■懇願―1■
ココアを一気に飲み干す大島優子を見ているサドの体の中心には、まだ痺れが残っていた。
目を閉じて、優子との情事の快感の余韻に浸っていたいが、今はそばにいるだけで満足だった。肉体の快楽も大切だが、それ以上に精神の安らぎのほうが重要だ。
贅沢を言えば、もう少しの時間、優子に抱きしめられていたかった。優子の腕の中なら、辛さも憎しみも、時間さえ忘れられる。そこにあるのは安らぎだけだ。力強く抱きしめられ、「大丈夫だ、あたしが落とし前をつける」と言ってくれたらどれだけ気が楽か。
サドはベッドの端に座る優子のそばに立ったまま、考え始めた。
馬路須加女学園を背負うという大役は、自分には向いていないと、サドは思う。自分はあくまでもナンバー2か3の位置にいるべき人間だ。しかし優子がいない今、自分以外に学園を統べることのできる者はいない。やらなければならなかった。
今日の放課後、ラッパッパにもたらされた情報は、サドを戦慄させた。
ネズミがつかんだ情報によれば、アリジョが五日後にカチコミにくるという。どれほどの規模かはわからないが、マジジョの旗色が悪いことはたしかだ。
対アリジョ戦において、マジジョ陣営は苦戦を強いられている。勝ったのはチョウコクと、純情堕天使だけ(しかも、こちらは八人がかりで一人をシメたのだから、勝ったといえるかどうか)。チームホルモン、歌舞伎シスターズ、山椒姉妹はことごとくやられたし、ラッパッパも四天王のシブヤとブラックまで投入して負けた。四天王で残っているのはトリゴヤとゲキカラのふたりだが、トリゴヤの能力はこういった集団戦には向かず、拳を使った闘いでは四天王最弱だ。ゲキカラは失踪中でまだ見つかっていない。アンダーガールズの四人はどれだけ使えるかわからないが、たぶん、いいようにボコられておしまいだろう。
サド自身が闘うことも考えたが、怪我をしたときのことを考えるとそれもできない。この病室には毎日来ている。そこに負傷したサドが現れれば、優子に説明を求められる。マジジョには、サドにケンカを売る者も、ケガをするほどの一撃を与えられる者もいないのだから、それは必然的に他校とのいざこざということになる(前田敦子とはタイマンで勝負付けがすんでいるし、そのことは優子にも報告してある)。マジジョのナンバー2がボコられたと知れば、優子は黙っていない。入院中の身であろうと、みずから出陣する。それが大島優子という人間だ。だからサドが前線に立つことはできない。
やはり失踪中のゲキカラを探し出すことが最優先だ。ラッパッパは勅命を全校生徒に出してあるものの、ゲキカラの行方は依然つかめていなかった。そしてもし見つかれば、ゲキカラには二度目の少年院に行く覚悟をしてもらわなくてはいけない。完膚なきまでにアリジョの連中をシメなければいけないのだから。
あるいは、別の策として、前――
「――おい、サド……」
サドの思考を、優子の声がさえぎった。
「あ。はい……」サドは生返事をした。
「おかわり淹れてくれよ」優子は空になったカップを差し出した。
「すみません。いますぐ……」サドはあわててカップを受取った。
優子のいぶかしげな視線を背中で感じながら、サドはキャスターに向かった。ココアのパックを開けて粉末をカップの中に入れ、電気式の湯沸しポットからお湯を注いぎ、ベッドまで戻った。
「ありがとな」カップを受取った優子が言った。
サドはベッドの傍らに置かれた椅子に座った。
優子はあれ以来、なにも言ってこない。疑いは晴れていないが、サドの頑なな態度に、追求しても意味がないと思っているのかもしれない。もっとも、優子の本心はいつだってわからない。
それでもサドは優子を信じている。尽くす、というのはそういうことだろう。
「このあいだ、検査があってさ……」優子はベッドの端から枕元まで移動し、あぐらをかいた。
「あ。こぼさないでくださいよ」
「大丈夫だって……。それでよ、いい結果が出れば外泊許可が降りそうなんだ。そしたら、おまえん家、行ってもいいか?」
「ええ、もちろん」サドはうなずき、そのときに展開される肉欲の夜のことを想像した。こんな落ち着かない病室ではなく、だれもふたりを邪魔しない場所で、夜が明けるまで優子に体を貪られる。想像しただけで、また芯が疼く。
でも、ふたりだけでいられるのは、あとどのくらいなのか……。
優子がいないところでは、その不安は心の奥に潜んだままだ。しかし目の前に、命の炎を消そうとしている当人がいるときに限って、それは無神経にサドを襲う。自分より強い相手とケンカをするときに感じる恐怖とは、次元のちがうものだった。底のない、いつまでも這い上がることのできない穴に落ちていくような恐ろしさに、サドは叫びだしたくなる。
「おまえさえ迷惑じゃなければみんなも呼んで、派手にパーティーでもやりてえな」
「いいですね」
サドはそう答えたが、本当はふたりだけの、静かな夜にしたかった。
でも優子が望むなら、サドはそれに従う。
優子の気持ちがすべてに優先する。
「ラッパッパ全員が集まってほしいけど、ゲキカラ……またどっか行っちまったんだよな?」
「ええ。昭和に毎日、携帯に電話とメールをさせているんですが返事がないんです」
「あいつのことだから、どっかでエンコー目当てのおっさんつかまえてボコってんだろうけどよ。また捕まる前に顔見てえな」
優子がゲキカラを「女にした」ことは、サドも知っている。優子はサドと出会う前はゲキカラを寵愛していた。それはゲキカラという「戦力」を自分のものにする策のひとつでもあったのだろう。しかし、ゲキカラはそんなに単純ではなかった。ゲキカラはだれからも縛られない。いつでも好きなときに消え、好きなときに現れる。そのタイミングが、アリジョとの決戦のときに訪れればいのだが……。いまのサドにできることは、そう願うことだけだった。
「新聞のニュースも読んでいますが、いまのところ事件になるようなことはしていないようです」
「あいつも年少行って、少しは懲りてるのかもな」優子はココアを飲んだ。「ま。見つかったらすぐに連絡くれよ――そろそろあいつの体が欲しくなったしな」
優子はサドを見た。いたずらな笑みが浮かんでいる。サドが嫉妬するのを愉しんでいるのだ。
たしかにサドはその発言に心を揺らした。しかし、それはほんのわずかなことで、サドはすぐに平静を取り戻した。
優子が他の女と寝ていることに、サドは当初は嫉妬した。優子と寝た相手をシメたことも何度かあった。しかしやがて、その嫉妬の炎はほとんど消えた。
大島優子という人間の大きさ、偉大さ、寛大さを鑑みれば、だれもが大島優子に抱かれたくなるのは当然のことだからだ。大島優子を知り、大島優子の元で働き、大島優子の口づけを受けた者は、その全員が忠誠を誓う。サド自身がそうだったように。
元気なころ、優子は毎日のように部室でだれかを抱いていた。お気に入りはトリゴヤだったが、三日に一度は他の女を抱いた。それはラッパッパのメンバーのときもあれば、廊下ですれちがっただけの相手のときもあった(ただし、優子はその気がない相手を手篭めにすることはしなかった)。
人を愛するということは、相手の存在を尊重することだとサドは思う。だから優子がだれかを抱きたいと思ったのなら、サドは優子の気持ちを優先する。優子がほかの女と寝ることにサドが口出しをすれば、優子はサドを捨てるだろう。だが、捨てられたくないから沈黙するのではない。サドは好き勝手にふるまう優子が好きなのだ。
そもそもサド自身も、優子以外の女と寝ることがある。それは優子も知っている。サドは自分の性的欲求を満たすためにそうしているのではなかった。優子に叩き込まれた性技は、ラッパッパという組織を維持していくための武器だった。ラッパッパのメンバーだけでなく、山椒姉妹や歌舞伎シスターズ、そして生徒会長の峯岸みなみと寝たのも、すべては優子からあずかったラッパッパのためだった。サドは性によって相手を籠絡し、ラッパッパを守っていた。
しかし、たったひとりだけ、思い通りにならない人間がいる。
――前田敦子。
あの女だけは、優子に近づけたくなかった。
優子が他の女を抱くのはかまわない。しかし、前田だけは嫌だった。優子と前田が自分の知らないところでふたりきりになることを考えると、サドは激しい暴力衝動をともなった嫉妬に狂いそうになる。なぜなら、前田は優子に抱かれる気がなく、優子もその気がないからだ。前田が優子の性的欲求の捌け口になっているのなら、むしろ嫉妬はしない。それなのに優子は前田に熱を上げている。
サドにはそれが我慢ならなかった。
ケンカを極めた者だけが通じ合えるなにかがふたりを結び付けている。そこにサドの入る余地はまったくなかった。まったく、一ミリも一ミクロンもなかった。
優子のあんな目は見たことがない。近いものはある。初めて優子と拳を交わした神社で、倒れた自分に手を差し出した優子のまなざしだ。底なしの優しさに満ちた、菩薩のような輝きだった。そしてサドは恋に落ちたのだ。
その目がいま見つめているのは前田敦子……。
強き者だけが共有できる二人の結びつきを壊したくて、サドは前田とタイマンを張り、そして負けた。その夜は悔しくて眠れなかった。
――でも、今日、私はその前田に……。
「――ま。見つかったら連絡くれよ」優子の声が、ふたたびサドの思考を中断させた。
サドはあわてないようにうなずいた。「ええ、もちろん……」
それからサドは、優子と他愛のない話をしたり冗談を言いあったりした。考え込んでばかりいては、優子に不振がられる。だからサドはつとめて明るくふるまった。
面会時間の終わりが近づき、サドは部屋から退出した(姪っ子みたいに駄々をこねて、お別れのキスをせがむ優子のかわいらしいことといったらなかった)。
廊下を歩き、階段でひとつ下のフロアに降りる。
そして従業員専用更衣室の前で、サドは待った。
前田敦子のアルバイトのシフトは確認してある。今日はまだ、病院内にいるはずだ。
十分ほど待ったとき、エプロンを着けた前田がやってきた。腕組みをして廊下の壁にもたれているサドに気づくと、前田は立ち止まった。
サドは両手を胸の前で広げ、敵意のないことを示した。「話したいことがある」
前田はサドに、メガネの奥から疑惑のまなざしを向けた。
「――話だけだ」サドは繰り返した。
前田は視線を落とし、「――着替えてきます」とだけ言い残し、控え室に消えた。
【つづく】