・今回は性的描写を含みます。嫌いな方は読まないでください。
■図書室の少女―2■
ネズミは絶句したまま、松井珠里奈の顔を見た。真剣な視線はネズミを射るようだった。
冗談ではないらしい。
ネズミは三次元の人間に性的な興味はない。そうした欲望は、二次元のキャラクターに向けられている。自慰の「ネタ」もそうだ。三次元の存在を「ネタ」にしたことはなかった。
三次元に対して、ネズミは嫌悪感さえいだいている。男にしろ女にしろ、生殖器は不気味でしかなく(自分にもあんなものが付いているなんて認めたくない)、あれが快感を生むような仕組みにした神――もし、存在するのならば――をネズミは軽蔑していた。
だが、それよれもなによりも、三次元は意のままにならない。生まれてからたったの十六年で、ネスミはたくさんの愛や信頼が壊れたのを見てきた。どんなに愛を語ろうが、どんなに友を信頼しようが、そんなものは簡単に破壊される。自分が真実の誓いを立てても、相手の心の中は見えない。だからネズミは自分を守るために、三次元に期待するのをやめた。
それは逃避ではない。
マンガやアニメにハマったネズミに、母親は現実から目を背けるなと言う。背けているのではない。立ち入らないようにしているのだ。二次元と三次元は別々に位置しているのではなく、地続きの場所にある。だから自分は、危険な場所には近づかないだけだ。そこで遊びたい人は遊べばいい。自分のことは放っておいてほしい。
本来であれば、ネズミはこの時点で珠里奈の申し出を断るべきだった。しかし、珠里奈の堂々とした態度と、魅惑的な視線がネズミの心を揺らした。
それは、珠里奈がまごうことなき美少女であり、同時に美少年でもあるからだった。
美しいということは、それだけで凶器である。ネズミは半ば、それに打ち砕かれそうになっていた。
三次元に対する希望など、なにも持っていないつもりだった。しかし、自分の心は、いま揺れている。
自分を変えてくれる相手と、どこかで巡りあえるかもかもしれないという希望は残っていたのだ。ネズミは自分に驚いた。自分は変わるのだろうか。変えられるのだろうか。
問題は感情だけではなかった。ここで珠里奈を仲間に引き入れることができなければ、当面、ネズミを守る武力はなく、またしてもスタンガンに頼らなくてはいけなくなる。だが、あれをフォンチーに取り上げられたときのような恐怖は二度と経験したくない。ネズミは自分で自分を守れないのだ。
いまのネズミには、やはり珠里奈が必要だった。
珠里奈の言葉を聞き、黙っていたのはわずかに三秒程度のことだった。
ネズミはうなずいた。「いいっすよ」
「ホント?」珠里奈は破顔して、立ち上がった。「ホントにホント?」
ネズミはもう一度、うなずいた。
「やったぁ……」珠里奈はキリスト教徒のように胸の前で手を合わせた。「やった……」
無邪気に喜ぶ珠里奈を見て、ネズミはほっこりとした気持ちになった。
――あれ……?
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。フランシスお兄ちゃんと初めて出会ったとき以来のことかもしれない。
先ほど珠里奈が言った、「大人じゃないけど、子供でもない付き合い」の意味は気になるが、まあ、そんなものはやんわりと拒否し続ければ……
そう考えていたとき、珠里奈がネズミの両方の頬に手を当ててきた。
ハッとしたネズミの顔の二十センチほど前には、すでに珠里奈の顔があった。いつの間にか、珠里奈は机の上に乗り、四つんばいになってネズミに接近していたのだ。この場面がアニメで描かれるとすれば、カメラは珠里奈の背後に回り、濃紺のプリーツスカートに包まれた尻の描く官能的な曲線と、下着が見える寸前まで露わになった白い太ももを映し出すだろう。そしてそれは「職人」によって「キャプ」られ、「けしからん」画像として、ネットの画像掲示板をにぎわすだろう。他に誰もいないからいいようなものの、それを恥ずかしげもなくやってしまう珠里奈の幼さが、ネズミにはとても愛しく、そして怖かった。
「ずっと気になってたんだ、まゆゆのこと……。あ。まゆゆって呼んでいいよね? ぼくたち、もう付き合うんだし」
珠里奈の息は甘かった。甘美なその匂いは息だけではなく、髪の毛のものかもしれない。なんにせよ、それはネズミの鼻腔を心地よく刺激した。
「も、もちろんスよ……」
ネズミはこの先の展開を想像しつつ、そう答えた。
その言葉を受けて、珠里奈がネズミが被っているパーカーのフードをそっと脱がした。「――ああ。この頬にふれることのできる日が来るなんて……」
珠里奈の指先がネズミの頬骨のあたりを蠢く。
ぞくっとした。
他人に頬を触られるのは初めてだった。
不快ではない。
快感だ。
「初めて見た日から、きみのことが気になってずっと想像していた。こうして、きみの肌に触れることを……」
ネズミは頬を這う指が生み出す快感に酔いそうになりつつ、必死に耐えた。触れるか触れないかの微妙なタッチが産毛を刺激する。それはくすぐったくもあったが、快感のほうがはるかに勝っていた。
「震えてるね……かわいい」珠里奈は笑った。「約束するよ。きみは、ぼくが守る。だれにも傷つけさせやしない」
そして珠里奈はネズミにキスをした。頬を拘束したまま。
ネズミは硬直した。目は開けたままで、珠里奈の顔をこれ以上ない近距離で見つめることになった。初めてのキスの相手が女とは思わなかった。
優しく重ねられた唇はやわらかく、温かかった。想像していたよりも湿り気はなく、むしろさらっとしていた。
時間にすればたった十数秒程度のキスだが、それでもネズミの動悸を激しくするには充分だった。
唇を離した珠里奈は、ネズミと目が合うと天使のように微笑んだ。
ネズミは自分の顔が赤くなっていくがわかった。
「キスは初めて――?」
珠里奈の問いを、ネズミは否定しようとしたが思いとどまった。
ここでウソをつけば、珠里奈との約束を早くも破ったことになってしまう。こんな程度のことであっても、ネズミは約束を守りたかった。ことの大小を問わず、約束を反故にしてしまっては、これから先、どれだけウソをつけばいいのかわからない。常日頃から謀略を巡らすネズミだが、それでも自分なりには誠実にふるまっているつもりだった。なにもかもがウソであれば、謀略を信じるものはいない。九十九パーセントの事実と、一パーセントのウソが人の心に隙を作るのだ。ウソは少なければ少ないほどいいに決まっている。
ましてや、この珠里奈が相手なら。
「初めてっすよ……」
「え。じゃあ、まゆゆのファーストキスはぼくが……」
ネズミはうなずいた。
「うれしいっ……」
珠里奈は再びキスをしてきた。
やや強く押し付けられたせいなのか、今度の唇は湿っていた。鼻息の荒い珠里奈の唇が動くたび、二人の粘膜が絡み合った。
他人の唾液が口の中に入ってくるなんて気持ち悪い――ネズミはこの瞬間までそう思っていた。だから男女問わず、三次元の人間とキスをしようとは考えなかった。唾液には殺菌能力があるから、汚いものではないのだろう。それでも生理的な嫌悪感はある。これは理屈ではないからどうしようもない。
だが、いまこうして初めて――正確には二度目――のキスをしていると、脳が痺れていくような快感がその嫌悪感を消し去ろうとしていた。これも理屈ではなかった。フロイトの理論は好きではないし、まちがっている部分もあると思うが、人間は快感原則に基づき行動するという点は同意してもよかった。
体の一部と一部を合わせるということだけをとれば、これは握手となんら変わりない行為だ。ちがうのは、そこに粘液があるだけ。でも、この粘液がもっとも重要なのだ。
ネズミは目を閉じた。
今度のキスは激しかった。珠里奈の粘液とネズミの粘液が交じり合った。珠里奈のそれは、フリスクのライムミントの味がした。ネズミが噛んでいたミントガムと合わさったその味は、不思議と調和した。
ネズミは自分の体が疼きだすのを感じた。
今度のキスは長かった。一分以上はあっただろう。
珠里奈は顔を離すと、ネズミを見つめた。「図書室は飲食禁止だよ」
「あっしはなにも食べて……」
「ガムもダメ。没収するよ」珠里奈は長い舌を出した。
ネズミはその意図を察し、舌を使って口の中のガムを唇の先端に移動した。そして珠里奈の顔に近づいた。
「だーめ……」珠里奈は顔を後ろに引いた。「舌に乗せて」
普段のネズミなら、こんな意味のない、汚らしい行為には乗らなかった。しかし、いまのネズミは自分の意思の何パーセントかを珠里奈に操られていた。残ったネズミの部分はそれを冷静に判断し、警告を発している。肉体的な快楽に惑わされるな。理性こそ、自分の武器じゃなかったのか、と。
しかしネズミは快楽に抗えなかった。
ネズミは舌の上に噛んでいたガムを乗せ、口の外に出した。
珠里奈の唇が近づき、それを包み込む。舌が軽く引っ張られる感覚は、なんだか面白かった。ガムはすぐに珠里奈に吸われたが、舌を愛撫する唇の動きはやまなかった。その動きはBL系の同人誌で見た、男同士が性器を口で刺激する行為そのものだった。ネズミはそのことを連想すると、いま自分がとてつもなく淫らな行為をされているのだと知り、気分が高まった。
ネズミは両手を珠里奈の後頭部にまわした。さらさらした髪の毛の感触を確かめるように、ネズミは珠里奈を撫でた。
それをOKサインだと受取ったのか、珠里奈の舌がネズミの口の中に侵入してきた。それはねっとりとした動きだが力強く、ネズミの舌や歯や唇を舐めまわした。特に舌への攻撃はすさまじい。逃げようとしているわけではないのだが、その激しさに自然と引き気味になるネズミの舌に、珠里奈の舌は執拗に絡んでくる。やがてネズミも、その動きに呼応するかのごとく、何度も何度も舌を巻き付けた。
唇と唇を重ね合わせ、舌を入れ合うだけなのに、どうしてこんなに頭が痺れていくのか……。ネズミは生まれて初めての快感で、自分の思考能力をあらわすメーターの針がどんどんとゼロに近づいていくのを感じていた。理性と論理を行動の基調とするネズミにとって、これは由々しき事態だった。こんなことがあってはならない。ネズミはいつでもネズミでなければいけない。フォンチーにスタンガンを当てられたときに感じた恐怖とは、また別の恐怖に、ネズミは襲われていた。自分が自分でなくなる気がした。
毎日している自慰の気持ちよさと、珠里奈のキスの気持ちよさはまるでちがう。達するまでではないものの、キスには母の無償の愛に似た包容力を感じる。
ネズミはとうとう、自分から珠里奈の口の中に舌を入れた。珠里奈はそれを受け入れてくれた。待っていたかのようだった。珠里奈の中は柔らかくて、温かかった。珠里奈が自分の中に舌を入れていたときも、同じように感じたのだろうか。
「――んん……ぅんぅ……」
珠里奈の息遣いが、さらに荒くなった。
ネズミの舌が、ガムを発見した。ネズミはそれをすくうようにして、再び自分の口の中に戻した。すると珠里奈の舌が、それを奪い返しにきた。
頬に当てられていた珠里奈の手はいつの間にか放されていた。それに気づいたネズミは、珠里奈の後頭部から手を下ろした。
いまの二人は唇と舌だけでつながっていた。ガムを使ったラリーに飽きると、今度はおたがいの唇を責めあった。ネズミは珠里奈の薄い唇を舐めたり、ついばんだりした。もちろん珠里奈もそうしてくれた。
二次元を愛する気持ちは変わらないが、この快楽は三次元でなければ味わえない。
――悪くないっすね、これも……。
まだ少しだけ残っている冷めた理性が、ネズミにそう思わせた。
図書室の外――廊下や窓の向こう――からは、怒号となにかが破壊される音が漏れてきた。一歩外に出れば、そこは暴力が支配する空間だったが、いまのここはちがった。
昼休みのチャイムが鳴らなければ、二人はいつまでもそうしていただろう。
そのけたたましい音に、珠里奈の唇の動きが止まった。
「行くよ……」唇を重ねたまま、珠里奈が言った。
「サボっちゃえばいいじゃないすか、授業なんて……」ネズミもそのままでささやいた。
「ううん。出る」珠里奈がゆっくりと唇を剥がすと、ねっとりした唾液が糸を引き、だらしなく机の上に垂れた。「このままだと、ぼく、どうにかなっちゃうから……」
それはネズミも同じだった。すでに、「どうにか」なっていた。三次元を相手にした行為でこんなことになる自分にネズミは驚いた。
珠里奈は机の上から降りた。プリーツスカートの裾が机に引っかかり、腿がちらりと見えた。そのまぶしい白い肌に、ネズミは女ながらドキッとした。
珠里奈がネズミの肩を軽く抱いた。「さっきも言ったとおり、ぼくはきみを守る。授業以外の時間は一緒にいよう。ぼくの横にいれば、だれも君に触れさせない」
ネズミはこの学園に入学してから、初めての言葉を発した。「――ありがとう……」
珠里奈の目を見つめると、ネズミは自分のやろうとしている行為を見透かされるような気がした。
ネズミは思う。自分たちは、卑劣な陰謀や嘘や暴力に満ちた、「すばらしい世界」に生きている。そんな世界の救いは二次元だけだった。二次元だけがネズミを守る安息の地だった――。
だが、それはもしかしたら、まちがいなのかもしれない。
ネズミは恐怖した。
三次元に失望したからこそ、自分は二次元で生きることを選択したのに、今さら元には戻りたくない。
――三次元なんかが、すばらしい世界であるわけがない……。
「じゃあ、また放課後に」
珠里奈は椅子に座ったままのネズミの頬に、小鳥のようなキスをした。
小走りで図書室を出て行く珠里奈の後姿を、ネズミはぼんやりと見送った。気がつくと、珠里奈がキスをした頬を触っていた。そんな自分に気づいたネズミは、わけのわからない衝動的な怒りを感じて立ち上がった。そして自分が座っていた椅子を足の裏で思いっきり蹴った。椅子は大きな音を立てて転がり、文学全集が並んだ棚にぶつかった。
珠里奈を「ネズミ軍団」の陣営に取り入れる計画は成功したというのに、ネズミの気分は晴れなかった。
【つづく】