■決戦前―1■
寒さで目が覚めた。
ヲタは寝袋のファスナーを開け、上半身を外に出した。ひんやりとした霧を意識すると、顔が冷たかった。
「寒みぃ……」
小さく声にしてみると、白い息が出た。
朝がこれほど寒かったのは、ここに来て以来はじめてだった。
両手を擦り合わせ、白い息を吐きかけた。ほんの少し温かくなった。
まぶたをこすって意識を覚醒させる。ついでに大きく伸びをした。
高台にある境内は霧に包まれていた。それはまるで舞台劇の特殊効果のようでもあり、寝ているあいだに別の場所に連れてこられてしまったと思えた。拝殿の通路より下は水面のように白い霧で覆われ、向こうにある御神木は根元が見えなかった。神など信じていないヲタだったが、寒煙迷離なその光景には人知を超えた存在があるような気さえした。現在が何時かはわからなかったが、その圧倒的な非日常感に包まれていると、ここが時間に囚われない空間のように思える。
ぶるっと震えがやってきて、ヲタはジャージのチャックを限界まで引き上げた。
だるまはまだ眠っていた。体を丸めて横向きに寝転がっているだるまは悪い夢でも見ているのか、ありえないくらい苦しそうな表情をしている。
まだ眠るべきかと思ったが、ヲタはこのまま起きることにした。脳も体もまだ疲れていたが、ふたたび寝袋に入っても、目が冴えてしまって眠れないにちがいない。
意を決して寝袋を出て、ヲタはだるまが持ってきたキャンプ用のガスバーナーコンロを手近に持ってきた。その上にステンレス鋼製の小さな鍋を置き、ペットボトルの水を入れる。
手が震えてなかなかうまくいかなかったが、尖った炎が吹き上がったときは感動した。
ヲタはしばらくのあいだ、小さな炎のゴーッという音と、どこからか聞こえる鳥の声だけに耳を傾けていた。まだ頭も冴えていなかったし、初めて体験するこの雰囲気に浸っていたかった。
やがて鍋のお湯が沸いたので、ヲタはバーナーの火を止めた。ぐつぐつと煮え立つお湯を、自分のバッグから取り出したマグカップに注いだ。トワイニングのティーパックを入れ、それを懐炉みたいに両手で持つ。立ち昇る湯気が顔も暖めてくれた。自分のほっぺたが、どれほど冷たくなっていたかがよくわかる。
――こんな目覚めも悪くねぇな。
長かった「修行」は今日で終わる。明日は学校は休みだが、ヲタは「元」チームホルモンのみんなと会おうと思っている。もし会えたら、まずはなにも言わずに消えてしまったことを詫びる。だるまにも同席してもらい、なにをしていたのかを告白する。許してもらおうとは考えてないが、自分の決意を知ってほしかった。そして、近いうちに申し込むつもりでいる、朝日とのタイマンを見届けてもらいたいと頭を下げるつもりだった。
――自分勝手なやつだよな……。
バンジーは自分と再会したとき、どんな表情になるだろう? アキチャ、ウナギ、ムクチは? もっとも怖いのは無反応だ。みんなを純情堕天使のメンバーにしたのは他ならぬヲタである。みんなの中でヲタは「過去の人」になっているかもしれない。
だるまが起きてきたのは霧もすっかり晴れたころだった。そのときヲタは拝殿の廊下から下り、一人でできる柔軟体操をしながらだるまの目覚めを待っていた。
ここ数日で見慣れたが、寝起きのだるまのしかめっ面は見られたものじゃなかった。だるまの彼氏が見たら(そんな奇特なやつがいるかどうかは別にして)、百年の恋も冷めるだろう。
「やっと起きたか」ヲタは腰をひねりながら、視線だけはだるまから離さなかった。
「なんや、珍しいな。オレより早いなんて……」だるまは寝袋ごと、もぞもぞと上半身を起こした。「なんか不吉なことでも起きるんちゃうか」
「んなことねぇよ。さあ、さっさと起きて朝飯、買いに行こうぜ」
「最後の日やからってそんな張り切らんでも……」だるまは苦笑した。
そう、今日は最後の日だ。
ヲタは緩慢な動作で寝袋を出るだるまを見て、突然寂しさを感じた。階段で足腰を鍛えるのは本当にきつかったし、組手は怖かった。夜は死ぬかと思うくらい寒いし、朝は早くから起こされるし、毎日コンビニの弁当はいいかげん飽きた。天井のあるところで落ち着いて食事をしたい。ふかふかの敷布団の上で温かい毛布にくるまって、だれにも起こされずに自然と目が覚めるまで眠りたい。こんなことはもう二度としたくない。
――でも……。
「――だるま……」意識しないまま、呼びかけた。
だるまは寝袋をたたんでいた手を止め、ヲタと目を合わせた。「なんや?」
「――だるま……ありがとな」
そう言ってしまってから、ヲタは恥ずかしくなって視線を外した。
どうして急にそんなことを言い出したのか自分でもわからない。しかし、いま言わなければずっと言いそびれると思った。
「ちょっ……おま……なに真剣な顔してそんなこと突然……アホか」
だるまの声が上ずった。
「おれとこんなことしたって、おまえにはなんの得もねえ。それなのに一週間も付き合ってくれた……」
「アホ言うな。おまえのためなんかやない。オレも強ぅなりたいんや。おまえのため、ちゃうぞ……」
消え入るような語尾で、だるまはヲタに背を向けた。
鼻水をすする音がした。
本当に今日で終わりなんだと、ヲタはそのとき実感した。
「おれ、向こうで体あっためてっから、準備できたら来いよ」この場にい辛くなったヲタはそう言い残し、拝殿のある境内のほうへ向かった。
まだ気温は低いが、空は快晴だった。玉垣に両手をついて背中や腰を伸ばすストレッチをしながら、ヲタは町と空をながめた。小高い山の上から見る町の景色とも、しばらくお別れだ。近所だからいつでも来られるが、だからこそここを訪れる機会は少なくなるだろう。特に、こんなに朝早く、この場所に立つことは二度とないにちがいない。
ふと、少し離れたところの玉垣に三羽の鳩が止っているのに、ヲタは気づいた。
鳩はいつも神社にいたし、他にも雀や鴉もやってくる。だから鳩がそこにいるのに不思議はない。
気味が悪いのは、三羽の鳩はまったく同じ方向を向き、作り物のように微動だにしていなかったことだ。まるでなにかに射すくめられたようだった。
そのとき、背後でバサッという大きな音がして、ヲタは驚いた。振り返ると、大きな鴉が羽をたたみながら玉垣の上に止ろうとしていた。ヲタはそれを目で追った。
続けて二羽、鴉が滑空してきた。それらも玉垣の上に止った。
空を見上げると、まだ鴉はいた。いや、鴉だけではなかった。鳩も雀もいる。全部で百羽ほどだろうか。
ぞっとした。
こんな光景は見たことがない。考えるよりも早く持ち前の防衛本能が働き、ヲタは玉垣から離れた。
それを待っていたかのように、鳥たちは少しずつ降下してきた。
気がつくと、ヲタは鳥居の柱に身を寄せていた。
「――なんなんだよ、これ……」
そこにだるまがやってきた。だるまは鳥が所狭しと止った玉垣を見て、なんやこれ、と大声を上げた。「ヲタ、いったい、なんの騒ぎや?」
「おれにわかるわけねぇだろ。突然、鳥がたくさん降りてきたんだよ」
「こんなん、見たことないな……」
いまや玉垣の上は、まさに足の踏み場もないほど、鳥、鳥、鳥で埋め尽くされていた。鴉、鳩、雀、名前を知らない鳥もいる。それだけでも気味が悪いのに、鳥たちは種類の別なく、とあるひとつの方角を向いていた。もともとなにを考えているかなどわからない無機質な瞳だが、それが揃うとこんなに怖いとは考えたことさえなかった。
「あいつら、なんなんや……?」だるまは玉垣に向かって歩き出した。
「おい、気持ち悪いからほっとけって……」
だるまはヲタを無視した。ヲタは少しだけ迷って、だるまのあとに続いた。
普段なら餌でも持っていない限り、人間が近寄れば離れるはずの鳥たちは、二人の動向にまったく反応しなかった。もはや容易に捕まえられるほどの位置まで近づいても、最初に見かけた鳩同様、とある一点を注視したままだ。
「さっきからこいつら同じほうを向いてるんだよ」ヲタは小声でだるまに教えた。
「ほんまやな……」だるまは腰を折って、一羽の鴉に顔を近づけた。「手羽先獲り放題やで。ま、カラスのなんてまずそうやけどな」
「危ねぇぞ。突かれたらどうすんだ」
だるまはまたもヲタの忠告を無視して、鴉だけではなく他の鳥の視線の先をなぞっている。それを見て、ヲタも恐る恐る鳥を見た。
突然、だるまがハッとしたように体を起こした。その動きにヲタは心底驚いて、わっと声を上げてしまった。
それでも鳥たちはまるで死んでしまったように、一羽たりとも動かなかった。反射的に羽を広げるものさえいない。
「こいつらの視線、追ってみい……」
「え……?」
ヲタは鳥たちが見下ろす方向に顔を向けた。
鳥がここまで夢中になってしまうなにかがあるのかと思ったが、さっきまで見ていた、いつもの町並みが広がっているだけだ。一戸建て住宅やマンションやアパート、商店街、町工場、公園、公民館、寺、消防署、警察署、病院、学校……。
学校?
ヲタはもう一度、鳥たちの視線を確認した。
こんな遠くからだから誤差はあるだろう。だが、おそらくまちがいない。鳥たちは、とある学校の方向を見つめている。
「――だるま……」
「ああ。なんやら、不吉な予感がするで」
突然、理屈ではない、直感的な不安がヲタを襲った。昨日唐突に感じた、なにかが起きているという予感は正しかったのかもしれない。
ヲタは走り出した。境内を全力疾走し、本殿の裏に回った。自分のバッグを見つけると、中に入っているものを次々と出した。
やがて電源が切られた携帯電話が底から出てきた。ヲタは震える手でそれを開き、電源ボタンを押した。起動するまでの数秒がもどかしく感じた。
プログラムが立ち上がると、すぐにメールの着信をセンターに問い合わせた。ダウンードされたメールは一五○件ほどあった。「受信中」という表示の下のバーがジリジリと伸びていく。イライラして、そんなことをしても意味がないのに、携帯電話の決定ボタンを何度も押した。
ようやくすべてのメールを受信し終わると、ヲタはバンジーから送られてきた三十通ほどのメールを新しい順に次から次へと開き、読んでいった。なにかが起きているとすれば、バンジーが伝えてくれているはずだった。
その予感は当たった。バンジーはヲタの身を案じつつ、マジジョで起きている事態を逐一報告してくれていた。ヲタは胸の奥から湧き上がってくる申し訳ない気持ちを押さえ、バンジーに対する感謝の気持ちをいだきながら、事態の推移を追った。読み進めていくうちに、現在のマジジョが置かれた状況がざっと把握できた。
アリジョが来る。
しかも、今日。
そんな大事なときにマジジョにいなかった己の不運を、ヲタは呪わずにいられなかった。
「だるまっ」ヲタは叫んだ。
「なんや、大声ださんでも近くにおるで。それに……」だるまは携帯電話をヲタに示した。「――オレにもバンジーからメール来とった。特訓はここで終わりや。いますぐ荷物まとめて山を下りるで」
「だな」
ヲタは先ほど出した荷物を、でたらめな順番でバッグの中に放り込んでいった。最後に残った寝袋は、あわてて丸めたため空気があいだに入ってきれいにたためていなかったが、無理矢理バッグに詰めた。一刻も早くマジジョに戻りたかった。
だるまもヲタとほぼ同じタイミングで荷物をまとめ終わったようだった。バッグを肩で背負うようにかつぎ、そそくさと歩き出す。「ほなら、行くで」
「あ、ああ……」ヲタは早足でだるまを追った。拝殿の前まで歩いたところで、ヲタはだるまを呼び止めた。「ちょっと待った」
すでに鳥居をくぐろうかというだるまは、ヲタの声につんのめって立ち止まった。「なんやねん。早よ、いかんと……」
「お参りしてこうぜ」ヲタは立てた親指で拝殿を示した。
「アホか。ンな時間ないで……」
「アリジョが来ることはもうわかってるんだ。対策はしてあるだろう。おれら二人が焦って行ったってたいして役になんてたたねえよ。だったら、気持ちを落ち着けて、ついでに腹ごしらえしてから行ったほうがいい」
だるまはなにか言いたげにしかめっ面で考えたようだが、少しして頷いた。「――まあ、それもそうかも、やな」
ヲタは短い階段を昇りながら、初日にお参りしたとき、だるまに取られた五百円硬貨とヲタ自身の五百円硬貨を賽銭箱に入れたことを思い出した。バッグの中から財布を取り出して開いた。数枚の紙幣と硬貨が入っている。全部で五千円ちょっとだった。ヲタはちょっと考えてから、朝飯を食べるための五百円硬貨を一枚残し、残りの札と硬貨をすべて賽銭箱の中に入れた。硬貨は派手な音を立てながら、札はひらひらと舞うように格子の向こうへ消えていった。
「おまえ……思い切ったことやりよるな」だるまは目を見開いた。
「宿泊代さ」
二礼二拍し、手のひらを合わせ、まぶたを閉じる。
いよいよ自分の力を試せるのだ。機会は唐突にやってきたが、覚悟を決めなければいけない。
ダチたちの顔が浮かんできた。
バンジー。
アキチャ。
ウナギ。
ムクチ。
そしてプリクラ。
一礼して、ヲタは顔を上げた。
そこには数日前とは確実にちがう、真摯な女がいた。
【つづく】
寒さで目が覚めた。
ヲタは寝袋のファスナーを開け、上半身を外に出した。ひんやりとした霧を意識すると、顔が冷たかった。
「寒みぃ……」
小さく声にしてみると、白い息が出た。
朝がこれほど寒かったのは、ここに来て以来はじめてだった。
両手を擦り合わせ、白い息を吐きかけた。ほんの少し温かくなった。
まぶたをこすって意識を覚醒させる。ついでに大きく伸びをした。
高台にある境内は霧に包まれていた。それはまるで舞台劇の特殊効果のようでもあり、寝ているあいだに別の場所に連れてこられてしまったと思えた。拝殿の通路より下は水面のように白い霧で覆われ、向こうにある御神木は根元が見えなかった。神など信じていないヲタだったが、寒煙迷離なその光景には人知を超えた存在があるような気さえした。現在が何時かはわからなかったが、その圧倒的な非日常感に包まれていると、ここが時間に囚われない空間のように思える。
ぶるっと震えがやってきて、ヲタはジャージのチャックを限界まで引き上げた。
だるまはまだ眠っていた。体を丸めて横向きに寝転がっているだるまは悪い夢でも見ているのか、ありえないくらい苦しそうな表情をしている。
まだ眠るべきかと思ったが、ヲタはこのまま起きることにした。脳も体もまだ疲れていたが、ふたたび寝袋に入っても、目が冴えてしまって眠れないにちがいない。
意を決して寝袋を出て、ヲタはだるまが持ってきたキャンプ用のガスバーナーコンロを手近に持ってきた。その上にステンレス鋼製の小さな鍋を置き、ペットボトルの水を入れる。
手が震えてなかなかうまくいかなかったが、尖った炎が吹き上がったときは感動した。
ヲタはしばらくのあいだ、小さな炎のゴーッという音と、どこからか聞こえる鳥の声だけに耳を傾けていた。まだ頭も冴えていなかったし、初めて体験するこの雰囲気に浸っていたかった。
やがて鍋のお湯が沸いたので、ヲタはバーナーの火を止めた。ぐつぐつと煮え立つお湯を、自分のバッグから取り出したマグカップに注いだ。トワイニングのティーパックを入れ、それを懐炉みたいに両手で持つ。立ち昇る湯気が顔も暖めてくれた。自分のほっぺたが、どれほど冷たくなっていたかがよくわかる。
――こんな目覚めも悪くねぇな。
長かった「修行」は今日で終わる。明日は学校は休みだが、ヲタは「元」チームホルモンのみんなと会おうと思っている。もし会えたら、まずはなにも言わずに消えてしまったことを詫びる。だるまにも同席してもらい、なにをしていたのかを告白する。許してもらおうとは考えてないが、自分の決意を知ってほしかった。そして、近いうちに申し込むつもりでいる、朝日とのタイマンを見届けてもらいたいと頭を下げるつもりだった。
――自分勝手なやつだよな……。
バンジーは自分と再会したとき、どんな表情になるだろう? アキチャ、ウナギ、ムクチは? もっとも怖いのは無反応だ。みんなを純情堕天使のメンバーにしたのは他ならぬヲタである。みんなの中でヲタは「過去の人」になっているかもしれない。
だるまが起きてきたのは霧もすっかり晴れたころだった。そのときヲタは拝殿の廊下から下り、一人でできる柔軟体操をしながらだるまの目覚めを待っていた。
ここ数日で見慣れたが、寝起きのだるまのしかめっ面は見られたものじゃなかった。だるまの彼氏が見たら(そんな奇特なやつがいるかどうかは別にして)、百年の恋も冷めるだろう。
「やっと起きたか」ヲタは腰をひねりながら、視線だけはだるまから離さなかった。
「なんや、珍しいな。オレより早いなんて……」だるまは寝袋ごと、もぞもぞと上半身を起こした。「なんか不吉なことでも起きるんちゃうか」
「んなことねぇよ。さあ、さっさと起きて朝飯、買いに行こうぜ」
「最後の日やからってそんな張り切らんでも……」だるまは苦笑した。
そう、今日は最後の日だ。
ヲタは緩慢な動作で寝袋を出るだるまを見て、突然寂しさを感じた。階段で足腰を鍛えるのは本当にきつかったし、組手は怖かった。夜は死ぬかと思うくらい寒いし、朝は早くから起こされるし、毎日コンビニの弁当はいいかげん飽きた。天井のあるところで落ち着いて食事をしたい。ふかふかの敷布団の上で温かい毛布にくるまって、だれにも起こされずに自然と目が覚めるまで眠りたい。こんなことはもう二度としたくない。
――でも……。
「――だるま……」意識しないまま、呼びかけた。
だるまは寝袋をたたんでいた手を止め、ヲタと目を合わせた。「なんや?」
「――だるま……ありがとな」
そう言ってしまってから、ヲタは恥ずかしくなって視線を外した。
どうして急にそんなことを言い出したのか自分でもわからない。しかし、いま言わなければずっと言いそびれると思った。
「ちょっ……おま……なに真剣な顔してそんなこと突然……アホか」
だるまの声が上ずった。
「おれとこんなことしたって、おまえにはなんの得もねえ。それなのに一週間も付き合ってくれた……」
「アホ言うな。おまえのためなんかやない。オレも強ぅなりたいんや。おまえのため、ちゃうぞ……」
消え入るような語尾で、だるまはヲタに背を向けた。
鼻水をすする音がした。
本当に今日で終わりなんだと、ヲタはそのとき実感した。
「おれ、向こうで体あっためてっから、準備できたら来いよ」この場にい辛くなったヲタはそう言い残し、拝殿のある境内のほうへ向かった。
まだ気温は低いが、空は快晴だった。玉垣に両手をついて背中や腰を伸ばすストレッチをしながら、ヲタは町と空をながめた。小高い山の上から見る町の景色とも、しばらくお別れだ。近所だからいつでも来られるが、だからこそここを訪れる機会は少なくなるだろう。特に、こんなに朝早く、この場所に立つことは二度とないにちがいない。
ふと、少し離れたところの玉垣に三羽の鳩が止っているのに、ヲタは気づいた。
鳩はいつも神社にいたし、他にも雀や鴉もやってくる。だから鳩がそこにいるのに不思議はない。
気味が悪いのは、三羽の鳩はまったく同じ方向を向き、作り物のように微動だにしていなかったことだ。まるでなにかに射すくめられたようだった。
そのとき、背後でバサッという大きな音がして、ヲタは驚いた。振り返ると、大きな鴉が羽をたたみながら玉垣の上に止ろうとしていた。ヲタはそれを目で追った。
続けて二羽、鴉が滑空してきた。それらも玉垣の上に止った。
空を見上げると、まだ鴉はいた。いや、鴉だけではなかった。鳩も雀もいる。全部で百羽ほどだろうか。
ぞっとした。
こんな光景は見たことがない。考えるよりも早く持ち前の防衛本能が働き、ヲタは玉垣から離れた。
それを待っていたかのように、鳥たちは少しずつ降下してきた。
気がつくと、ヲタは鳥居の柱に身を寄せていた。
「――なんなんだよ、これ……」
そこにだるまがやってきた。だるまは鳥が所狭しと止った玉垣を見て、なんやこれ、と大声を上げた。「ヲタ、いったい、なんの騒ぎや?」
「おれにわかるわけねぇだろ。突然、鳥がたくさん降りてきたんだよ」
「こんなん、見たことないな……」
いまや玉垣の上は、まさに足の踏み場もないほど、鳥、鳥、鳥で埋め尽くされていた。鴉、鳩、雀、名前を知らない鳥もいる。それだけでも気味が悪いのに、鳥たちは種類の別なく、とあるひとつの方角を向いていた。もともとなにを考えているかなどわからない無機質な瞳だが、それが揃うとこんなに怖いとは考えたことさえなかった。
「あいつら、なんなんや……?」だるまは玉垣に向かって歩き出した。
「おい、気持ち悪いからほっとけって……」
だるまはヲタを無視した。ヲタは少しだけ迷って、だるまのあとに続いた。
普段なら餌でも持っていない限り、人間が近寄れば離れるはずの鳥たちは、二人の動向にまったく反応しなかった。もはや容易に捕まえられるほどの位置まで近づいても、最初に見かけた鳩同様、とある一点を注視したままだ。
「さっきからこいつら同じほうを向いてるんだよ」ヲタは小声でだるまに教えた。
「ほんまやな……」だるまは腰を折って、一羽の鴉に顔を近づけた。「手羽先獲り放題やで。ま、カラスのなんてまずそうやけどな」
「危ねぇぞ。突かれたらどうすんだ」
だるまはまたもヲタの忠告を無視して、鴉だけではなく他の鳥の視線の先をなぞっている。それを見て、ヲタも恐る恐る鳥を見た。
突然、だるまがハッとしたように体を起こした。その動きにヲタは心底驚いて、わっと声を上げてしまった。
それでも鳥たちはまるで死んでしまったように、一羽たりとも動かなかった。反射的に羽を広げるものさえいない。
「こいつらの視線、追ってみい……」
「え……?」
ヲタは鳥たちが見下ろす方向に顔を向けた。
鳥がここまで夢中になってしまうなにかがあるのかと思ったが、さっきまで見ていた、いつもの町並みが広がっているだけだ。一戸建て住宅やマンションやアパート、商店街、町工場、公園、公民館、寺、消防署、警察署、病院、学校……。
学校?
ヲタはもう一度、鳥たちの視線を確認した。
こんな遠くからだから誤差はあるだろう。だが、おそらくまちがいない。鳥たちは、とある学校の方向を見つめている。
「――だるま……」
「ああ。なんやら、不吉な予感がするで」
突然、理屈ではない、直感的な不安がヲタを襲った。昨日唐突に感じた、なにかが起きているという予感は正しかったのかもしれない。
ヲタは走り出した。境内を全力疾走し、本殿の裏に回った。自分のバッグを見つけると、中に入っているものを次々と出した。
やがて電源が切られた携帯電話が底から出てきた。ヲタは震える手でそれを開き、電源ボタンを押した。起動するまでの数秒がもどかしく感じた。
プログラムが立ち上がると、すぐにメールの着信をセンターに問い合わせた。ダウンードされたメールは一五○件ほどあった。「受信中」という表示の下のバーがジリジリと伸びていく。イライラして、そんなことをしても意味がないのに、携帯電話の決定ボタンを何度も押した。
ようやくすべてのメールを受信し終わると、ヲタはバンジーから送られてきた三十通ほどのメールを新しい順に次から次へと開き、読んでいった。なにかが起きているとすれば、バンジーが伝えてくれているはずだった。
その予感は当たった。バンジーはヲタの身を案じつつ、マジジョで起きている事態を逐一報告してくれていた。ヲタは胸の奥から湧き上がってくる申し訳ない気持ちを押さえ、バンジーに対する感謝の気持ちをいだきながら、事態の推移を追った。読み進めていくうちに、現在のマジジョが置かれた状況がざっと把握できた。
アリジョが来る。
しかも、今日。
そんな大事なときにマジジョにいなかった己の不運を、ヲタは呪わずにいられなかった。
「だるまっ」ヲタは叫んだ。
「なんや、大声ださんでも近くにおるで。それに……」だるまは携帯電話をヲタに示した。「――オレにもバンジーからメール来とった。特訓はここで終わりや。いますぐ荷物まとめて山を下りるで」
「だな」
ヲタは先ほど出した荷物を、でたらめな順番でバッグの中に放り込んでいった。最後に残った寝袋は、あわてて丸めたため空気があいだに入ってきれいにたためていなかったが、無理矢理バッグに詰めた。一刻も早くマジジョに戻りたかった。
だるまもヲタとほぼ同じタイミングで荷物をまとめ終わったようだった。バッグを肩で背負うようにかつぎ、そそくさと歩き出す。「ほなら、行くで」
「あ、ああ……」ヲタは早足でだるまを追った。拝殿の前まで歩いたところで、ヲタはだるまを呼び止めた。「ちょっと待った」
すでに鳥居をくぐろうかというだるまは、ヲタの声につんのめって立ち止まった。「なんやねん。早よ、いかんと……」
「お参りしてこうぜ」ヲタは立てた親指で拝殿を示した。
「アホか。ンな時間ないで……」
「アリジョが来ることはもうわかってるんだ。対策はしてあるだろう。おれら二人が焦って行ったってたいして役になんてたたねえよ。だったら、気持ちを落ち着けて、ついでに腹ごしらえしてから行ったほうがいい」
だるまはなにか言いたげにしかめっ面で考えたようだが、少しして頷いた。「――まあ、それもそうかも、やな」
ヲタは短い階段を昇りながら、初日にお参りしたとき、だるまに取られた五百円硬貨とヲタ自身の五百円硬貨を賽銭箱に入れたことを思い出した。バッグの中から財布を取り出して開いた。数枚の紙幣と硬貨が入っている。全部で五千円ちょっとだった。ヲタはちょっと考えてから、朝飯を食べるための五百円硬貨を一枚残し、残りの札と硬貨をすべて賽銭箱の中に入れた。硬貨は派手な音を立てながら、札はひらひらと舞うように格子の向こうへ消えていった。
「おまえ……思い切ったことやりよるな」だるまは目を見開いた。
「宿泊代さ」
二礼二拍し、手のひらを合わせ、まぶたを閉じる。
いよいよ自分の力を試せるのだ。機会は唐突にやってきたが、覚悟を決めなければいけない。
ダチたちの顔が浮かんできた。
バンジー。
アキチャ。
ウナギ。
ムクチ。
そしてプリクラ。
一礼して、ヲタは顔を上げた。
そこには数日前とは確実にちがう、真摯な女がいた。
【つづく】
あくまで「ぼくの好きな」ランキングですので、そこんとこよろしくです。
1・サウダーヂ
2・X-MEN:ファースト・ジェネレーション
3・アジョシ
4・ブルーバレンタイン
5・イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ
6・悪魔を見た
7・歓待
8・スーパー!
9・ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
10・仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX
11・劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ
12・電人ザボーガー
13・ソーシャル・ネットワーク
14・ブラック・スワン
15・監督失格
16・猿の惑星:創世記(ジェネシス)
17・トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン
18・アンストッパブル
19・カンフーパンダ2
20・コンテイジョン
21・冷たい熱帯魚
22・GANTZ
23・イリュージョニスト
24・Peace
25・エンジェル・ウォーズ
26・グリーンホーネット
27・スプライス
28・宇宙人ポール
29・マイ・バック・ページ
30・くまのプーさん
31・リアル・スティール
32・ハンナ
33・トゥルー・グリット
34・マネーボール
35・タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密
36・英国王のスピーチ
37・白夜行
38・キャプテン・アメリカ
39・GANTZ PERFECT ANSWER
40・モールス
41・スカイライン
42・ピラニア3D
43・ヒアアフター
44・未来を生きる君たちへ
45・スーパー8
46・ドリーム・ホーム
47・ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える
48・マイティ・ソー
49・世界侵略:ロサンゼルス決戦
50・アンダルシア 女神の報復
51・インシディアス
52・モテキ
53・恋の罪
54・ミッション:8ミニッツ
55・カウボーイ&エイリアン
56・ワイルドスピード MEGA MAX
57・スマグラー おまえの未来を運べ
58・RED
59・カーズ2
60・あしたのジョー
61・スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団
62・ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2
63・トロン:レガシー
64・コクリコ坂から
65・モンスターズ
66・ワイルド7
67・漫才ギャング
68・ドラえもん のび太と鉄人兵団
69・手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-
70・アジャストメント
71・DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?
72・さや侍
73・映画 スイートプリキュア♪ とりもどせ!心がつなぐ奇跡のメロディ♪
74・けいおん!
75・ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国
76・ツーリスト
77・もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
78・怪物くん
79・ステキな金縛り
80・セカンドバージン
81・ワラライフ!!
1・サウダーヂ
2・X-MEN:ファースト・ジェネレーション
3・アジョシ
4・ブルーバレンタイン
5・イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ
6・悪魔を見た
7・歓待
8・スーパー!
9・ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
10・仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX
11・劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ
12・電人ザボーガー
13・ソーシャル・ネットワーク
14・ブラック・スワン
15・監督失格
16・猿の惑星:創世記(ジェネシス)
17・トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン
18・アンストッパブル
19・カンフーパンダ2
20・コンテイジョン
21・冷たい熱帯魚
22・GANTZ
23・イリュージョニスト
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27・スプライス
28・宇宙人ポール
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30・くまのプーさん
31・リアル・スティール
32・ハンナ
33・トゥルー・グリット
34・マネーボール
35・タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密
36・英国王のスピーチ
37・白夜行
38・キャプテン・アメリカ
39・GANTZ PERFECT ANSWER
40・モールス
41・スカイライン
42・ピラニア3D
43・ヒアアフター
44・未来を生きる君たちへ
45・スーパー8
46・ドリーム・ホーム
47・ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える
48・マイティ・ソー
49・世界侵略:ロサンゼルス決戦
50・アンダルシア 女神の報復
51・インシディアス
52・モテキ
53・恋の罪
54・ミッション:8ミニッツ
55・カウボーイ&エイリアン
56・ワイルドスピード MEGA MAX
57・スマグラー おまえの未来を運べ
58・RED
59・カーズ2
60・あしたのジョー
61・スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団
62・ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2
63・トロン:レガシー
64・コクリコ坂から
65・モンスターズ
66・ワイルド7
67・漫才ギャング
68・ドラえもん のび太と鉄人兵団
69・手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-
70・アジャストメント
71・DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?
72・さや侍
73・映画 スイートプリキュア♪ とりもどせ!心がつなぐ奇跡のメロディ♪
74・けいおん!
75・ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国
76・ツーリスト
77・もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
78・怪物くん
79・ステキな金縛り
80・セカンドバージン
81・ワラライフ!!
■胎動―9■
サドはまんじりとした夜を送っていた。
タイマン部屋のベッドに寝転がり、天井を見つめる。もう二十四時間近く起きている。明日のために眠らなければと思うのに、睡魔はまったくやってこない。ブラックが入れてくれたココアの覚醒作用だけが原因ではないだろう。トリゴヤを抱けば少しは疲労して眠りやすくなるかもしれないが、そんな気分にはなれなかった。
前田敦子と拳を交わしたあの闘いが高校生活最後の『マジ』だった――そのはずなのに、まだ自分の存在を賭けて闘うことになったのだ。
うれしかった。
優子がそばにいないのだけが残念だが、ヤンキー魂を持つ一人の女として、サドはそのこと自体は歓迎すべきことだと考えている。最後の最後に、しかも全校生徒とともに本気で暴れることができるのだ。
だが、眠れないのはそうした興奮だけが原因ではなかった。
先ほど、峯岸みなみの案内で校内をまわったときから、サドは強い疑念にとらわれていた。想像以上に高いバリケードの完成度、臨時の「野戦病院」となった体育館に積まれた医療用品の箱の山、教室や廊下やトイレなどで自主的に格闘戦の訓練をするたくさんの生徒たち――本来、それらは不安をかき消してくれる風景のはずだった。しかし、サドの思いはちがった。
なにかをしくじっている気がする。それも、この作戦の根幹を揺るがすような大きなミスを、だ。その正体がなんなのか、サドにはわからない。だからサドはいらだち、不安を膨らませ、恐怖を感じていた。考えても意味のないことはわかっている。不安の正体がわからないかぎり、対処のしようがない。矛盾するが、ここに優子がいてくれれば、と思う。優子ならそのミスをたちどころに指摘してくれるはずだ。
だが、優子はいない。優子は知らない。
サドは考えるのをやめた。
大きく息を吐き、そして無駄かもしれないと思いつつ、まぶたを閉じた。
ヲタは寝袋の中で体を丸め、横向きに寝転がった。
この修行も明日で終わり――かたわらにいる鬼塚だるまの寝息を聞きながら、ヲタはこの数日間のことを思い出していた。
何度もくじけそうになった。最初は階段のキツさに、そのあとはだまるの打撃の痛さに、そして最後はみずから攻撃を加えるという恐怖に……。
しかし、自分はまだ、ここにいる。
逃げ出さなかった。
勇気の萌芽は確実に芽生えている。それはこの数日間でだるまと育んだ、もっとも大きな成果のひとつだった。
「オレの好きなマンガに、こんな言葉があるんや」だるまが寝る前に言っていたことを、ヲタは思い出した。「ゆるくねぇ時に泣く奴は3流。歯食いしばる奴は2流だ。笑え……果てしなく。そいつが一番だ――ってな。ええ言葉やろ?」
たしかに、いい言葉だと思った。「ああ。おもしれぇな、その発想」
「ヲタ……。おまえは散々泣いてきた。歯も食いしばった。せやから、朝日と会ったら、どうすればいいか――わかるやろ?」
「ああ。もちろんさ」
今ならできそうな気がする。
何週間か前の自分には考えもつかなかったことだ。ダチと離れ、たったふたりで何日間も過ごし、そのあいだ延々とケンカのことばかり考え、実践する。だれかがそれをすると言ったら止めただろう。そんなことできるわけがない。やめとけ、と。
それでも自分はなんとかやり遂げようとしている。いまの実力で朝日と再戦しても勝てるかどうかはわからない。だるまのヒントを元に編み出した必殺の一撃が通用するのか。しなかったらどうするのか。やってみなければわからない。けれども、ひとつだけたしかなことがある。
もう逃げない。
朝日の前に立てば、拳も脚も震えるだろう。あのときの痛打を思い出し、恐怖心がよみがえるだろう。
でも……それでも自分は逃げ出さない。
ヲタは確信を持って言える。
朝日に笑顔を見せるのだ――と。
【つづく】
サドはまんじりとした夜を送っていた。
タイマン部屋のベッドに寝転がり、天井を見つめる。もう二十四時間近く起きている。明日のために眠らなければと思うのに、睡魔はまったくやってこない。ブラックが入れてくれたココアの覚醒作用だけが原因ではないだろう。トリゴヤを抱けば少しは疲労して眠りやすくなるかもしれないが、そんな気分にはなれなかった。
前田敦子と拳を交わしたあの闘いが高校生活最後の『マジ』だった――そのはずなのに、まだ自分の存在を賭けて闘うことになったのだ。
うれしかった。
優子がそばにいないのだけが残念だが、ヤンキー魂を持つ一人の女として、サドはそのこと自体は歓迎すべきことだと考えている。最後の最後に、しかも全校生徒とともに本気で暴れることができるのだ。
だが、眠れないのはそうした興奮だけが原因ではなかった。
先ほど、峯岸みなみの案内で校内をまわったときから、サドは強い疑念にとらわれていた。想像以上に高いバリケードの完成度、臨時の「野戦病院」となった体育館に積まれた医療用品の箱の山、教室や廊下やトイレなどで自主的に格闘戦の訓練をするたくさんの生徒たち――本来、それらは不安をかき消してくれる風景のはずだった。しかし、サドの思いはちがった。
なにかをしくじっている気がする。それも、この作戦の根幹を揺るがすような大きなミスを、だ。その正体がなんなのか、サドにはわからない。だからサドはいらだち、不安を膨らませ、恐怖を感じていた。考えても意味のないことはわかっている。不安の正体がわからないかぎり、対処のしようがない。矛盾するが、ここに優子がいてくれれば、と思う。優子ならそのミスをたちどころに指摘してくれるはずだ。
だが、優子はいない。優子は知らない。
サドは考えるのをやめた。
大きく息を吐き、そして無駄かもしれないと思いつつ、まぶたを閉じた。
ヲタは寝袋の中で体を丸め、横向きに寝転がった。
この修行も明日で終わり――かたわらにいる鬼塚だるまの寝息を聞きながら、ヲタはこの数日間のことを思い出していた。
何度もくじけそうになった。最初は階段のキツさに、そのあとはだまるの打撃の痛さに、そして最後はみずから攻撃を加えるという恐怖に……。
しかし、自分はまだ、ここにいる。
逃げ出さなかった。
勇気の萌芽は確実に芽生えている。それはこの数日間でだるまと育んだ、もっとも大きな成果のひとつだった。
「オレの好きなマンガに、こんな言葉があるんや」だるまが寝る前に言っていたことを、ヲタは思い出した。「ゆるくねぇ時に泣く奴は3流。歯食いしばる奴は2流だ。笑え……果てしなく。そいつが一番だ――ってな。ええ言葉やろ?」
たしかに、いい言葉だと思った。「ああ。おもしれぇな、その発想」
「ヲタ……。おまえは散々泣いてきた。歯も食いしばった。せやから、朝日と会ったら、どうすればいいか――わかるやろ?」
「ああ。もちろんさ」
今ならできそうな気がする。
何週間か前の自分には考えもつかなかったことだ。ダチと離れ、たったふたりで何日間も過ごし、そのあいだ延々とケンカのことばかり考え、実践する。だれかがそれをすると言ったら止めただろう。そんなことできるわけがない。やめとけ、と。
それでも自分はなんとかやり遂げようとしている。いまの実力で朝日と再戦しても勝てるかどうかはわからない。だるまのヒントを元に編み出した必殺の一撃が通用するのか。しなかったらどうするのか。やってみなければわからない。けれども、ひとつだけたしかなことがある。
もう逃げない。
朝日の前に立てば、拳も脚も震えるだろう。あのときの痛打を思い出し、恐怖心がよみがえるだろう。
でも……それでも自分は逃げ出さない。
ヲタは確信を持って言える。
朝日に笑顔を見せるのだ――と。
【つづく】