■強襲1-1■
胸元の十字架に触れると、それはひんやりと冷たくなっていた。寒空の下――しかも、暗闇の中で標的を待っているため、ブラックの体は芯から冷えている。
そのネックレスは、以前、前田四天王やらと戦ったときに壊されてしまった。のちにトリゴヤに修理をしてもらったが、あの闘いは失態以外のなにものでもなかった。相手は四人。一人一人は雑魚ばかりでも、群れとなったら恐ろしいことを思い知らされた。
敗戦を知ったサドは、ブラックを激しく叱咤した。前田を襲えという命令を忘れ、雑魚を相手に「狩り」の愉しみを優先させてしまったのだから、それは当然の罰だった。そのときに入れられた蹴りの傷跡は、まだ腹に残っている。サドのピンヒールのショートブーツの踵は凶器そのもので、ブラックはナイフで刺されたのかと錯覚したくらいだった。激痛などというものではない。サドの全体重が、あのわずかな面積のヒールに乗せられたのだから、当たりどころが悪ければ重症ではすまないかもしれなかった。それを躊躇なくやれてしまうサドの恐ろしさに、ブラックは心底震えた。
ターゲットは、そろそろこの道を通りかかるころだった。国道下の歩行者用トンネルの蛍光灯は、すべて壊しておいた。たかが十数メートルの長さしかないが、この暗闇は薄気味悪い。朝から降り続いている雨の音も加わり、より不気味さを演出している。これから襲われることになるターゲットは、ブラックの顔もわからないまま地に伏すことになるだろう。しかしブラックにとって、この漆黒はどこよりも落ち着ける空間だった。
十字架を、そっと唇に触れさせる。
戦いの前に必ずするその祈りは、亡き娘へ捧げる儀式だ。
父となったあの教師を、今ではもう恨んではいない。というより、どうでもいい。あの男がこれから先、なにをしようが興味はない。しいて言えば、さっさとこの世からいなくなってほしいが。
そんなつまらない男を愛したつもりになっていたあのころの自分を、ブラックはバカだと思う。周囲が反対すればするほど燃え、それこそが愛の証なのだと錯覚していた、柏木由紀という15歳の少女。彼女にとっては愛でも、あの教師にとっては性欲処理でしかなかった。女子中学生に生で中出しできることに幸福を感じていたロリコン野郎を愛していた自分……。バカだった。本当にバカだった。
あの男の何がよかったのか。顔。スタイル。明るい態度。笑顔。スーツの着こなし。他のみんなには内緒だよ、と言ってそっと飲ませてくれたワイン。ドライブ。すべて、装えるものばかりだ。
女子中学生に、人を見る目など備わっていない。人生のスキルが圧倒的に足らないのだから、所詮、見てくれでしか人を判断できない。わかったつもりになっているだけ。ブラックはそのことを嫌というほど痛感している。
しかし娘に罪はない。錯覚であっても「愛」を交わした結果授かった命を、ブラックはいとおしんだ。
出産は高校に入学した年の六月だった。ブラックは堕胎できないぎりぎりの時期まで妊娠を隠した。知られれば産めないことはわかっていた。大人たちは拘束してでもブラックを産婦人科に連れていっただろう。大人たちが知ったときには、もう堕胎の選択肢はとりえなかった。
華奢な体での出産は苦しかったが、産まれてくれた命は触れただけで壊れてしまいそうで、抱きかかえたときには苦労など消えていた。
男の妻は入院しているブラックの元へやってきてビンタを食らわせ、ありとあらゆる罵倒の言葉を吐き出した。「淫乱」や「売女」という言葉は、そのとき初めて知った。どうやら自分が男を誘惑したことになっているらしかった。その後、男は教職を追われ、どこかの知らない町へ家族ともども引っ越していった。
早産だったこともあり、健康体とはいえない体だったことが災いしたのか、娘は産まれてから半年も生きられなかった。娘はほとんどの時間を病院で過ごした。母乳をあげたこともあまりなく、母親らしいことはなにひとつできなかった。
娘が亡くなったあと、ブラックも地元にはいられなくなった。大人たちは、「問題のある」生徒を引き受けてくれるという馬路須加学園への転入手続きを勝手に済ませていた。ブラックは抵抗したが、大人の作ったシステムに子供が太刀打ちできるわけもなく、彼女は馬路須加学園へとやってきた。
荒れた学園でナメられずに生き残っていくためにはケンカで勝つ以外なかった。持ち前の動体視力の良さとスピードを生かした戦法で連戦連勝だったブラックの名は、たちどころに学園に響き渡った。そして同時に、ブラックの過去も学園内に知られることとなった。自分から話したことはないが、そういう「噂」はどこからか漏れるものだ。
ある日、ラッパッパから呼び出しを受けたブラックは、部室の奥のタイマン部屋でシブヤと戦うことを強要させられた。シブヤはこれまで戦ってきた相手よりもかなり強かったが、ブラックは善戦した。最後の一発になるであろうというパンチを打ち込む瞬間、大島優子が割って入った。
「おめぇ。強ぇえな」大島優子は笑った。「テッペンからの景色、見てみたくねぇか?」
はっきり言って、そんな景色はどうでもよかったが、ブラックは大島優子の誘いに乗った。マジ女の最強軍団ラッパッパに入れば、ナメられることはない。ブラックが四天王の一員に名を連ねると、「噂」を囁く者はいなくなっていた。
大島優子と過ごす日々は、ブラックの荒れた心を幾分かほぐしていった。人の上に立つだけあって、大島優子のカリスマ性は強かった。笑うとこぼれる八重歯は、普段の強面からは想像できないかわいらしさがあった。
大島優子に抱かれたのは、ラッパッパに入ってからすぐだった。男しか知らないブラックに、大島優子は女でしか味わえない快楽を教えた。
娘の命日に、大島優子とサドは墓参りに来てくれた。過去のことはすべて、二人には話していた。この二人には、捻じ曲げられた事実が伝わってほしくなかったからだ。
二人は手を合わせて涙した。「不倫の子」と言われた娘に、このような態度をとった者はこれまでいなかった。ブラックはこの二人についていく決意を固めた。
大島優子とサドの命令は、ブラックにとって至上だった。ラッパッパに歯向かう者は片っ端から潰した。闇夜に乗じて襲う戦い方は、ブラックの生き方にも通ずるものがあり、その快楽にブラックは酔った。
戦いの前には、娘が触れたことのある十字架のネックレスに祈る。口づけをして、勝利を祈願する。神に、ではなく、天国にいるはずの娘に祈る。
今日のターゲットの名は、谷澤恵里香。ネズミの資料には顔写真もあったので、暗闇の中でも見間違えることはない。そろそろこの通学路に使っているはずのトンネルを通る時間だ。ブラックは赤いレザーのカバーに包まれた詩集を取り出した。
【つづく】