■図書室の少女―1■
ネズミは馬路須加女学園校舎三階の図書室に向かっていた。
名目だけは図書委員が存在するものの、いつも受付は無人だ。それゆえ、タイマン部屋として使われることもあり、ここはほとんどの生徒が近づかない場所だった。この学園内で常日頃から勉学に励むものなど両手で数えても余るほどであり、図書室は過疎化している。
昼休みの図書室は、明るい陽光が窓から差し込み、とても暖かかった。
たいした数の蔵書ではないが、一通りの文学全集や辞典が並んでいる棚のあいだを通り、ネズミは図書室の中央スペースに出た。そこには読書や調べものをするための机が並べられている。試験の前には落第を免れるためだけの、最低限の勉強をする生徒たちで席が埋まることもなくはないが、何事もない日にはだれも座ることのない椅子がさびしそうに佇んでいるだけだった。
だが今は、一人の少女がいた。
背筋を伸ばし、姿勢良く椅子に座ったその少女は、机の上に置いた文庫本に視線を落としていた。ネズミが入ってきたことに気づいているのかいないのか、微動だにしない。少女が昼休みにはいつもこの席で本を読んでいることは、すでに調査済みだった。
喧騒に満ちた学園内で、静寂に包まれている唯一のこの場所にいるのは、ネズミと少女の二人だけ。
パーカーをかぶったまま、ネズミは少女の前の椅子に座った。
しかし少女は顔を上げず、本に視線を這わせたままでいる。
ネズミがガムを噛む、くちゃくちゃという音だけが響いた。
ネズミは少女を「観察」した。セミロングの美しい髪は、陽光に照らされ輝いている。まっすぐな眉毛は意思の強さを示している。小さめの瞳は魅惑的で、文字を追っている動きさえ力強い。唇の両端はわずかに上がっていてかわいらしく、少女が体全体から醸し出す大人っぽさとは反しているが、そのアンバランスさがぞくぞくするような魅力を持っている。
ネズミは待った。彼女が没頭している世界から、現実に戻ってくるのを。
やがて、少女がこちらに気づいたのか、ふと思い出したように顔を上げた。
目が合った。
その眼は、少女というよりも、美少年の持つ魔性に近い輝きを放ち、どんな者をも一瞬で魅了する力を持っていた。
見つめ合っていたのは数秒のこと。
口を開いたのは、少女のほうだった。
「ぼくに、なにか用?」
少女――松井珠里奈はハスキーな声でそう言った。
「松井珠里奈さん――スよね? なに読んでるんスか?」
ネズミの問いに、珠里奈は文庫本を持ち上げてカバーを見せた。
ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』下巻。
「傑作っスよね、それ。車の衝突シーン、最高に笑えたっスよ」
珠里奈が微笑むと、両頬にエクボができた。「似てるかもね、ぼくたち――」
「それはよかった」ネズミは笑顔を作った。
松井珠里奈はネズミと同じく一年だが、クラスはちがう。そもそも彼女は四月に入学したのではない。秋になって名古屋の栄から転校してきたのだ。それまで普通の女子高に通っていた珠里奈は暴力事件を起こし、この馬路須加女学園にやってきたらしい。いくらネズミでも、名古屋にまで情報網はなかったため詳細は不明だが、こんな学園に転向してくるくらいだ、なにがあったのかは大体想像がつく。
珠里奈と面と向かって話すのは、これが初めてのことだった。自分の存在を珠里奈が知っているかはわからない。ほんの少しの明かりで、見ず知らずのダンジョンを進むような話し合いになるだろう。ネズミは緊張した。珠里奈を「ネズミ帝国」に引き入れることに失敗すれば、野望達成への道のりは一層険しくなる。
「あっしはこういうもんで……」ネズミは笑顔のまま、パーカーの内ポケットから、生徒手帳を取り出した。そして名前と顔写真が入っているページを開き、珠里奈に向けた。
「わたなべ、まゆう……?」
「わたなべまゆ……っス」
「じゃあ、まゆゆだね」
「え?」
「インスピレーションさ。ネズミさんでしょ、いつもの名前は? でも、そんなの似合ってない。きみにはまゆゆってほうがいい。絶対」
「どうしてネズミってあだ名を?」
「聞いたんだよ、クラスメイトに。転校初日に校庭できみを見た、そのときにね」珠里奈はそこで言葉を区切って、「とてもかわいい子だと思った」
ネズミはゾクッとした。
呑まれるな。会話の主導権が珠里奈のものになりつつある。ネズミは警戒した。
「けど、別のクラスだったから、遠くで見つめているだけだった。それに、きみの悪いウワサもいろいろ聞いたし」
ネズミは苦笑した。「どんなウワサっスか?」
「まあ……。いろいろだよ」珠里奈は言葉を濁した。「でも、さっきわかった。きみはぼくと似てる。この学校でジョン・アーヴィングを知ってる生徒がいるなんて思わなかったし、衝突の場面で笑える感性はぼくと同じだ。だから、きみに関する悪いウワサはきっと、だれかの悪意によるものだよね。この本の、ガープみたいに」
どこまで本気なのだろうか。ネズミは珠里奈を見つめながら、自分の疑念が目に浮かんでいないかと気になった。珠里奈がどんな「悪いウワサ」を聞いたのかはわからないが、ネズミが学園の影で暗躍し、だれかとだれかに手を結ばせたり引き裂いたり、衝突させたり仲介したり――それらはすべてネズミの意思であり、決意であり、ネズミ自身の人間性でもあった――したことを、珠里奈はいくらかは知っていると考えたほうがよさそうだ。。
「たしかにいろんなウワサが流されてるんスよ。珠里奈さんが聞いたウワサのほとんどはホントのことかもしれないっス」
珠里奈ははっとした表情を浮かべた。
「あっしは――二年後、三年生になったときに、この学園のテッペンを獲りたいんスよ」
「テッペンを……?」
ネズミは深くうなずいた。「ラッパッパがやっているようなケンカじゃなく、それよりもちょっとばかりここを使ったやり方でね」ネズミは自分のこめかみを人差し指でつついた。「ケンカの強い連中相手に頭だけで闘うのは、これまたちょっとばかり面倒なんスよ。だから裏でいろいろと動かなくちゃいけなくて……。悪いウワサってのは、そういったことと関係あるんじゃないスかねえ」
ネズミはまるで、他人事のように言い放った。
珠里奈は唇で笑った。エクボの窪みが、より深くなった。「――面白いね、それ」
「そう言ってくれたところで、珠里奈さんにあらためて話があるんスよ」
「ぼくに――どんな話?」
「あっしを守ってほしいんス。あっし、知ってるんスよ。珠里奈さんがめちゃくちゃ強いこと――」
珠里奈は目を細めた。奥に光る眼光が、輝いたように見えた。
「二ヶ月半前、珠里奈さんが隣町でヤクザをボコったとこ、偶然見かけましてね……」
偶然というのは嘘だった。そのときネズミは珠里奈について調べるため、一週間、尾行をしていた。事件が起きたのは最後の日だった。
珠里奈は週二回、学校帰りにダンスのレッスンに通っていた。レッスンは午後九時までおこなわれる。その教室のある街の駅前には、飲み屋や風俗店が密集した繁華街があり、女子高生が夜に歩くには適さない場所だった。
珠里奈にからんだのはスーツを着たヤクザ三人だった。全員の身長は珠里奈より二十センチ以上高い。なにが原因かはわからなかったが、ネズミが気づいたときには、珠里奈は三人に囲まれていた。しかし珠里奈はあわてた様子もなく、三人を路地へと導き、消えた。
ネズミと珠里奈は十メートル以上離れていたし、往来は嬌声や車の走行音や呼び込みの声でけたたましかった。死角へ入ってしまった珠里奈を追うべきかどうか、ネズミは一瞬迷った。しかし、自分が行ったところでどうにかなるわけでもなく、巻き添えを食らうのだけはごめんだった。ネズミは少し経ったら、路地裏に転がる珠里奈を見に行こうと思った。
だが、珠里奈はものの三十秒もしないうちに、路地から出てきた。学校帰りに立ち寄ったクレープ屋が臨時休業していたときに見せる、ちよっとがっかりしたような、つまらなさそうな表情を浮かべていた。
スカートをひるがえし、駅に向かって歩いていく珠里奈の背中を意識しながら、ネズミは先ほどの路地へと入った。
そこには三人のヤクザが倒れていた。一人は泡を吹き、股間を押さえたまま気絶していた。一人は肩が外れたのか右腕が背中のほうにおかしな角度で曲げられていた。残る一人は顔面中血まみれで、どこがどう切れているのかわからないほどだった。
ネズミは空恐ろしさを感じながらも、うれしくなった。
ネズミは珠里奈への調査を強化した。学校での動向には注意をし、各教室にいるタレコミ屋から情報を集められるだけ集めた。しかし馬路須加女学園では珠里奈はおとなしく、だれともつるんでいなかったし、その気配すらなかった。あのケンカの腕前なら、ラッパッパに入っても四天王になれるというのに、珠里奈はそんなものには一切興味がないようだった。
「なにがあったかは知らないし、どうでもいいっス。ただ、ヤクザ三人を相手に一歩も引かなかった珠里奈さんを見て、あっしは超アガりましたよ。これは本物だって……」
珠里奈はなにも言わなかった。
「だけど珠里奈さん、学校ではおとなしいっスね。転校生ってこともあるのか、だれともしゃべらず、昼休みにはこうして毎日図書室通い……。暴力が横行しているこの学校で、強いのにひたすら我慢しているってつらくないスか? あっしを守ってくれれば、なにかあるたびに、その腕を使えますよ。毎日緊張の連続で、今よりは楽しい日々になるにちがいないっス。まあ、本を読むのも楽しいってことは認めまスがね……」
ネズミは待った。珠里奈が話し始めるのを。
図書室が静寂に包まれた。
廊下の向こうでだれかがロッカーでも蹴り倒したのか、ずんと重い衝撃が床から伝わってきた。続いて怒号。どこかのバカ同士が、またケンカを始めたのだ。
とはいえ、いまこの図書室でおこなわれている会話も一種のケンカだった。もし珠里奈がネズミの要請を断れば、ネズミは自分を守る新たな手段を考えなくてはいけない。珠里奈にとって、ネズミの側に就くということは、敵を増やすことに他ならない。
珠里奈は考えていた。唇の端を上げ、アイドル顔負けの笑顔を見せながら。
そして珠里奈は長考のあと、そっと口を開いた。「ぼくが昔読んだ本に、こんなことが書いてあった。『無力だから群れるのではない。群れるから無力なのだ。』って……。ぼくもそう思う。自分の力は小さい。でも、仲間を増やせば言うべきことが言えなくなり、自分の力はより小さくなる。だからぼくは一人でいた。でも、一人じゃ背中を守れない」
ネズミはうなずいた。「そうっスよ」
「――ふたつ、条件がある」
「なんスか?」
「組むからには、ぼくに隠し事をしないでほしい。ウソも絶対ダメだ」
「そりゃあ、もちろんスよ」
だが、ネズミはそれは無理だろうな、と思った。テッペンを獲るということは、権力を手中にするということだ。権力は魔物である。正直者がそれを手にして成功した例は、歴史上ただのひとつもない。
「ふたつめは――ぼくと付き合うこと」
「え――」
あまりにも意外な条件に、ネズミは絶句した。
「付き合うといっても、手を繋いで遊園地で遊ぶことじゃないよ。ぼくらはまだ大人じゃないけど、子供でもない。そういう付き合いさ。この意味、わかるよね、まゆゆ?」
【つづく】