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■決戦―9■
振り返ったヲタが最初に見たのは、そこに立っている女の脚だった。黒いローファーに白い靴下、そしてスマートな脛と膝小僧――。
と、そこまで見上げたときに、そのローファーのつま先がこちらに向かって蹴りだされた。
ヲタは反射的に身をかわした。地面に転がると、砂ぼこりが立ちのぼった。
「ヲタっ」だるまの声。
「見つかったぞっ」
ヲタは叫んだ。もう、こそこそしていても仕方ない。
ケリをかわそうと転がり続けているうちに、背中をなにか硬いものにぶつけた。ヲタはそれがなにか確認しようともせず、立ち上がる動作に入った。その途中、右手がスカートのポケットのあたりに触れた。携帯がなくなっていた。ハッとしたが、いまは探している暇などない。ヲタは相手の体勢を確認しようと顔を上げねと同時に立ち上がった。
ツインテールに前髪パッツンという髪型の、見知らぬ女が二メートルほど離れた茂みの中に立っている。とても幼そうな顔立ちだった。
ヲタはもっと距離をとろうと右脚を下げたが、背後には車輪のない完全に錆びついた乗用車があり、それ以上下がるのは無理だった。乗り越えることのできない高さではなかったが時間がかかりそうだ。おそらくすぐに捕まってしまうだろう。
「麗奈」だれかの声。だるまではない。「なにしてんだ?」
「こんなとこに、ゴキブリがいたんですよっ」
麗奈は余裕があるのか、ヲタから目を離して振り返った。
ヲタは地面に視線を移した。武器になるものを探した。
ヲタから二歩の距離に、ひしゃげたパイプが落ちていた。
「ざけんなっ」ヲタは駆けた。そしてパイプを掴み、麗奈の背中めがけて振り下ろした。
それとほぼ同時に、麗奈がこちらを向いた。
「あらよっ……」麗奈は体を反らし、事も無げにヲタの一撃を避けると、すぐに反撃を開始した。ポニーテールがそれに合わせてふわっと揺れる。
突然、目の前に正拳突きが現れた。
もう避けることも反撃することもできない間合いだった。ヲタは少しでも衝撃を和らげようと、顔の前で両手をクロスした。
「うぉりゃああぁッ」だるまの声がすぐ近くで聞こえた。
だるまはヲタの右側から突然現れた。ドシンと重たい響きがして、麗奈に体当たりを食らわせただるまがもろともに地面に倒れた。だるまは麗奈より先に起き上がると、ツインテールを両方とも引っ張り、その額に頭突きを食らわせた。ゴッ、という鈍い音がして、麗奈は頭をのけぞらせると、そのまま動かなかった。
「どんなもんじゃいッ」
そのとき、アリ女のだれかが向こうで指示を出す声が聞こえた。「NEO、ゴキブリ駆除に行ってきな」
すると、アリ女の連中のうち数人がこちらに向かって歩きだした。知らない顔ばかりだ。
だるまは素早く立ち上がり、「ヲタ、早よ、行けッ」
「えっ……」
ヲタはだるまの言わんとしていることがわからなかった。見つかったからには、不本意ながらここで戦うしかないではないか。
「なにをグズグズしとるんや。さっさと学校に行け、言うとんじゃッ」
「おまえはどうすんだよ」
「ここはオレに任せるんや……」だるまはいかにも作りものといった真顔をヲタに向け、そのあとでにやりと不気味に笑った。「前から一度言ってみたかったんや、このセリフ」
「ふざけんな、おめえだけ置いていけるか」
アリ女の生徒たちは、すでにあと五メートルほどの距離まで近づいてきている。
「ええから早よせえッ」だるまが叫んだ。「ここにいたって多勢に無勢……二人ともやられるだけや。おまえにはやるべきことが残っとるやろ」
朝日奈央の顔が浮かんだ。「――そ、それはそうだけど……おめえを見捨てて逃げるなんて……」
「見捨てられるわけやないッ」だるまは立ち上がって、ヲタに背を向けて両手を広げた。「オレがおまえに託すんや。マジ女の未来を」
「でも……」
「行くほうが楽だと思っとるんなら、それはまちがいや。ええか、楽なのはオレのほうや。希望を託されるおまえのほうが辛いやろ」
「そ、それはそうかもしれねえけど……」
「だからおまえは心置きなくここから去れ。そして、あとでおれを恨め。あのとき、楽な道を選びやがったなって……」
「だるま……」
だるまの言っていることは理屈としては正しい――が、正しいからこそ、その通りにこの場を去るわけにはいかなかった。この一週間で、二人のあいだには理屈を超えたものが生まれた。それがいま、ヲタの脚をこの場に縛り付けていた。
ヒロイックな破滅願望や、のちに対峙しなければならない朝日との闘いへの恐怖、そして自分が卑怯者になってしまうのではないかという利己的な気持ちが、ヲタにないと言えば嘘になる。この場で負けてしまえば、その気持ちは充足される。
――だが、しかし。
こんなところで地を這わされるために、自分たちは辛い体験をしてきたわけではない。
勝つためだ。
勝つためだけだ。
ヲタがグズグズと態度を決めかねているあいだに、NEOと呼ばれた生徒たち五人がだるまに襲いかかった。
だるまはその大柄な体を堤防のように屹立させたまま、一人でアリ女の生徒五人と向かい合った。
「さっさと行かんかいッ」だるまはつかみかかられた相手の肘をねじり、脚では別の相手に蹴りを加えようとしていた。しかし、背の高いカエルのような顔をした女がいままさに、だるまの顔面に拳を叩き込む寸前だった。残る二人はだるまの背後に周り、足掻く巨体を押さえつけようとしている。
五人がヲタに向かってこない理由は明らかだ。誘っているのだ。ダチが袋叩きに合うさまを見せつけ、助けに来たところを潰す――。
助けるべきか。
いや、助けることができるのか。
だるまの頭が大きく、そして激しくのけぞった。カエル女のパンチがもろに入ったのだ。
逡巡だけでなく、恐怖もヲタの脚をすくめていた。
「どうすりゃ……どうすりゃいいんだよ……ンなこと、決められねえよ……」
だるまはそのまま後ろに倒れるかのように思えた。実際、脚はふらっとよろけ、腰も落ちそうだった。しかし、だるまは自力でふんばった。
「オレは……オレは、負けへんでェッ……。そんなパンチ、蚊が止まったくらいのもんや……」
ちらりと見えただるまの横顔が真っ赤に染まっていた。
だるまとの距離は三メートルほど――走れば数秒で助けられる。
カエル女が今度は、だるまの腹に強烈なフックをお見舞いした。
「――なん、や……ンなもん……たいしたこと、あらへん……」だるまは髪を引っ張られ、腕の関節を決められ、そして膝蹴りを入れられていた。「オレは……負けてへんで……。負けるまで、負けへんで……」
そしてようやく、ヲタは決意した。
「――だるまッ……任せたッ」
ヲタは踵を返し、脱兎のごとく走りだした。
馬路須加女学園へ向かって。
のちに卑怯者と呼ばれてもいい。いまは生き延びることだけを考えよう。
ヲタは走った。
学園を囲む塀にはすぐにたどりついた。ヲタはそれに沿って、さらに走った。もう少し行けば、遅刻してきた者がこっそり侵入するための、塀を乗り越えるハシゴが隠してあるのだ。教師たちは知らないが、産廃の山の中にそれがあることはほとんどの生徒が知っている。
ヲタは振り返らず、無我夢中で走った。
そのとき、断末魔の、だるまの叫びが聞こえた。
「――ヲタぁ、てっぺん、獲るんやでぇッ……」
ちらりと振り返る。そこでヲタは、だれも追ってきていないことに気づいた。
それでもヲタは走った。
どこからかまた新たな敵が現れ、あるいは俊足の敵に追いつかれるのではないかという恐怖で、喉の奥が完全に乾いて、痛みさえ感じるほどの全力疾走のすえ、ヲタはハシゴが隠してある産業廃棄物の山にたどりついた。塀と、倒された冷蔵庫のあいだに手を入れ、錆びた鉄の感触をたしかめる。あった。ヲタは過呼吸に堪えながら、それを思いっきり引っ張り出した。
ガランと音を立て、重いハシゴを塀に立て掛ける。
急いでハシゴを登り切ると、もう一度、ヲタはだるまのいた場所に視線を移した。
いまや遥か向こうの草むらで、だるまは仰向けに倒れていた。表情はわからなかった。まぶたは両方とも腫れ、鼻は曲がり、唇のあたりは血で染まっていたからだ。だるまを屠った五人は扇形に立ち、半殺しにしただるまをヲタに見えるようにした。
《だるま……おめえの仇はきっと取る。だから、いまは……すまねえっ……》
ヲタは五人の顔を記憶に刻むと、塀の内側へぶら下がり、小さく飛び降りた。
そして屹然として校舎へ、ふたたび走り出した。
【つづく】
振り返ったヲタが最初に見たのは、そこに立っている女の脚だった。黒いローファーに白い靴下、そしてスマートな脛と膝小僧――。
と、そこまで見上げたときに、そのローファーのつま先がこちらに向かって蹴りだされた。
ヲタは反射的に身をかわした。地面に転がると、砂ぼこりが立ちのぼった。
「ヲタっ」だるまの声。
「見つかったぞっ」
ヲタは叫んだ。もう、こそこそしていても仕方ない。
ケリをかわそうと転がり続けているうちに、背中をなにか硬いものにぶつけた。ヲタはそれがなにか確認しようともせず、立ち上がる動作に入った。その途中、右手がスカートのポケットのあたりに触れた。携帯がなくなっていた。ハッとしたが、いまは探している暇などない。ヲタは相手の体勢を確認しようと顔を上げねと同時に立ち上がった。
ツインテールに前髪パッツンという髪型の、見知らぬ女が二メートルほど離れた茂みの中に立っている。とても幼そうな顔立ちだった。
ヲタはもっと距離をとろうと右脚を下げたが、背後には車輪のない完全に錆びついた乗用車があり、それ以上下がるのは無理だった。乗り越えることのできない高さではなかったが時間がかかりそうだ。おそらくすぐに捕まってしまうだろう。
「麗奈」だれかの声。だるまではない。「なにしてんだ?」
「こんなとこに、ゴキブリがいたんですよっ」
麗奈は余裕があるのか、ヲタから目を離して振り返った。
ヲタは地面に視線を移した。武器になるものを探した。
ヲタから二歩の距離に、ひしゃげたパイプが落ちていた。
「ざけんなっ」ヲタは駆けた。そしてパイプを掴み、麗奈の背中めがけて振り下ろした。
それとほぼ同時に、麗奈がこちらを向いた。
「あらよっ……」麗奈は体を反らし、事も無げにヲタの一撃を避けると、すぐに反撃を開始した。ポニーテールがそれに合わせてふわっと揺れる。
突然、目の前に正拳突きが現れた。
もう避けることも反撃することもできない間合いだった。ヲタは少しでも衝撃を和らげようと、顔の前で両手をクロスした。
「うぉりゃああぁッ」だるまの声がすぐ近くで聞こえた。
だるまはヲタの右側から突然現れた。ドシンと重たい響きがして、麗奈に体当たりを食らわせただるまがもろともに地面に倒れた。だるまは麗奈より先に起き上がると、ツインテールを両方とも引っ張り、その額に頭突きを食らわせた。ゴッ、という鈍い音がして、麗奈は頭をのけぞらせると、そのまま動かなかった。
「どんなもんじゃいッ」
そのとき、アリ女のだれかが向こうで指示を出す声が聞こえた。「NEO、ゴキブリ駆除に行ってきな」
すると、アリ女の連中のうち数人がこちらに向かって歩きだした。知らない顔ばかりだ。
だるまは素早く立ち上がり、「ヲタ、早よ、行けッ」
「えっ……」
ヲタはだるまの言わんとしていることがわからなかった。見つかったからには、不本意ながらここで戦うしかないではないか。
「なにをグズグズしとるんや。さっさと学校に行け、言うとんじゃッ」
「おまえはどうすんだよ」
「ここはオレに任せるんや……」だるまはいかにも作りものといった真顔をヲタに向け、そのあとでにやりと不気味に笑った。「前から一度言ってみたかったんや、このセリフ」
「ふざけんな、おめえだけ置いていけるか」
アリ女の生徒たちは、すでにあと五メートルほどの距離まで近づいてきている。
「ええから早よせえッ」だるまが叫んだ。「ここにいたって多勢に無勢……二人ともやられるだけや。おまえにはやるべきことが残っとるやろ」
朝日奈央の顔が浮かんだ。「――そ、それはそうだけど……おめえを見捨てて逃げるなんて……」
「見捨てられるわけやないッ」だるまは立ち上がって、ヲタに背を向けて両手を広げた。「オレがおまえに託すんや。マジ女の未来を」
「でも……」
「行くほうが楽だと思っとるんなら、それはまちがいや。ええか、楽なのはオレのほうや。希望を託されるおまえのほうが辛いやろ」
「そ、それはそうかもしれねえけど……」
「だからおまえは心置きなくここから去れ。そして、あとでおれを恨め。あのとき、楽な道を選びやがったなって……」
「だるま……」
だるまの言っていることは理屈としては正しい――が、正しいからこそ、その通りにこの場を去るわけにはいかなかった。この一週間で、二人のあいだには理屈を超えたものが生まれた。それがいま、ヲタの脚をこの場に縛り付けていた。
ヒロイックな破滅願望や、のちに対峙しなければならない朝日との闘いへの恐怖、そして自分が卑怯者になってしまうのではないかという利己的な気持ちが、ヲタにないと言えば嘘になる。この場で負けてしまえば、その気持ちは充足される。
――だが、しかし。
こんなところで地を這わされるために、自分たちは辛い体験をしてきたわけではない。
勝つためだ。
勝つためだけだ。
ヲタがグズグズと態度を決めかねているあいだに、NEOと呼ばれた生徒たち五人がだるまに襲いかかった。
だるまはその大柄な体を堤防のように屹立させたまま、一人でアリ女の生徒五人と向かい合った。
「さっさと行かんかいッ」だるまはつかみかかられた相手の肘をねじり、脚では別の相手に蹴りを加えようとしていた。しかし、背の高いカエルのような顔をした女がいままさに、だるまの顔面に拳を叩き込む寸前だった。残る二人はだるまの背後に周り、足掻く巨体を押さえつけようとしている。
五人がヲタに向かってこない理由は明らかだ。誘っているのだ。ダチが袋叩きに合うさまを見せつけ、助けに来たところを潰す――。
助けるべきか。
いや、助けることができるのか。
だるまの頭が大きく、そして激しくのけぞった。カエル女のパンチがもろに入ったのだ。
逡巡だけでなく、恐怖もヲタの脚をすくめていた。
「どうすりゃ……どうすりゃいいんだよ……ンなこと、決められねえよ……」
だるまはそのまま後ろに倒れるかのように思えた。実際、脚はふらっとよろけ、腰も落ちそうだった。しかし、だるまは自力でふんばった。
「オレは……オレは、負けへんでェッ……。そんなパンチ、蚊が止まったくらいのもんや……」
ちらりと見えただるまの横顔が真っ赤に染まっていた。
だるまとの距離は三メートルほど――走れば数秒で助けられる。
カエル女が今度は、だるまの腹に強烈なフックをお見舞いした。
「――なん、や……ンなもん……たいしたこと、あらへん……」だるまは髪を引っ張られ、腕の関節を決められ、そして膝蹴りを入れられていた。「オレは……負けてへんで……。負けるまで、負けへんで……」
そしてようやく、ヲタは決意した。
「――だるまッ……任せたッ」
ヲタは踵を返し、脱兎のごとく走りだした。
馬路須加女学園へ向かって。
のちに卑怯者と呼ばれてもいい。いまは生き延びることだけを考えよう。
ヲタは走った。
学園を囲む塀にはすぐにたどりついた。ヲタはそれに沿って、さらに走った。もう少し行けば、遅刻してきた者がこっそり侵入するための、塀を乗り越えるハシゴが隠してあるのだ。教師たちは知らないが、産廃の山の中にそれがあることはほとんどの生徒が知っている。
ヲタは振り返らず、無我夢中で走った。
そのとき、断末魔の、だるまの叫びが聞こえた。
「――ヲタぁ、てっぺん、獲るんやでぇッ……」
ちらりと振り返る。そこでヲタは、だれも追ってきていないことに気づいた。
それでもヲタは走った。
どこからかまた新たな敵が現れ、あるいは俊足の敵に追いつかれるのではないかという恐怖で、喉の奥が完全に乾いて、痛みさえ感じるほどの全力疾走のすえ、ヲタはハシゴが隠してある産業廃棄物の山にたどりついた。塀と、倒された冷蔵庫のあいだに手を入れ、錆びた鉄の感触をたしかめる。あった。ヲタは過呼吸に堪えながら、それを思いっきり引っ張り出した。
ガランと音を立て、重いハシゴを塀に立て掛ける。
急いでハシゴを登り切ると、もう一度、ヲタはだるまのいた場所に視線を移した。
いまや遥か向こうの草むらで、だるまは仰向けに倒れていた。表情はわからなかった。まぶたは両方とも腫れ、鼻は曲がり、唇のあたりは血で染まっていたからだ。だるまを屠った五人は扇形に立ち、半殺しにしただるまをヲタに見えるようにした。
《だるま……おめえの仇はきっと取る。だから、いまは……すまねえっ……》
ヲタは五人の顔を記憶に刻むと、塀の内側へぶら下がり、小さく飛び降りた。
そして屹然として校舎へ、ふたたび走り出した。
【つづく】