■特訓―5■
だるまの顔面に叩き込んだはずのヲタの右ひじは、宙を直進しただけだった。
あっと思った瞬間に、体をかがめていただるまのアッパーカットがヲタの喉にヒットした――かと思ったが、だるまはその腕を止めた。顎まであと五センチというところだ。
「本番やったら食らってたで」
ヲタは安堵して、一歩下がった。「ああ、わかってる……」
「わかってへんやんか。おまえは踏み込みがあと一歩足らんねん」
「けど……」
「けどやあらへん。言い訳すな」
肘を必殺技に使うのはいいアイディアだと思った。元から堅い肘なら鍛えなくていい。だが、それは甘い考えだった。
肘を相手に命中させるには、かなり接近しなければならない。肘はリーチが短いからだ。しかし元々臆病なヲタは、相手に接近すれば先にやられるという恐怖で、だるまの言うとおり、あと一歩が踏み込めなかった。現にヲタはこれまで何十回とだるまを相手にしたが、ただの一度も、肘をかすめることさえできずにいた。実戦では当てるだけではなく、この一撃で相手を倒さなければならない。当てることさえままならないのに、そんなことができるのだろうか……。ヲタは気が重くなった。
「やっぱ……肘はやめたほうがいいかな……」
「ええで。ヤならやめたらええ」だるまはあきれたように首を横に振った。「けど、次になにを選ぶ? どうせそれもうまくいかへんで、また別の技がええって言い出すに決まっとる。ええか。おまえの心ははじめから負けてんねん。たかが練習やのに目が泳いどる。前に比べりゃマシやけどな」
「――わかったよ。やりゃいいんだろ。やりゃあ……」
だるまが言うことは想像できた。なのに、つい弱音を吐いてしまう。
朝日に勝つためにここにいるのに。
何日も、ここでがんばってきたのに。
こんなに真剣に自分につきあってくれるダチがいるのに。
それでもなにか訴えかけずにはいられないのは、まだ自分の中に残っているヘタレ気質ゆえだろう。これをどうにかしなければ、自分は成長できない。
わかっている。
わかっているが――
「さ。も一回、いくで」
だるまがヲタの思考をさえぎった。ヲタは反射的に身構えた。
すると、だるまがあきれたような表情になった。「それがあかんねん。最初から相手の攻撃を受けることが前提になっとるやないか」
「踏み込む前に一発食らうに決まってるじゃねえか」
「だから、その考えがあかんねん。なんで自分で攻撃を組み立てようとせんのや?」
「――ああ、そうか……」
「懐に入れないんやったら、入れるようにすればええ。こんなふうに……なっ……」
だるまが突進してきた。
このとき、ヲタとだるまは二メートルほど離れていたが、構えを解いていたヲタは恐怖で反応できなかった。
だるまの右ストレートが顔面に向かってくる。
ヲタは小さく、ひいっと叫んで後退した。
だるまの突き出された拳は、ヲタの頭部の左側の空を切った。
次の瞬間、ヲタの鼻柱の直前にだるまの肘があった。それは突然、そこに現れたかのように見えた。
九十度に曲げられた肘が、ヲタの鼻の頭を直撃した。
「痛ってええええええええぇぇぇぇぇっ……」
ヲタは叫んで、背中から地面に落ちた。
ゲキカラにやられた「鼻エンピツ」の痛みは、まだ残っている。そこにだるまの肘が入たおかげで、ヲタは鼻を取ってしまいたくなるくらいの激痛を感じた。鼻のあたりが熱くなってきたのは血が出たからか? ヲタは鼻を包んでこすっていた手を見た。血は付いていない。だが、たしかに生ぬるい感触はあった。
「くっそ……」
「悔しいか? 悔しかったらやらんかい。オレを憎まんかい。オレに一発浴びせてみい」
「なんで当てたんだよ……。今まで寸止めしてたのに……」
「油断するな、言うたろ?」
「――ったく……」
ヲタはゆっくりと起き上がり、ジャージの土とほこりをはらった。刺繍をするだけで二万円もかかった、緑色のチームホルモン特注ジャージは、ここ数日だけで数年分の痛みを受けているかのようにぼろぼろだった。刺繍はあちこちほつれているし、膝と肘の部分は両方とも生地がこすれていて、あと少しで穴が空きそうになっている。左胸に縫い付けられた「2―C指原」という名札も、角がほどけている。
――特訓が終わったら新調するかな……。
ふと思ったが、その必要はないことに、ヲタは気づいた。
もうチームホルモンは解散したのだ。
マジジョに戻ったところで自分の居場所はない。
チームホルモンのメンバーたちが自分を許してくれるはずがない。プリクラに負けたら解散と勝手に宣言し、そして負けたのだから。背水の陣で挑んで負けるなんて、本当にかっこ悪いし、情けないと自分でも思う。
でも、だから自分はいまここにいるのだ。
負け続けて、それでもどうにかしたいと思って、こんなに痛くてつらい経験に耐えている。つきあってくれているだるまに感謝こそすれ、憎いなんて思えない。
ヲタは頬が温かくなっているのに気づいた。
鼻から出ていた液体は、血ではなくて、鼻水だった。
自覚なく、ヲタは泣いていた。
いろんなことが頭の中をかけめぐる。
わけがわからなくなってきた。
「どうした、おまえ?」だるまが近づいてきた。
ヲタはそのとき、天啓のように、あることをひらめいた。脳裏をめぐる思考のひとつが、この状況にぴたりと当てはまった。バラバラになったジグソーパズルをかき回していたら、偶然にいくつかのピースがしかるべき場所にはまった――そんな感じだった。
だるまとの距離は一メートル弱――。
ヲタは思いきり、駆けるように突進した。
右ひじを曲げ、自分の顔を防御するように直立させた。拳を力いっぱい握りしめた。
ヲタが動き出してから、肘をだるまの顔面にヒットさせるまで、時間にすれば一秒くらいだっただろう。
だるまはよけなかった。いや、おそらくよけられなかった。
ヲタのひじが、だるまの右頬にヒットした。
頬骨に肘の骨が当たったが、痛くはなかった。
ヲタに近寄ってきていただるまの真正面から的中したヲタの肘は、意図せず、カウンター攻撃となった。
だるまは声さえ上げず、頭をそらし、尻から地面に倒れていった。
ヲタはゆっくりと肘を下げ、だるまを見下ろした。
――おれが、やった……?
なんだか信じられないような気がしたあと、ヲタは怖くなってきた。
中学時代からグレだしたヲタだが、こんなにきれいに技を決めたのは初めてだった。いままでのケンカときたら、それはもうグタグダに始まり、グダグダに終わっていた。相手をバカにする言葉の応酬のあと、つかみあいになって床や地面に倒れ、埃や砂や土まみれになる。パンチの打ち合いなんて一度も経験していない。相手の髪や耳を引っ張り、引っかき、噛み、服を破った。
高校に入ってバンジーと出会ってからは、最終的にはバンジーがケリをつけてくれた。ヲタの役目は、倒れている相手に唾を吐くか、蹴りを入れるかのどちらかだった。動かない相手なら強くなれる。
そんなヲタが、いま、自分の手で、だるまに一撃を与えた……?
「お……おい……。しっかりしろよ……」ヲタはよろよろと近づき、だるまの顔をのぞきこんだ。
もしかして、死んでしまったのではないか、と考え、ヲタはさらに怖くなった。
だが、だるまはもちろん、死んではいなかった。
「いま、のは……効いた、で……」
右の頬が不自然に赤く染まっている。だるまはそこに指をやり、びくんと顔を震わせた。「痛たっ……」
「すまねえ……つい……」ヲタは頭を下げた。
「なんで謝るんや? いいの、いただいたで。やるやないか」
無我夢中でやったことだ。もう一度やれと言われても、できるかどうかはわからない。
「こんなにきれいに決まったのは初めてだ」
「せやろな。オレも初めてや……」だるまが地面に手をついて起き上がり、不適に笑った。「――しかも……見えたで」
「なにが?」
「おまえが朝日に勝つ方法や」
「いまので、か?」
「せや」
「だからおれは踏み込みが弱いんだって」
「わかっとる。せやから、相手に踏み込んできてもらうんや」
「どうやって……」
「わからんか? おまえにしかでけへん作戦や。ヘタレなら、ヘタレを利用すればよかったんや」
だるまはひとりで頷いた。
いやな予感がした。
【つづく】