みなみは右腕を敦子の前にかざした。
ケンカをやめる誓いの証のシュシュ。
敦子は左腕に、みなみがプレゼントしてくれたお揃いのシュシュを付けている。
なんて答えればいいのかと考えているうちに、みなみが敦子の手を引っ張った。「さ。これからばっちゃんの見舞いに行くんだ、付き合ってくれ」
敦子は不承不承、その場をあとにした。
みなみの祖母――「ばっちゃん」が市立病院に入院して、すでに一ヶ月が経っている。六人部屋に入っているばっちゃんのベッドは南向きの窓際に置かれていて、いつも温かな光がベッドに当たっていた。ばっちゃんはここを「特等席」だと喜んでいた。
ばっちゃんは、いつでも二人を歓迎してくれる。この日も敦子とみなみが病室に訪れると、ばっちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「あら。今日は敦子ちゃんも一緒だ。ありがとね」
「こんにちは」敦子は笑顔を作った。
「ばっちゃん、具合どう?」
「おかげさまでね。少しずつ良くなってるよ」
「そうかい? それならよかった」みなみも笑ったが、本心ではないはずだった。
みなみが主治医から聞いた話によれば、ばっちゃんの病状は良くなっていない。ばっちゃんが罹っている肺の病気は、年齢的なこともあって、完全に回復するのは難しいようだ。
それでもみなみは、最期のときは自宅で迎えさせたいと話していた。だから完治はしなくとも、せめて退院できる程度には回復してほしい……ばっちゃんを看取ってあげることが、迷惑しかかけてこなかった自分にできる最期の孝行だ、と――。
「エレナ、もう来た?」
「あぁ。三十分くらい前に帰ったよ。夕飯の支度するって……。あ、そうだ。敦子ちゃん、いまお茶入れるからね……」ばっちゃんは掛け布団をめくり、ベッドから下りようとした。
「あ、いいですよ。お構いなく……」
「ばっちゃん、寝てろって」
「いいんだよ。少しは動かないと……」ばっちゃんは床頭台の上にある急須と日本茶の入った円筒に手を伸ばした。「あ。みなみ、ポットにお水入れてきておくれ」
「はいよ」みなみは小さな電気式の湯沸しポットを持ち上げた。「んじゃ、敦子。ちょっくら、ばっちゃん頼むわ」
「うん。わかった」
みなみが病室から消えると、ばっちゃんは茶葉を急須に入れながら、敦子の名を呼んだ。
「はい?」
「みなみは最近、ケンカしてない?」
「ええ」敦子は頷いた。本当のことだ。
「それはよかった。でも、敦子ちゃん……あんたはしてるね」
敦子は答えに窮した。
「ちゃんと顔に書いてある」ばっちゃんは笑った。「――なんてのはウソでね。敦子ちゃんの手……傷だらけよ」
敦子は拳を見た。
「それに、女の子の手にしちゃ、ゴツいわ。硬いもの、たくさん殴ってきたでしょ」
敦子は苦笑いをした。
「ケンカをしたけりゃおやんなさい。若い人になに言ったってやめないでしょうからね。だったら嫌になるまでやらせるしかないわ。あの子はなんにも言ってないのに自分からやめてくれたけどね……」
ばっちゃんは一人で、納得するように頷いた。
離婚した両親を嫌っていたみなみは、高校に入学すると、妹のエレナと一緒に母方の祖母であるばっちゃんの家で居候のような暮らしを始めた。そのころのみなみは、外に出かけるたびにケンカをして、ばっちゃんに傷の手当をしてもらっていた。
そのばっちゃんが地元の商店街の一角で、ガンギレ高校の生徒に襲われたのは、みなみが二年生に進級したころだった。みなみに恨みを持つ生徒がばっちゃんを拉致しようとしたのだ。たまたま通りがかった敦子がばっちゃんに気づいたため、事態はそれ以上進展しなかった。
敦子の報せで、みなみはアルバイトを早退し、文字通りすっ飛んできた。そしてばっちゃんの顔を見ると、安心したのか泣いた。
その事件と関係あるのかどうかはわからないが、ばっちゃんはほどなく発作を起こし、入院することになった。みなみは自分がヤンキーであり続けることが、ばっちゃんを危険にさらすことだと考えたようだった。みなみはそれからケンカを忌避するようになった。
「それでね、敦子ちゃん。身勝手なお願いってことは充分わかったうえで言うんだけど……みなみを守ってあげてね」
「――はい……」
「いままで斬った張ったの世界にいた人が足洗うのは簡単じゃないからねぇ。みなみがやめるったって、相手にはそんなこと関係ない。けど、みなみは一度決めたらそれを貫く
子なんだよ。あの子はもう二度と人様を殴ることはない。だから、敦子ちゃん、あなたがみなみを守ってあげて。そしていつか、敦子ちゃんも人様を殴るのをおやめなさい」
言われなくてもみなみは守る。というより、そんなことは考えるまでもない。空気を吸って生きていることを意識しないのと同じく、敦子にとってダチを守ることは自明すぎることだった。
敦子が返答しようとした瞬間、みなみが病室に戻ってきた。「ただいまぁ」
ばっちゃんは軽くウインクをして、今の話は内緒という合図を送ってきた。もちろん、それがなくてもするつもりはなかった。
「すぐに沸くからね……」
みなみは微笑んだ。
それから一週間後――みなみは死んだ。
いま思えば、みなみは敦子がばっちゃんと交わした視線に気づいていたのだろう。
――あたしに内緒なんて通じないよ。
あの微笑には、そんなみなみの気持ちが込められていたのかもしれない。
「そうだったの、みなみ?」敦子はかたわらのみなみに問いかけた。
「――どうだろうな」みなみはいたずらっ子のように目を細める。
敦子は駅前のロータリーまでやってきた。小さな街とはいえ、出勤する人や登校する人たちで、この時間の駅はいつものようににぎわっていた。
毎日繰り返し見ている光景に、敦子は不思議な気持ちになった。ここにいる、ほとんどすべての人たちは、マジジョの生徒や敦子がいま置かれている問題や立場を知りもしない。何百人かの人間がどうなろうと、ましてやそれが、たかだか学校同士のケンカであれば、社会ではなにも起きていないも同然なのだ。
けれども敦子にとってはちがう。
改札を抜け、階段を使って、島式ホームへ立った。混雑している階段近くから、ホームの端へと歩いていく。
上り線の列車に乗れば都会へ。
下り線の列車に乗れば馬路須加女学園へ。
――ねえ、みなみ。どっちに乗ればいい?
「敦子」すぐ横にいるみなみが言った。「あたしが決めることじゃない。敦子自身がどうしたいか、だろ?」
「――みなみ……」
行かないと決めていたはずなのに……。
サドの土下座でもエレナのビンタでも動じなかった。それなのに、いまになって迷い始めている自分に、敦子はとまどい、そして腹を立てた。
サドが他人に土下座をするのは、どれだけ屈辱的だったか。
大勢の生徒がいる場所で敦子をひっぱたいたエレナの度胸と覚悟はどれほどのものだったのか。
敦子はそれを結果的に無視し続けた。
それが、「マジに生きる」ということなのか?
下り列車がまもなく到着することを告げるアナウンスが聞こえた。
敦子は左手のシュシュを見つめた。
みなみの顔が浮かんだ。
続いて、だるまの鬱陶しい顔と「あつ姐」という声。
ヲタ、バンジー、ウナギ、アキチャ、ムクチ。
大歌舞伎、小歌舞伎。
学ラン。
みゃお、らぶたん、まなまな。チョウコク。
シブヤ。
ブラック。
ゲキカラ。
そして、サド――優子……。
マジジョで出会った、かけがえのないダチたち。
――ちがうっ。ダチなんかじゃねえっ。ダチなんかいらねえんだっ。
列車が線路の向こうで汽笛を短く鳴らした。
――みなみと約束したんだ……マジに生きるって。
「そうだよね、みなみ?」
顔を上げると、みなみはいなくなっていた。
「みなみ……?」
敦子はホームに、みなみの姿を求めた。
レールの継ぎ目でガタンゴトンと音を立てながら、三輌編成の列車がホームに進入してきた。列車を待つ何十もの人々が列車に乗車しようと、少しずつホームの端に向かって移動を始めた。
その中に、私立八木女子高校の制服を着た、一四八センチの少女はいなかった。
いるわけがない。
みなみは死んだのだ。
敦子が救えなかったから。
敦子が守れなかったから。
敦子がそばにいなかったから。
列車が完全に停止すると、圧縮空気によって開かれたいくつもの扉から人々が吐き出され、そして吸い込まれていく。
マジジョに向かうにしても、必ずしもこの列車に乗る必要はない。二十分もすれば次の列車が来る。ただ、それをしてはいけないような気がした。ずるずると結論を先延ばしにするだけで、なんの解決にもならない。
――私は……どうすればいい?
自分にそう問いかけた瞬間、さっきのみなみの言葉が繰り返された。
――あたしが決めることじゃない。敦子自身がどうしたいか、だろ?
そのとき、敦子に決断を急かすかのごとく、発車ベルが鳴った。
敦子は最後の瞬間、なにも考えなかった。
ただ、体が反応していた。
扉が閉まる寸前、敦子はその間をすり抜けるようにして、列車に飛び乗った。
列車が動き出すと、敦子は振り返って窓からホームを見た。
みなみがいた。
袖をまくった左手をブレザーのポケットに入れ、親指を立てた右手を敦子に向け、みなみは満面の笑みを浮かべていた。
敦子は何度も何度も頷き、みなみの姿が見えなくなるまで窓の外に目を向けていた。
やがて列車が駅から離れると、自分の決断を伝えなければならない人にメールを送るため、敦子は携帯電話を取り出した。
【つづく】