■決心1-4■
「思いしらせてみてくださいよ、ユビハラさん」プリクラはヲタに向かって歩いてきた。
ヲタも歩き出した。びしょぬれになった上履きの中に溜まった水がぐちょぐちょと音を立てた。
蹴りが届く間合いまで近づいたとき、ヲタは先制攻撃をした。濡れたジャージのボトムは太ももにぴったりと吸い付き、黒とピンクの縞柄の靴下は水を吸って重くなり、脚を動かしにくかったが、ヲタは右脚を腰の位置まで上げ、回転蹴りを放った。
ジャージと靴下に含まれていた水が遠心力によって飛び散る。
プリクラは胸を反らして蹴りをかわし、その直後に間合いをつめてきた。
懐に潜りこまれるかと思い、ヲタは焦った。が、左脚を軸に回転している体は止められない。
体がプリクラと正対する位置に戻ると、そのときにはすでにパンチが顔面に迫っていた。
まだ片足立ちをしていたため、体は不安定だった。つまり避けることはできない。
反射的に、両手をクロスさせて顔を防御する。
プリクラのパンチが右の尺骨に命中し、激痛がヲタを襲った。
――クソッ……。
ヲタは呻いて、一歩後退する。
けれども、まだだ。たかが一発浴びただけ。
「効いたかな、いまの?」
プリクラは拳を手首でぶらぶらと動かしてみせた。
残念ながら効いている。尺骨がじんじんと熱く痛む。悔しいけれど、効果的な重いパンチだった。
プリクラが次の一撃に選んだのは左フックだった。
顔の右側から、弧を描いて襲いかかるそれを、ヲタは見切って避けた。
すかさず反撃に移る。
左フックをかわした次の瞬間、ヲタは抱えられるくらいまで右膝を曲げると、踵に渾身の力を込め、プリクラの腹に向けて蹴りを放った。
プリクラのお腹のぶよっとしたやわらかい感触が、銀色のブーツを通じて伝わってきた。どうして女の体はこうも柔らかいものなのだろうか。ケンカをするたびに、ヲタは思う。
ヲタにまともに蹴りを入れられたプリクラはよろけ、お尻から床に倒れた。溜まっている水が飛び散った。
「よっしゃっ」バンジーの声が聞こえた。
「あや様っ」純情堕天使のメンバーが声を上げた。
「――大丈夫……」みんなが駆け寄ろうとするのを、プリクラは制した。「こうでなくちゃ面白くないですから」
相手にダメージを与えた久しぶりの感触に、ヲタは興奮した。そう、これこそケンカの醍醐味だ。
ヲタは駆けた。
次にするべきは、倒れているプリクラの上に乗り、マウントポジションからパンチを入れることだ。
プリクラはそれを察したのか、機敏な動作で立ち上がろうとしている。
そうはさせじと、ヲタはプリクラの腰めがけてローキックを打った。
だが、プリクラは背中を丸めて後ろ向きに回転し、ヲタの攻撃を避けた。びしょ濡れのミニのプリーツスカートが重そうにその体の動きにしたがい、めくれあがって黒い下着があらわになった。
プリクラはその勢いを利用して立ち上がった。あざやかで、軽い身のこなしだった。
「あーぁぁ……」すばやく立ち上がったプリクラのセーラー服の裾から、行きどころをなくした水が滴っている。めくれたミニスカートのプリーツを直しながら、プリクラは言った。「こんなにずぶぬれになっちゃっいましたよ。明日も学校あるのに、どうしてくれるんですか、ユビハラさん?」
「ジャージで来いよ、おれらみたいに」
「そんなダサイの着てられないですよ」
プリクラが突進してきた。
ヲタは動かず、プリクラが射程圏内に入るのを待った。
プリクラは今度は腕ではなく、脚を使ってきた。腰の高さで、左のミドルキックが襲ってくる。直撃すれば肝臓にダメージを食らい、そのままダウンすることもありえる危険な技だ。
だが、ミドルキックにも弱点はある。掴みやすいことだ。回し蹴りという性質上、発生から的中まで時間がかかる。冷静に判断すれば対応できる。
そしてこのとき、ヲタは冷静だった。
プリクラの動きは、まるでスローモーションのように見えた。それだけ精神が研ぎ澄まされていたのだろう。ヲタは易々とプリクラの左脚を捕らえ、そのまま外側にねじった。
バランスを失ったプリクラを、ヲタはあっというまに床に転がせた。顔面から落ちたプリクラは、派手な水しぶきとともに短く叫んだ。
顔を上げたプリクラの濡れた髪が、セーラー服の襟に滴っていた。紺の生地が濡れ光るさまに、ヲタは不思議なエロスを感じた。プリクラの目つきは鋭く、女のヲタでもドキッとするような妖艶な光を宿している。先ほどまでの余裕は、痕跡すらなくなっていた。
本気になったようだ。
本気上等だ。こちとら、最初から本気だぜ。ヲタはあえて、倒れたプリクラを待った。
雨の中で、プリクラはヲタが攻撃しないことを確信しているかのように、ゆっくりと立ち上がった。「ちょっと痛かったですよ、ユビハラさん」
ヲタはみずから間合いを詰めた。プリクラの本気に応えたかった。
仕切りなおしをしてから、先に手を出したのはプリクラだった。ヲタの顔面を真正面から貫くようなパンチだ。
直線的なその動きには無駄がない。しかし、前田敦子ほどのスピードもなかった。あれに比べれば、たやすく避けられる。ヲタは体を沈めるようにしてパンチを交わし、アッパー気味の右フックをプリクラの左腰に放った。
外腹斜筋を狙ったつもりだったが、それはプリクラの肋骨に当たってしまい、ヲタの中手骨にも少なからずダメージを与えた。雨をたっぷり含んだセーラー服から、べしゃっという音を立てて水が弾けた。
「クソッ……」ヲタは悟られないようにプリクラから離れた。
「フックも正確に当てられないんですか?」
悔しいが、バカにされても仕方ない。
今度は蹴りだ。
ヲタは反動をつけるため、右脚を後ろに下げた。
プリクラが体の左側をかばうように斜めの体制をとった。
ならばと、ヲタはステップを刻むように右と左の脚の前後を入れ替えた。
その瞬間、プリクラが突っ込んできた。
あっという間にヲタはプリクラに抱え込まれた。二人の服に染み込んでいた水が跳ね、ヲタの視界を奪った。
ヲタの背中に手を回したプリクラは、数年ぶりにあった恋人のように激しくヲタを抱きしめ、締め上げた。両手も拘束され、決してふくよかとは言いがたい胸が潰されそうに苦しかった。
「ヲタッ」遠くでバンジーの声が聞こえた。
だが、ヲタにできたのは呻くことだけだった。
「悔しいですよねぇ。仲間の前で負けるなんて……」プリクラが耳元で囁いた。「でも、弱いんだから仕方ないか」
ヲタは冷静になろうとつとめた。内臓が圧迫され、息苦しい。おまけに雨が顔にかかり、流れた水が鼻の穴や口の中に入ってきて、呼吸もままならない。それでもヲタは必死にパニックと闘った。
両手は使えない。動かせるのは手首だけだが、いまは痺れはじめている。プリクラの体の一部をつねったり爪を立てたりするという方法もあるが、つかめるのはセーラー服だけだ。
脚はどうか。プリクラのつま先を踏むくらいのことはできるだろう。しかし、プリクラはヲタの体に覆いかぶさるようにして、重心を支配している。無理にそうしようとすれば、共倒れになる。その場合、下敷きになるのはヲタのほう
で、頭を打って脳震盪でも起こしたらもう終わりだ。プリクラなら倒れる瞬間にヲタの頭をつかみ、そうするだろう。
身動きがとれない今、こうなったらプリクラのバッテリーが切れるのを待つしかない。全力でヲタの体を絞めあげているのだから、いつかは力尽きる。もっとも、それまでヲタの体力が持つかどうかは怪しいが。
二の腕の感覚がなくなってきた。もうじき、痺れも痛みも感じなくなるのだろうか。
息もしにくい。苦しい。雨が顔に当たり、口の中にも入ってくるため、ヲタは何度も雨水を飲み込んだ。そのたび喉がずきっと痛み、呼吸を困難にしていく。鼻で息を吸おうとしても、上を向いているので雨が注ぎ込んでくる。プールの授業で、水が鼻に入ってきたときと同じ痛みを感じる。
「もう終わりですか? あっけないですねぇ。友情ごっこじゃないって教えてくれるんじゃないですか?」
プリクラの声は震えていた。そろそろ力の限界なのか……。
これはチキンレースみたいなものだ。先にあきらめたほうが負ける。
けれども、ヲタは心に決めていた。
ギブアップはしない。
チームホルモンのため、その単語だけは絶対に口にしてはいけない。
「ヲタッ……」バンジーの声。屋上ではない、どこかから叫んでいるように、それは遠くからのものに聞こえた。「もういい、やめろっ。見てられねえっ」
「そうだっ、ヲタッ」これはアキチャだ。「おまえの気持ちはわかった。うちらはもういいっ。自分のことだけ考えろっ」
「プリクラッ」ウナギが叫んだ。「もうやめろっ。おまえの勝ちだっ」
ムクチはどんな表情でいるのだろうか。ヲタは気になったが、チームホルモンの仲間たちは背後にいるため、見るこ
とはできなかった。
勝手なことを言いやがって……。薄れゆく意識の中で、ヲタは思った。とはいっても、怒っているわけではない。みんなが自分を心配してくれていることはわかっている。むしろ嬉しい。
自分のことだけ考えろとかギブアップしろとか、それができるくらいなら、そもそもプリクラとのタイマンなど張りはしない。そんな根性なしではないことを証明するために、おれは今、ここで闘っている。そしてプリクラもそれに応えてくれている。全力を出し切って、もう一歩も動けなくなるまでやりあうのが、プリクラに対する礼儀だ。
プリクラが、憎いか憎くないかと問われれば、憎い。しかし、今、自分を締め上げているプリクラには、愛おしささえ感じる。これは真剣にタイマンを張っている者同士がその瞬間にしか共有できない、至福のときなのだ。
だから仲間の言葉であっても、忠告に耳を貸す気はなかった。
とはいえ、そろそろ限界は近づいている。
腕の感覚がなくなっていた。痛みと痺れが限界点に到達し、脳がこれ以上の感覚の伝達をストップしたのかと思えるほどだった。
プリクラも同様にキツいようだった。絞めつける両手の力もやや衰えてきた。
ヲタは自分に言いきかせた。あと少し。あと少しで、この拘束は解ける。
プリクラの息が荒くなってきた。
そして何時間にも感じられるような数分間ののち、根負けしたのはプリクラだった。
ヲタを締め上げているプリクラの腕から、ふっと力が抜けた。
これまでの人生で最高の開放感を味わいつつ、ヲタはプリクラから離れた。腕はもちろん、脚にも力は入らず、よろよろと後ずさりして、ヲタは床の上にびしゃっと音を立てて倒れるように座り込んだ。ギブアップこそしなかったものの、もはや闘う力は残っていない。
「ヲタ……ッ」かけよろうとするチームホルモンのメンバーに、ヲタは笑顔を作って制した。
プリクラは、かろうじて立っている。息を肩でしながら、だが。
「停学処分が解けて、クラスに戻ってきたときのこと、あなたに理解できる……?」プリクラが言った。「みんなにどんな目で見られるかわからなくて、それでも私の居場所はここにあるって覚悟して来たときのこと……」
馬路須加女学園での「停学」は、実質上の退学を意味する。停学処分を受けた者は九十九パーセント戻ってこないからだ。暴力にさえ寛容で、どんな生徒でも見捨てないことを是とする校風がある上での停学処分である。それだけにこの処分は重い。当然、それを受けた者に対する風当たりも強くなる。だから停学処分を受けた者はそのまま退学してしまうことが多いのだ。
プリクラが停学になった理由は「馬路須加女学園の生徒としての自覚に欠けた軽率な行動を取った」からということ以外、詳しいことはわからない。男絡みとのウワサも聞いたが、真偽は不明だ。しかし、彼女が戻ってきたとき、周囲の生徒がどんな態度をとったかは容易に想像できる。
「あのままドロップアウトをすることも考えましたよ」プリクラが近づいてきた。「どのツラ下げてもどるんだよとも思ったし……。でも、2年をシメてるのは自分たち純情堕天使だって自覚もありましたから戻るべきだって思ったんです」プリクラはヲタのかたわらにヤンキー座りをした。「ナツミ、サキコ、トモミ、マユミ、ハルカ……みんな、私のことを待っていてくれました。嬉しかったですよ。仲間っていいものです。でも、嬉しくないことがありました。ユビハラさん、あんたですよ」
プリクラは、ヲタがいつも首からさげているホイッスルを引っ張り、引きちぎった。そしてヲタの髪の毛をつかみ、顔を上に向けさせた。毛根が痛い。雨が目に入ってくる。
「いつのまにかラッパッパの承認まで受けて、2年のトップに立っていた……。こんなふうに、ちょっと締めたらぶっ倒れるくらい弱いくせに、どさくさまぎれにのしあがって……。そのときの気分はどうでした? 実力もないのに責任しょってプレッシャーでしたか? 遊びに行ってもバンジーは飛べない。体力測定でも学年最下位。懸垂、たったの7秒だったそうじゃないですか。ユビハラさんって、なんだったら満足にできるんですか? なにもできないあなたが、なぜここにいるんですか?」
プリクラの言葉は、ヲタには堪えた。言われた通りだ。自分はケンカも強くはない。体力もない。根性もない。あれもない。これもない。なにもない。
でも。でも。
でも……。
――おれには、仲間がいる。
それほどまでになにもない自分とともにいてくれる仲間がいる。
ヲタは渾身の力をふりしぼって、両手を挙げ、プリクラの手首を掴んだ。指先はまだ痺れていて、うまく動かせない。それでもヲタは爪を立て、プリクラの手のひらにダメージを与えた。
プリクラがびくっとしたように手を放した隙に、ヲタは立ち上がろうとした。まだまだ終わっちゃいねえ。なぜならおれは、ギブアップしてねえ……。
プリクラの右脚が顔面に命中した。
黒光りするブーツの踵が鼻の頭に当たり、ヲタは水溜りだらけの床の上を転がった。
ゲキカラのときに鉛筆を刺された箇所は、まだ完治していない。鼻の穴の奥がお湯を注ぎ込まれたみたいに熱くなった。手で触ると雨とはちがう、粘っこい感触があった。痺れるような痛みもある。
下を向くと、雨の溜まった床に、赤い液体が落ちていくのが見えた。
プリクラはまだ攻撃をやめなかった。ヲタ髪の毛をつかんで引き上げ、床に叩きつける。今度は額をしたたかに打ち、ヲタは軽い眩暈をおぼえた。
「てめぇっ」アキチャの声。「もう終わりだ。勝負はついたっ」
プリクラの足元だけが見えた。そこに、ジャージを履いた脚が、合計六本、近寄ってきた。
さらに、それを制するためか、ハイソックスの脚もぱらぱらとやってきて、間近で押し問答が始まった。
「――ついて……ねぇよ……」ヲタは地べたを這いずり、搾り出すように言った。「まだまだ闘えるぜ。ギブしてねぇし……」
「ヲタっ」アキチャが膝をつき、ヲタを覗き込んできた。「もうわかった。わかったから……」
「まだまだ……やるぜ……」上半身を持ち上げ、アキチャの肩を支えに立ち上がろうとした。
「ほら。まだ本人はやる気じゃないですか」プリクラの声。「それに、私もまだまだやりたいし」
「やらせるかよっ」ウナギはプリクラのセーラー服のスカーフをつかんでいた。「だれが見たって勝敗ついただろうがぁっ」
そのウナギをサキコとナツミが引き剥がそうとし、トモミとハルカがアキチャを牽制している。ムクチは身長差のあるマユミとメンチの切りあいの真っ最中だった。
「やめろ、てめぇらっ」そのとき、バンジーがひと際大きな声で、全員の動きを止めた。バンジーだけは群れに加わらず、最初の位置から動いていなかった。「これはタイマン勝負だろう。ギャラリーが手ぇ出すんじゃねぇっ」
「バンジー……」アキチャが漏らした。
「どっちかが完全にぶっ倒れるまでやらなきゃ、こいつら納得しねぇよ」
バンジーの制止が効いたのか、チームホルモンも純情堕天使も動きを止めた。
プリクラの顔にも、驚きの色が浮かんでいた。
「ありがとよ、バンジー……」ヲタは立ち上がれたが、手はアキチャの肩に置いたままだった。そんなつもりはないのに、手首から先が震え、止まらない。それでもヲタは、プレクラを見た。「まだ……立てるぜ……」
ヲタは歩きだした。
腕も手首も額も痛いが、なにより鼻が痛む。奥のほうで血の匂いがする。垂れた液体が唇を伝って口の中にも入ってくる。鉄の味がする。
それでも歩かなくてはいけない。戦わなくてはいけない。自分を突き動かしているのがなんなのかわからず、それでもヲタは本能のように歩いた。
「おめえ、さっき言ったよな……。私の気持ちが理解できるかって……。バカか、おめえは。できるわけねぇだろ。おめえに限らず、人の気持ちなんて理解できねぇよ。だれだってたったひとつの人生を生きていて、その中には自分だけが知っている秘密がたくさんある。そういったもんが複雑に混ざりあって、たとえば菊地あやかって人間を作ってるんだ。そいつを理解するにはすべてを洗いざらいにしなくちゃいけねぇ。ンなことできるわけねぇだろうが」
ヲタはそう言いながらも、自分がプリクラを好きだということに気づいていた。
「だけど、それでも理解したいと思って信じあうのがダチで……おれにもおめえにも、そんないいダチがいるだろう? なのにぐだぐだ言いやがって……。じゃあ、聞くが、おめえにおれの気持ちがわかるかよ? おまえがいなくなって、2年を仕切らなきゃいけなくなったおれの気持ちが」
プリクラの目の前まで来た。なにもされる気配はなかった。
ヲタは震える脚で体を支え、右拳をプリクラに叩きつけた……つもりだった。ところが拳にはまったく力がこもっておらず、それはゆっくりと空中を浮遊すると目標である顔面を離れた、セーラー服の襟元に当たっただけだった。友だち同士がふざけあってする挨拶程度の力しかなかった。
「泣き言を言うわけじゃねぇが、2年のトップに立つのも楽じゃなかった。いろいろしょいこんで、身動きがとれなくて、思わぬ相手にケンカを売られて負けて……。そしていま、こうしてタイマンを張らなくちゃいけねぇところまで追いつめられてる。でも、おれはそれを怨み言にはしない。自分で解決するべき問題だからだ。おめえが停学になった理由は知らねぇ。知りたくもねぇ……。だけどそれは、おまえに一生付きまとう事実だ。受け入れろよ。自分の怒りを正当化してどうする? おめえが、今回の停学で受けた傷――あくまで受けたんだったら、の話しだが――それを治せるのはおめえだけ、だ……」
限界だった。もう立っていられない。プリクラに殴られ、蹴られたあちこちの箇所が悲鳴を上げている。
ヲタはプリクラにもたれかかった。プリクラはヲタを受け止め、さっきの弱々しいパンチのお返しとばかりに、ヲタの腹部に拳を叩き込んできた。
それは今までのものに比べると威力は小さかったが、ヲタの内臓を圧迫し、戦闘能力を奪うくらいの効果はあった。
喉の奥からなにかが逆流し、ヲタは吐いた。血も混じっていた。
よろめくと、転落防止用の金網に背中が当たった。ヲタはそれに身を預け、ずるずると沈んでいった。
雨はまだやむ気配すらない。見上げると、水滴がシャワーのように降り注いでいる。ずぶぬれのジャージと靴下とブーツがより一層、重くなったように感じた。もう動きたくなかった。
「私の勝ちでいいですね?」プリクラが見下ろしたまま、訊ねた。
チームホルモンと純情堕天使のメンバーが、壁にもたれて座っているヲタと取り囲んでいた。みんなが全身から水を滴らせ、ヲタの返答を待っていた。
ヲタは小さく頷いた。
「ヲタ……」座り込み、ヲタの顔を覗き込んだバンジーは、涙を堪えているように思えた。だが、それはもはや限界らしく、真っ赤になった瞳からあふれかえった。
「うちらのために……」ウナギが包み込むように、ヲタを抱擁した。
「ありがと、な……」アキチャはヲタの手を握り締めてきた。
ムクチはヲタの二の腕を抱きしめ、しきりに頷いていた。
負けてもこんなふうに慕ってくれるなんて……いい仲間を持ったな。ヲタは自分の幸せを噛みしめた。
そして、このいい仲間とも、今日、このときでお別れだ。
「バンジー、ウナギ、アキチャ、ムクチ……」ヲタは声を絞り出した。いまはしゃべることでさえ辛かったが、最後に言わなくてはいけないことがある。「約束どおり、チームホルモンはたったいま、解散だ。そして、おまえたちはこれから純情堕天使のメンバーになる」
バンジーは目を閉じていた。
「いやだっ。いやだいやだいやだっ」ウナギは激しく首を横に振った。
「プリクラの命令なんて聞きたくねえっ」アキチャも抵抗した。
ムクチは大きな潤んだ瞳で、じっとヲタを見つめた。
「約束なんだ」ヲタは言った。
バンジーが立ち上がった。そしてウナギとアキチャの襟元をつかみ、引き上げた。
二人は驚いた表情でバンジーを見た。
バンジーは歩く体勢の整っていない二人を引きずるようにして、プリクラの元へ向かった。そして二人の体をプリクラに投げつけた。二人はプリクラにぶつかり、床に倒れた。
「バンジー、なにしやがるっ」ウナギが叫んだ。
アキチャはバンジーを見上げ、にらみつけた。
そんな二人などおかまいなしといった感じで、バンジーは再びヲタの近くにやってくると、今度はムクチを剥がしにかかった。
ムクチは抵抗した。いつものようになにも言わなかったが、ヲタの二の腕をつかんでいる力はこれまで感じたことのないくらい強かった。そこはちょうど、プリクラに締め上げられた箇所だったので、ヲタは激痛に顔をしかめた。
「痛てぇっ……」
ヲタが呻くと、ムクチはハッとしたように手を離した。その瞬間、ムクチはバンジーに剥がされた。
ムクチをプリクラの元に届けると、バンジーは戻ってきて、ヲタのかたわらに座り込んだ。
「じゃあな」
「よろしく頼むぜ……」ヲタはバンジーの目を見た。「いつか……テッペン、獲れよ」
「おまえのいないテッペンなんて、獲っても意味ねぇよ」
バンジーはそう言い残し、去った。
純情堕天使のメンバーが屋上からいなくなったあとも、ヲタはしばらく雨を浴びていた。
そして、泣いた。
これまでの短い人生の中で、こんなに激しく泣いたことはなかった。
【つづく】