■懐柔―1■
木曜日――。
登校したサドは教室には行かず、直接生徒会室へと向かった。
朝の喧騒の中、サドが廊下の真ん中を通ると、たむろしていた少女たちは怯えたように端へと移動し、サドへ頭を下げた。サドはそれらを無視したまま、まっすぐ前を向いて歩いた。この学園の、ほとんどすべての生徒がそうするさまは気分が良かった。だが、この恐怖はサドだけに向けられたものではない。みんなはサドの背中に、大島優子という名前を見ている。まあ、そのこと自体は当然のことだ。腹は立たない。
しかし――サドは回想する。
その恐怖がサドだけに向けられていた時期もあったのだ。
大島優子が二年生になって頭角を現しはじめたころ、馬路須加女学園はマリコ――当時はまだ、サドではなくマリコと呼ばれていた――の支配下にあった。トリゴヤ、ブラック、シブヤを擁するマリコは、並み居る不良たちをゲキカラとともに倒し続けた大島優子を敵視していた。早めに潰さなければ、いずれこの学園は大島優子のモノになりかねない。マリコはタイマンのチャンスをうかがっていた。
不思議なものだとサドは思う。あのころは殺してやりたいくらい憎かった大島優子なのに、いまでは彼女に心酔し、すべてを捧げている。大島優子と少しでも長くいたくて、わざと留年までした。
いつから優子に魅かれはじめたのかはわからない。しかし、ようやくタイマンを張ることになったときには、すでに優子を愛しはじめていた。優子に抱かれたいとさえ思っていた。優子のことを考え、毎晩自分を慰めた。ラッパッパリーダーとして潰さなければいけない者を愛してしまったという背徳感が、その快感をより深くしていた。自分のものではなく、優子の指が、舌が欲しかった。優子の指でめちゃくちゃにかき回されたかった。
――おまえはサドだな。
ふと、神社でタイマンを張った、あの日の優子の言葉が聞こえた。これで何千回目だろうか。
階段を昇りきり、生徒会室の前で立ち止まったとき、サドは無意識に眉の上の傷をさわっていた。 それに気づくと、サドは苦笑して、扉をノックした。「――私だ」
「どうぞ」峯岸の声を聞き、サドは中に入った。
生徒会室には、蒸せるような女の香りがした。生徒会の三人は昨日サドが帰ってからも、この部屋でずっと、明日の作戦会議をしていたのだろう。部屋の中央に置かれたテーブルの上にはたくさんの書類が積み重ねられ、開いているスペースには眠気覚ましのためかコーヒーの入ったカップが三つ、チョコレートの菓子類、ガムが置かれている。デスクトップのパソコンにも電源は入ったままで、ハードディスクの回転する音が低くうなり、プリンタからは今も次々と紙が吐き出され、その横にはたくさんの紙が束ねられていた。
サドが室内に入ったとき、峯岸はそのプリンタの横に立っていた。
「おはようございます」峯岸は頭を下げた。
「ああ――」サドはあいづちを打つように応えた。
「ちょっとぉ――」こちらを見た峯岸の目には、ただでさえ厚い涙嚢にうっすらとクマができていた。「あいさつはきちんとしなさい。そういうの、いくないと思う」
サドは苦笑して、「ああ――おはよう」
「そ。気持ちいいでしょ?」
「まあな」
起きていたのは峯岸だけで、生徒会役員の二人は眠っていた。
平松加奈子は机の上に突っ伏している。丸くなった背中に、窓からの陽光が差し、一本の筋を描いていた。
佐藤すみれは椅子の背もたれに体をあずけ、頭をそらしている。完全に熟睡しているのか、大きく口を開き、なんともまぬけな寝顔をさらしていた。百年の恋も冷める、とよく言うが、まさにそんな寝顔だった。
寝ている二人を見ているサドに気づいた峯岸が、「さっきまで起きてたんだけどね。一生懸命やってくれたから、少し休んでもらってる」
「おまえはいいのか?」
「私は平気。生徒会長だから」峯岸は笑って、机の上から紙束をサドに渡した。「作戦計画書」
サドはそれを受取り、読み始めた。
そこにはサドが考案した作戦を実行にうつすための、具体的事案の数々が記されていた。
まずは校長に今日と明日を臨時休校にする許可をもらうことからはじまり、バリケードの設置に関わる資材の調達、その実施に際して必要とされる人員と配置、そして全校生徒をこの学校に宿泊させるための段取り、そして作戦が終了したのちの後片付けの段取りなど――。
バリケードの制作方法は図になっており、制作担当者に配る予定のチラシも作成されていた。たった12時間ほどで、ゼロからこれを作り上げた生徒会と、それを指揮した峯岸に、サドは感心した。
「よくできているな。感謝する」
「それだけ? もうちょっと褒めてもらいたいな」
「もうちょっと?」
「こういうこと――」
十センチの身長差がある峯岸の両手がサドの首にまきついてきた。サドはその瞬間に峯岸の意思を理解し、自分から唇を重ねた。
ひさしぶりに吸う峯岸の唇はやわらかく、眠気覚ましにでも飲んでいたのか、コーヒーの味がした。それは舌をからめると、より強くなった。
サドは唇を重ねたまま、「私は、コーヒーは嫌いなんだ……」
峯岸もさのまま答えた。「ココアなんて甘ったるいもん……」
それから峯岸は、サドのもっとも敏感な部分を愛撫するように、舌を高速で動かしてきた。それは直接的な快感にはつながらないものの、この舌の動きで体を隅から隅まで攻められることを連想させた。サドの体の芯に、じんわりとした痺れがきた。サドは峯岸を強く抱きしめた。
サドは峯岸のセーラー服の上着の下から、細く美しい腕を入れた。背の低い峯岸のセーラ服を完全にめくりあげなければ、サドの腕は自由に動けなかったが、このもどかしさは好きだった。息遣いが荒くなっていくのが自分でもわかった。サドの指は、しっとりと汗で湿った峯岸の肌を這い、上へ上へと向かった。やがて、カップ台の芯地に入っているワイヤーの硬い感触がしたので、サドはそれをめくりあげようとした。
「――あっ、ちょっ……ちょっと……待って……」峯岸はあわてて唇を離した。「そこは……いまはキスだけ」
「なんだ、最後までするんじゃないのか」そんなことにならないことを知っていて、サドはからかうように笑った。峯岸の上着から右手を抜き、それをプリーツスカートの上に添え、中指でゆっくりと焦らすように敏感な部分をさすった。「――我慢できるのか」
「トリゴヤと一緒にしないで」峯岸は腕をとき、サドから離れた。「二人も、いつ起きるかわからないし。その代わり、この作戦が成功したら――抱いて」
言われなくてもそうするつもりだった。「あの二人も混ぜるか」
「だーめ。気が散る。それに、あの子たち、ノンケだし」
「そうなのか?」
「卒業までには女の良さを教えるつもりだけど」
「その気になったらいつでも抱いてやる。今日の礼だ。伝えておいてくれ」
「もちろんっ」峯岸はサドの顎にかすかにキスをした。「それじゃあ、まずは校長に許可をもらわないに行かないとね」
「先公の許可なんかいるか? やっちまえばこっちのもんだろ?」
「それはそうだけど、そういうのって、やっぱ、いくないよ。私たちはあくまでも馬路須加女学園の生徒なんだから、筋はちゃんと通すべきでしょ?」
「それはそうかもしれないな。がんばってきてくれ」
「なに言ってるの? あなたも行くのよ、一緒に」
「――ケンカをするから授業をdiscontinuation(中止)しろ、と……?」
現馬路須加女学園校長であり元ラッパッパ初代部長の野島百合子は、椅子に座ったままテーブルの向こう側からサドと峯岸を見ていた。「それが生徒会の出したconclusion(結論)なんですね、ミス・ミネギシ?」
「はい。生徒会は今回、吹奏楽部――ラッパッパとの合同作戦を展開します」峯岸はきっぱりと言った。
サドとともに校長室を訪れた峯岸は、事の次第を隠さず校長に話した。
亜理絵根女子高等学校がこれまで馬路須加女学園の生徒に何をしてきたか、そして明日、なにをしようとしているのか。また、この戦いから逃げ出したりすることがあれば、それは校長の名とともに永遠に馬路須加女学園の歴史に刻まれること。そうなれば、せっかく事態をおさめた矢場久根女子高校との争いも再燃し、生徒会として学園の自治を保障できないこと。
「educator(教育者)として、そんな要求は飲めませんよ、ミス・ミネギシ」
「いえ。教育者――というか、馬路須加女学園の教師であるからこそ、そうしてほしいんです」
「よろしい、ミス・ミネギシ。私をpersuasion(説得)してみなさい」
野島百合子はお手並み拝見といった感じで、机の上に両肘を乗せ、頬杖をついた。
「説得? もう、そんな状況じゃないんですよ、校長先生っ」峯岸は芝居がかった口調で叫び、机を両手で叩いた。その大きな音に、サドは少し驚いた。「馬路須加女学園がどうしてこんなに荒れているのか……。私はいろいろと調べました。OGに話を聞きたり、昔の資料にあたったり……。素行不良で学校の爪はじき者となった生徒に勉学の機会を与えるという馬路須加女学園のこの方針は、十年ほど前から作られたものだそうですね。当時の経営陣は、将来確実に訪れる少子化により、学園の経営はますます困難になっていくことを知っていました。なにもしなければ、他の高校に生徒をとられてしまう。そのために馬路須加女学園は、他のどの学校もやらないことをした。それが、どんな生徒も受け入れる、という方針です。教育者としてはすばらしい発想です。ラッパッパ初代部長の校長が呼ばれたのも、この方針を実現できる手腕を持っていると期待されたからではありませんか。しかし学園は経営陣の想像以上に荒れてしまった。びっくりしたでしょうね。これじゃあ、まるで80年代の校内暴力全盛期じゃないか、と。ですが、これが幸いしました。近隣県の中学校から、名うての不良どもが集まってきた。皮肉なことに、馬路須加女学園は荒れることでブランド化したのです。学園の修繕費は普通以上にかかるものの、それは学費に転嫁すればいい。少しくらい学費が高くとも、手の付けられない不良の親は、自分の娘が高校卒業の資格がもらえるのなら、喜んで財布を開くでしょう。そのおかげで馬路須加女学園は経営が成り立っている――ちがいますか、校長?」
野島百合子は薄い笑みを浮かべて、肯定も否定もしなかった。
「今回の戦いを避ければ、馬路須加女学園のブランドの価値は下がります。来年度の入学希望者は亜理絵根女子高等学校に流れていくでしょう。けれども、戦えば、勝っても負けても価値は下がらない。逃げることは最悪の事態しか生みません。そして戦ったなら、私たちは負けません――ね、サドさん?」
急に振られたサドはちょっと焦ったものの、それを表情に出さぬよう、「ああ」と頷いた。
「普段は対立している生徒会とラッパッパがタッグを組んだんです。負けるはずはありません。作戦も立てました。昨日は生徒会の役員三人で徹夜して具体的計画を練りました」峯岸は持ってきていた作戦要綱を校長に渡した。
A4版で五十ページほどの紙の左肩がホッチキスで止められているその束を、野島百合子は食い入るように読み始めた。
サドは珍しく緊張している自分を感じていた。校長の許可が下りようが下りまいが、作戦は実施するつもりだった。いざとなればラッパッパが、校長をはじめ、全教職員を拉致する。それは多分、校長もわかっているだろう。なにしろこの女は、ラッパッパの初代部長なのだ。
それでもサドが峯岸の演説につきあっているのは、彼女の顔を立てるためだった。生徒会と良好な関係を作っておくことは、自分が去ったあとのラッパッパにとって悪いことではない。むしろ必要なことだ。
理由はもうひとつあった。峯岸がどこまでできる人間なのかを見極めたかったのだ。そしていまのところ、サドは峯岸を完全に信用しつつあった。
だが、こうしているあいだにも貴重な時間が失われていく――優子さん――かと思うと、サドはかなりイライラとした。そうすれば一秒でも早く読み終わるかのように、サドはずっと野島百合子を凝視した。
野島百合子がおおまかにでも、作戦要綱を読み終わるまでたっぷり五分は待った。顔を上げ、渋い表情で峯岸とサドを交互に見た。
「――ケンカを理由に授業をdiscontinuationすることはできません」
――やっぱりか。
サドは落胆したが、これで腹は決まった。
――先公どもを全員拉致する。
「――ですが……っ」峯岸は大きな目を見開いた。
「最後まで聞きなさい。ミス・ミネギシ。しかし、来年の体育祭の準備の予行ということでなら、admit(認める)しましょう。その最中に、他校の生徒が妨害にやってきたとしたら――」野島百合子は少女がいたずらをするような目つきになった。「戦わざるをえないでしょうね」
「校長……っ」峯岸の大きな瞳が潤みはじめた。「ありがとうございますっ」
腰を九十度に折り、頭を下げた峯岸はしばらくそのままでいた。
サドも峯岸に倣った。峯岸ほど深くはないが、サドは頭を下げた。
「ミス・シノダ」
「はい」サドは顔を上げた。
サドと目が合った瞬間、野島百合子の目の色がすっと変わった。そこには教育者としての顔はなかった。かつて燃えたぎっていたであろうヤンキーの血が見せた、サドでさえ一瞬たじろいだほどの眼力だった。「いいか、やるからにはラッパッパの名誉を汚すんじゃねぇぞ。絶対に勝て。勝てなかったら、おまえのresponsibilityだ。腹を切る覚悟はあるな?」
――ある。
「あります」サドは凜として答えた。
「よろしい」野島百合子は満足げな笑みを浮かべた。
峯岸が直立した。
「他の教職員たちには私がpersuasionしておく。あなたたちはこの作戦要綱にしたがって、たった今から準備をなさい」
「わかりました。あと、放送室と体育館の使用許可もください。これから全校生徒に向け、体育館に集まるように放送します」
「いいでしょう。放送室や体育館だけでなく、このschoolすべての施設を使ってかまいません」
「ありがとうございます」
「Quitters never win, and winners never quit. ――私の好きな言葉です。意味は自分で調べなさい」
【つづく】