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公開二日目、錦糸町で見てきた。日曜の1250からの回で、客の入りは100人程度。シネコンにしては大きな劇場でかけていた。セットリストのチケットが売れまくったから、たくさんの人を見込んだのだろうが、やはりライブ生中継と映画はちがうということだろうか。
さて。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』だが、はっきり言って映画としては失敗していると思う。なぜなら、ここにはファンが期待している映像がほとんど残っていないし、作り手の意思が感じられないからだ。
ドキュメンタリーは客観的事実の積み重ねを編集したものと思われがちで、事実そういう側面はかなり大きいものの、本質的には普通の劇映画と変わりはない。ドキュメンタリーにも演出はあるし、意図的な編集によって観客の意思を操作することができる。
というようなことを森達也が言っていたが、ぼくもそのとおりだと思う。ぼく自身もドキュメンタリーというほど大げさなものではないが、いくつかのフェチビデオ作品においてそれを意識した(ハッ。だからあんまり売れないのか?)。
ドキュメンタリーは被写体を、劇映画よりもさらに劇的に赤裸々にできる。むきだしになった人間の、良心も闇もあからさまにするのだ。そして、野次馬的な視線を持たざるを得ない観客という存在は、とくにこの「闇」を見たいと思っている(これは劇映画の場合、より顕著だ)。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』には、「闇」がほとんどない。なぜなら、この映画はメンバーたちによって「AKB48という物語」が語られるからだ。
映画は最初は時系列によって進行する。だが、メンバーの「語り」が入った途端にそれは狂う。だれか一人の目から見たAKB48を描いているのならそれでもいいが、たくさんのメンバーの「語り」が入るために「物語」は混乱してくる。ぼくのようなヲタたちは「物語」の顛末をある程度知っているからいいけれど、AKB48初心者には難解な「物語」に思えるのではないだろうか。しかもメンバーによっては「語り」ではなく、わざわざ故郷に帰っていたりする。この統一性のなさはなんなのだろう。
そして時系列による構成は、やはりというか当然というか、終盤ではぼろぼろに崩壊し、ラスト間際にあわてて字幕で説明せざるをえなくなってしまう。こんな雑な構成にするのなら、最初から時系列は無視すればよかったのだ。たとえば『(500)日のサマー』みたいな方法もあると思う。
なぜこうなったかといと、メンバーに語らせることそのものがいけないのではなく、そこに作り手の意思が入っていないからだ。インタビューのシーンを見る限り、凝っているのは(たぶん)単焦点レンズで撮ったほんわかとした雰囲気重視の映像美だけで、肝心の中身については統一性が見られない。監督はなにを彼女たちに聞きたかったのだろうか。単なる思い出話なら、もうたくさんだ。そういうものは普段からテレビやラジオで聞いているし、そちらのほうが断然面白い。
ドキュメンタリーとタイトルに打ち、木戸銭取って客に見せるなら、もっと彼女たちに肉薄しないといけない。そのためには、監督が彼女たちに嫌われるような存在にならなければダメだろう。この作品に対するいらだちはそこにある。仲良し同士で撮ったプライベートビデオなんなて見たくないのだ。彼女たちがした好き勝手な話を積み重ねればなにかが見えてくる、とでも思っているのだろうか。そんな被写体任せな手法でいい作品など撮れるわけがない。
インタビューの人選にも問題がある。出てくるのは選抜メンバーばかり。興行的なことを考えて人気メンバーを出すのはいい。でも、そうじゃないメンバーにも、こういうときくらい光を当てたらどうか。自分の推しだから言うわけではないが、じゃんけん選抜で優勝した内田眞由美のインタビューは絶対に必要だったはずだ(この映画は2010年のAKB48を描こうとしているのだから)。彼女がどれだけ飲んだかわからない苦汁について迫ってくれたら、それだけでもこの映画の評価は変わると思う。さらに言えば、じゃんけん選抜そのものにも、この映画は触れていない。2010年のAKB48を描いているはずなのに! この年、卒業した小野恵令奈もほとんど出てこない。
そしてインタビューをするなら、メンバーだけではなく、彼女たちを支えるスタッフにもするべきではなかろうか。秋元康や戸賀崎氏ではなく、日のあたらない場所で黙々と仕事をしているスタッフの声を聞く、いい機会だっただろう(たとえば高橋みなみが衣装倉庫に行くシーンがあるが、そこを管理している人と彼女に話をさせるとか)。
インタビュー以外のシーンも問題がある。冒頭、旧チームKの千秋楽シーンで泣きじゃくる秋元才加には心を打たれたが、こういうシーンをじっくり見せてくれたのはそこだけで、あとは「スタイリッシュな編集」を意図したのかなんなのか、いいシーンがあってもすぐにカットされてしまう。だれかが怒ったり泣いたりしているシーンがあっても、それに対するリアクションが映っていないから、これがどんな状況なのかさっぱりわからない。断片的に「いいシーン」を繋げただけ。そこに作り手の「ここを見てほしいんだよ!」という意思が感じられない。一年以上もカメラを回して、1000本もテープを消費して、いったいなにを撮っていたのか。
この映画は、彼女たちを知らない人には新鮮かもしれないし、「あっちゃんが出てればいい」というヲタには楽しめるものかもしれない。
だが、AKB48は映っていても、今までぼくが見聞きしてきたもの以上の「なにか」はここにはない。ドキュメンタリーと打つのであれば、せめてそのかけらくらいは見せてほしかった。
オープニングに象徴されるように、この監督は彼女たちをかわいく撮ろうという意思があるだけで、内面に迫ろうなんて考えてやしないのだ。だからこの映画は、なにかのDVDの特典映像クラスのものでしかない。
あと、これはとても大切な問題だと思うので書いておく。
この映画はTOHOシネマズのフリーパスは使えないし、ポイント鑑賞もできない。特別上映だからだそうだ。だれの意思かわからないが、ライブ生中継と同じ扱いということなのだろうか。なんにしても、ふざけている。
とまあ、あれこれ書いたけど、AKB48ヲタならそれなりには楽しめるものだとは思う(あくまでも、見たことのない映像があるから、という程度だけど)。
ちなみに、ぼくが一番印象に残っているのは、松原夏海のすっぴん顔だった(笑)。
来年もこの手の映画を作るつもりであれば、今度はぜひ森達也にカメラを持たせてほしい。いや、マジで。
■映画公式サイト→ DOCUMENTARY OF AKB48 TO BE CONTINUED
さて。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』だが、はっきり言って映画としては失敗していると思う。なぜなら、ここにはファンが期待している映像がほとんど残っていないし、作り手の意思が感じられないからだ。
ドキュメンタリーは客観的事実の積み重ねを編集したものと思われがちで、事実そういう側面はかなり大きいものの、本質的には普通の劇映画と変わりはない。ドキュメンタリーにも演出はあるし、意図的な編集によって観客の意思を操作することができる。
というようなことを森達也が言っていたが、ぼくもそのとおりだと思う。ぼく自身もドキュメンタリーというほど大げさなものではないが、いくつかのフェチビデオ作品においてそれを意識した(ハッ。だからあんまり売れないのか?)。
ドキュメンタリーは被写体を、劇映画よりもさらに劇的に赤裸々にできる。むきだしになった人間の、良心も闇もあからさまにするのだ。そして、野次馬的な視線を持たざるを得ない観客という存在は、とくにこの「闇」を見たいと思っている(これは劇映画の場合、より顕著だ)。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』には、「闇」がほとんどない。なぜなら、この映画はメンバーたちによって「AKB48という物語」が語られるからだ。
映画は最初は時系列によって進行する。だが、メンバーの「語り」が入った途端にそれは狂う。だれか一人の目から見たAKB48を描いているのならそれでもいいが、たくさんのメンバーの「語り」が入るために「物語」は混乱してくる。ぼくのようなヲタたちは「物語」の顛末をある程度知っているからいいけれど、AKB48初心者には難解な「物語」に思えるのではないだろうか。しかもメンバーによっては「語り」ではなく、わざわざ故郷に帰っていたりする。この統一性のなさはなんなのだろう。
そして時系列による構成は、やはりというか当然というか、終盤ではぼろぼろに崩壊し、ラスト間際にあわてて字幕で説明せざるをえなくなってしまう。こんな雑な構成にするのなら、最初から時系列は無視すればよかったのだ。たとえば『(500)日のサマー』みたいな方法もあると思う。
なぜこうなったかといと、メンバーに語らせることそのものがいけないのではなく、そこに作り手の意思が入っていないからだ。インタビューのシーンを見る限り、凝っているのは(たぶん)単焦点レンズで撮ったほんわかとした雰囲気重視の映像美だけで、肝心の中身については統一性が見られない。監督はなにを彼女たちに聞きたかったのだろうか。単なる思い出話なら、もうたくさんだ。そういうものは普段からテレビやラジオで聞いているし、そちらのほうが断然面白い。
ドキュメンタリーとタイトルに打ち、木戸銭取って客に見せるなら、もっと彼女たちに肉薄しないといけない。そのためには、監督が彼女たちに嫌われるような存在にならなければダメだろう。この作品に対するいらだちはそこにある。仲良し同士で撮ったプライベートビデオなんなて見たくないのだ。彼女たちがした好き勝手な話を積み重ねればなにかが見えてくる、とでも思っているのだろうか。そんな被写体任せな手法でいい作品など撮れるわけがない。
インタビューの人選にも問題がある。出てくるのは選抜メンバーばかり。興行的なことを考えて人気メンバーを出すのはいい。でも、そうじゃないメンバーにも、こういうときくらい光を当てたらどうか。自分の推しだから言うわけではないが、じゃんけん選抜で優勝した内田眞由美のインタビューは絶対に必要だったはずだ(この映画は2010年のAKB48を描こうとしているのだから)。彼女がどれだけ飲んだかわからない苦汁について迫ってくれたら、それだけでもこの映画の評価は変わると思う。さらに言えば、じゃんけん選抜そのものにも、この映画は触れていない。2010年のAKB48を描いているはずなのに! この年、卒業した小野恵令奈もほとんど出てこない。
そしてインタビューをするなら、メンバーだけではなく、彼女たちを支えるスタッフにもするべきではなかろうか。秋元康や戸賀崎氏ではなく、日のあたらない場所で黙々と仕事をしているスタッフの声を聞く、いい機会だっただろう(たとえば高橋みなみが衣装倉庫に行くシーンがあるが、そこを管理している人と彼女に話をさせるとか)。
インタビュー以外のシーンも問題がある。冒頭、旧チームKの千秋楽シーンで泣きじゃくる秋元才加には心を打たれたが、こういうシーンをじっくり見せてくれたのはそこだけで、あとは「スタイリッシュな編集」を意図したのかなんなのか、いいシーンがあってもすぐにカットされてしまう。だれかが怒ったり泣いたりしているシーンがあっても、それに対するリアクションが映っていないから、これがどんな状況なのかさっぱりわからない。断片的に「いいシーン」を繋げただけ。そこに作り手の「ここを見てほしいんだよ!」という意思が感じられない。一年以上もカメラを回して、1000本もテープを消費して、いったいなにを撮っていたのか。
この映画は、彼女たちを知らない人には新鮮かもしれないし、「あっちゃんが出てればいい」というヲタには楽しめるものかもしれない。
だが、AKB48は映っていても、今までぼくが見聞きしてきたもの以上の「なにか」はここにはない。ドキュメンタリーと打つのであれば、せめてそのかけらくらいは見せてほしかった。
オープニングに象徴されるように、この監督は彼女たちをかわいく撮ろうという意思があるだけで、内面に迫ろうなんて考えてやしないのだ。だからこの映画は、なにかのDVDの特典映像クラスのものでしかない。
あと、これはとても大切な問題だと思うので書いておく。
この映画はTOHOシネマズのフリーパスは使えないし、ポイント鑑賞もできない。特別上映だからだそうだ。だれの意思かわからないが、ライブ生中継と同じ扱いということなのだろうか。なんにしても、ふざけている。
とまあ、あれこれ書いたけど、AKB48ヲタならそれなりには楽しめるものだとは思う(あくまでも、見たことのない映像があるから、という程度だけど)。
ちなみに、ぼくが一番印象に残っているのは、松原夏海のすっぴん顔だった(笑)。
来年もこの手の映画を作るつもりであれば、今度はぜひ森達也にカメラを持たせてほしい。いや、マジで。
■映画公式サイト→ DOCUMENTARY OF AKB48 TO BE CONTINUED