■決戦―5■
ヲタと鬼塚だるまの目の前には、馬路須加女学園へ続く上り坂があった。ここを越えると道は緩やかな短い下り坂となり、学園の正門へと辿り着く。たった一週間ぶりだというのに、夏や冬の長期休暇を明けたときよりもヲタにはここがひどく懐かしい場所に思えた。
そして空には、数える気さえ失わせる数の鳥たちが旋回し、思い出したように馬路須加女学園校舎へ降下している。鳴き声が一面に響き渡り、学園の周囲は異様としか言いようのない雰囲気に包まれていた。
歩きながら食べていたサンドウィッチの最後の一欠片を頬張り、ヲタはだるまを見た。両手に食べかけのおにぎりを持っているだるまは、それを咀嚼しながら無言で頷いた。
坂を登り始めたのはだるまだった。
いよいよだと思う気持ちからか、歩くたびに胸の鼓動が高まった。硬いアスファルトを踏んでいるはずの足底の感触がおぼつかない。なにか柔らかいものの上を歩いているような気がする。微かに震えもあった。決心してやってきたのに、体がまだそんな反応を見せていることにヲタは苛立った。
――落ち着け。落ち着け。まだ朝日と顔を合わせたわけじゃねえんだぞ。
いまからこんな状態では先が思いやられる――ヲタの冷静な部分が自らの小心さにあきれた。
その異変に最初に気づいたのはだるまだった。
突然、歩くのをやめただるまは、ヲタの体を腕で止めた。
「なんなんだよ……」
「シッ」
だるまは言うと同時にヲタの腕をつかみ、道の右側にある廃材が不法投棄されている草むらへと導いた。そして腰の高さまで生えている雑草の中で身をかがめた。
「だれかおるっ」だるまは小声で言った。
「……アリ女か?」
ヲタは怖怖と顔を上げ、校門へ向かう道の向こうを見ようとした。途端にだるまの手に頭を押さえつけられた。
「アホか。見つかったらどうするんや。声だけにしとけや」
耳をすましてみると、鳥の羽音や鳴き声に混じって、人間の話し声が聞こえるような気がする。しかしこれだけではアリ女の連中とは言い切れない。
「声はするけどあいつらかどうかはわかんねえだろ」
「こんな日のこの時間に校舎の外にアリ女以外のだれがいるんや」
「そりゃあそうかもしれねえけど……どうする?」
「やつらが中に入るのをここで待っとくか…」
そのほうがいい、とヲタは無言で頷いた。
「けど、じっとしとるのは性に合わへんな…」
言いながら、だるまは匍匐前進のように身をかがめて草むらの中を移動し始めた。
「――ったく……」ヲタは舌打ちをしてだるまに続いた。
不法投棄場所と化している草むらには、大型の冷蔵庫やブラウン管型のテレビ、電子レンジなどが散乱している。いちばん大きなものはすべてのタイヤがパンクしている80年台の乗用車だった。二人はそれらの死角で身を隠しながら、できるだけ静かに進んだ。草むらを移動するときの音は鳥たちの騒々しい鳴き声がかき消してくれたため、校門へ近づくのは思っていたよりも容易だった。
やがて、ヲタには見えてきた。
草むらの向こうにいる、アリ女の制服を着た十数の女たち――。
まだ、だれがいるのかは判別できないが、その制服のデザインはヲタの恐怖を呼び起こした。腰から下の感覚が遠くなり、脇の下に自分でもわかるくらいの汗が染みてきた。口の中は一瞬でからからになった。
アリ女のいる場所まであと五メートルほどまで近づいたとき、うっすらと会話が聞こえてきた。
「まいぷる。そろそろいいよ」知らない女の声だ。ちょっと甲高い。「休ませないと、まいぷるが壊れちゃう」
「まいぷるさん」朝日奈央の声だ。「もう終わりにしていいんですって」
なにが起きたのか知りたくて、ヲタは反射的に顔をあげようとしたが、すぐに思いとどまった。だるまも様子をうかがいたいらしく、そうしたところで見えるわけでもないのに頭を左右に動かしていた。
朝日はだれと、なんの話をしているのか……ヲタは顔を上げたい衝動を必死に堪えた。
次の瞬間、女たちにわずかなざわめきが起きた。
「まいぷるさんっ――」朝日が小さく叫んだ。
「危ないっ」だれかの声。
安堵の息がいくつもした。どうやら、まいぷるが倒れそうになり、だれかがすんでのところでそれを支えたようだ。
するとそれとほぼ同時に、空で異変が起きた。
滑空していた鳥たちの声が一斉に止んだのだ。
今の今まで聞こえていた、鳥たちの狂ったように泣き叫ぶ声が、一斉にぴたりと止むことなどあるだろうか。ヲタは反射的に顔を上げた。
馬路須加女学園上空を包囲するように旋回していた鳥たちの動きが乱れ始めていた。円を描きながら飛んでいた鳥たちが、てんでんばらばらに散っていく。それまで秩序を保っていたかのように見えた異種の鳥たちが、同じテリトリーにいることに突然気づき、カラスが鳩や雀を威嚇し出した。それはまるで――催眠術から解けたような……。
ヲタの頭に、唐突にある考えが浮かんだ。しかしヲタはそれをにわかには信じられなかった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。マンガや映画では見たことがあるが、現実には超能力などないのだ。
鳥を操れる人間などいるわけがない。
が――ヲタはとある一人の女の存在を思い出した。
馬路須加女学園ラッパッパ四天王、トリゴヤ――。
触れることで人の心を読み、トラウマを引き出し、精神を揺さぶる恐るべき女。
それだって、普通に考えればありえない存在のはずだ。しかしトリゴヤは実在し、その能力で四天王の地位に就いている。
《こちら》にそんな人間がいるのだとしたら、《あちら》にもそんな人間がいなくては《アンフェア》ではないか。まるで意味のない理屈だが、ヲタはそう考えると、なにかがしっくりといった。
この鳥たちは、《まいぷる》が操っているのではないか――現実の光景と先ほどの会話が、その仮説を裏付けている。
だるまはじっと、アリ女たちの動向を見つめている。ヲタは自分の仮説を説明すべきか迷った。しかし、声を上げたらアリ女に見つかるかもしれない。また、説明したところで事態が好転するわけでもない。ヲタはそう結論し、なにも言わずにいようと決めた。
それにしても自分たちはいつまでここに隠れていればいいのか。アリ女の連中がずっとここにいるわけはないが、かといってだるまと二人でこうしているのも耐えられそうにない。
どうするべきか思案しているとき、ヲタは天啓のように、とあることを思いついた。校舎の中にいるはずのバンジーに、いま状況を伝えるのだ。《まいぷる》が鳥を操っているかもしれないという情報は、なにかの役に立つかもしれない。
ヲタは緑のジャージの裾をめくって、スカートのポケットに手を入れた。そして携帯電話を取り出したとき、背後から聞き覚えのない女の声がした。
「ゴキブリ二匹、みーつけたっ」
【つづく】
ヲタと鬼塚だるまの目の前には、馬路須加女学園へ続く上り坂があった。ここを越えると道は緩やかな短い下り坂となり、学園の正門へと辿り着く。たった一週間ぶりだというのに、夏や冬の長期休暇を明けたときよりもヲタにはここがひどく懐かしい場所に思えた。
そして空には、数える気さえ失わせる数の鳥たちが旋回し、思い出したように馬路須加女学園校舎へ降下している。鳴き声が一面に響き渡り、学園の周囲は異様としか言いようのない雰囲気に包まれていた。
歩きながら食べていたサンドウィッチの最後の一欠片を頬張り、ヲタはだるまを見た。両手に食べかけのおにぎりを持っているだるまは、それを咀嚼しながら無言で頷いた。
坂を登り始めたのはだるまだった。
いよいよだと思う気持ちからか、歩くたびに胸の鼓動が高まった。硬いアスファルトを踏んでいるはずの足底の感触がおぼつかない。なにか柔らかいものの上を歩いているような気がする。微かに震えもあった。決心してやってきたのに、体がまだそんな反応を見せていることにヲタは苛立った。
――落ち着け。落ち着け。まだ朝日と顔を合わせたわけじゃねえんだぞ。
いまからこんな状態では先が思いやられる――ヲタの冷静な部分が自らの小心さにあきれた。
その異変に最初に気づいたのはだるまだった。
突然、歩くのをやめただるまは、ヲタの体を腕で止めた。
「なんなんだよ……」
「シッ」
だるまは言うと同時にヲタの腕をつかみ、道の右側にある廃材が不法投棄されている草むらへと導いた。そして腰の高さまで生えている雑草の中で身をかがめた。
「だれかおるっ」だるまは小声で言った。
「……アリ女か?」
ヲタは怖怖と顔を上げ、校門へ向かう道の向こうを見ようとした。途端にだるまの手に頭を押さえつけられた。
「アホか。見つかったらどうするんや。声だけにしとけや」
耳をすましてみると、鳥の羽音や鳴き声に混じって、人間の話し声が聞こえるような気がする。しかしこれだけではアリ女の連中とは言い切れない。
「声はするけどあいつらかどうかはわかんねえだろ」
「こんな日のこの時間に校舎の外にアリ女以外のだれがいるんや」
「そりゃあそうかもしれねえけど……どうする?」
「やつらが中に入るのをここで待っとくか…」
そのほうがいい、とヲタは無言で頷いた。
「けど、じっとしとるのは性に合わへんな…」
言いながら、だるまは匍匐前進のように身をかがめて草むらの中を移動し始めた。
「――ったく……」ヲタは舌打ちをしてだるまに続いた。
不法投棄場所と化している草むらには、大型の冷蔵庫やブラウン管型のテレビ、電子レンジなどが散乱している。いちばん大きなものはすべてのタイヤがパンクしている80年台の乗用車だった。二人はそれらの死角で身を隠しながら、できるだけ静かに進んだ。草むらを移動するときの音は鳥たちの騒々しい鳴き声がかき消してくれたため、校門へ近づくのは思っていたよりも容易だった。
やがて、ヲタには見えてきた。
草むらの向こうにいる、アリ女の制服を着た十数の女たち――。
まだ、だれがいるのかは判別できないが、その制服のデザインはヲタの恐怖を呼び起こした。腰から下の感覚が遠くなり、脇の下に自分でもわかるくらいの汗が染みてきた。口の中は一瞬でからからになった。
アリ女のいる場所まであと五メートルほどまで近づいたとき、うっすらと会話が聞こえてきた。
「まいぷる。そろそろいいよ」知らない女の声だ。ちょっと甲高い。「休ませないと、まいぷるが壊れちゃう」
「まいぷるさん」朝日奈央の声だ。「もう終わりにしていいんですって」
なにが起きたのか知りたくて、ヲタは反射的に顔をあげようとしたが、すぐに思いとどまった。だるまも様子をうかがいたいらしく、そうしたところで見えるわけでもないのに頭を左右に動かしていた。
朝日はだれと、なんの話をしているのか……ヲタは顔を上げたい衝動を必死に堪えた。
次の瞬間、女たちにわずかなざわめきが起きた。
「まいぷるさんっ――」朝日が小さく叫んだ。
「危ないっ」だれかの声。
安堵の息がいくつもした。どうやら、まいぷるが倒れそうになり、だれかがすんでのところでそれを支えたようだ。
するとそれとほぼ同時に、空で異変が起きた。
滑空していた鳥たちの声が一斉に止んだのだ。
今の今まで聞こえていた、鳥たちの狂ったように泣き叫ぶ声が、一斉にぴたりと止むことなどあるだろうか。ヲタは反射的に顔を上げた。
馬路須加女学園上空を包囲するように旋回していた鳥たちの動きが乱れ始めていた。円を描きながら飛んでいた鳥たちが、てんでんばらばらに散っていく。それまで秩序を保っていたかのように見えた異種の鳥たちが、同じテリトリーにいることに突然気づき、カラスが鳩や雀を威嚇し出した。それはまるで――催眠術から解けたような……。
ヲタの頭に、唐突にある考えが浮かんだ。しかしヲタはそれをにわかには信じられなかった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。マンガや映画では見たことがあるが、現実には超能力などないのだ。
鳥を操れる人間などいるわけがない。
が――ヲタはとある一人の女の存在を思い出した。
馬路須加女学園ラッパッパ四天王、トリゴヤ――。
触れることで人の心を読み、トラウマを引き出し、精神を揺さぶる恐るべき女。
それだって、普通に考えればありえない存在のはずだ。しかしトリゴヤは実在し、その能力で四天王の地位に就いている。
《こちら》にそんな人間がいるのだとしたら、《あちら》にもそんな人間がいなくては《アンフェア》ではないか。まるで意味のない理屈だが、ヲタはそう考えると、なにかがしっくりといった。
この鳥たちは、《まいぷる》が操っているのではないか――現実の光景と先ほどの会話が、その仮説を裏付けている。
だるまはじっと、アリ女たちの動向を見つめている。ヲタは自分の仮説を説明すべきか迷った。しかし、声を上げたらアリ女に見つかるかもしれない。また、説明したところで事態が好転するわけでもない。ヲタはそう結論し、なにも言わずにいようと決めた。
それにしても自分たちはいつまでここに隠れていればいいのか。アリ女の連中がずっとここにいるわけはないが、かといってだるまと二人でこうしているのも耐えられそうにない。
どうするべきか思案しているとき、ヲタは天啓のように、とあることを思いついた。校舎の中にいるはずのバンジーに、いま状況を伝えるのだ。《まいぷる》が鳥を操っているかもしれないという情報は、なにかの役に立つかもしれない。
ヲタは緑のジャージの裾をめくって、スカートのポケットに手を入れた。そして携帯電話を取り出したとき、背後から聞き覚えのない女の声がした。
「ゴキブリ二匹、みーつけたっ」
【つづく】