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『泳げない女』を見ました。

 23, 2007 00:25
 さて、遅くなりましたが感想を。

 この映画を、ぼくは黄金咲ちひろさん発信の情報によって知ったので、「wetフェチ」というフィルターを通して見た、ということをまずは了解してほしい。観客が何のフィルターも通さずに作品と触れ合うことは稀で、それが人によってちがうからこそ受け取り方がちがい、面白いのだと思う。
 『泳げない女』に関して言えば、堀井監督がwetフェチであるかどうかは関係なく、出来上がったものにそういう要素がどれだけ入っているかが、ぼくにとっては見所だった(黄金咲さんのブログなど読むと、監督にはそういう気はないらしい)。
 ただし、監督には肉体そのものに関するフェティッシュな思いがあるのではないだろうか?
 肉体そのものにフェティシズムを感じるというのは実は矛盾していて、男にとって女のからだがエロく見えるのは当たり前なのだ。それはフェチではなく、正常な欲求である。
 しかし、ぼくがこの映画に感じたのはそういう欲求ではない。監督のフェチシズムは表面的な肉体だけではなくて、もっと内包的なものに向いているのではないだろうか。
 たとえば。
 物語の後半で、ちひろさん扮する多菜子は恋人の脚の指を挿入される。これはなかなかにエロく、なかなかに情感のあるシーンで、ぼくはこの映画の中で一番好きな場面だったのだが(wetシーンじゃないんだ?)、普通は女の中には挿れない脚の指という部分に監督の肉体に対する情念を感じた。
 だから物語の途中で何度か見られる多菜子のwetシーンは、濡れることによる心理描写という意味合いもさることながら、張りつく衣服を想像させることでより一層、肉体の美しさやエロさを引き出しているのではないだろうか?
 また、これはメルマガにも書いたが、この作品に限らず映画やドラマでは寂しさや悲しみという感情を表現するときに雨や水が使われることは多くある。しかし水は負の感情を表らすだけではなく、ハレや弾ける場面でも効果的に使用される。つまり水はあくまでも媒介でしかなく、それがどう観客に写るかは作品のトーンによるのだ。
 主人公の多菜子は、物語の節目節目で濡れる。ここで言う「濡れる」にはいろんな意味があるが、そこは監督の意図だろう。
 タバコを吸いながら水没していく多菜子は『泳げない女』である。そしてどれだけ「濡れても」、泳げずにいる。水の流れに逆らえず、ひたすらに堕ちていく。男に溺れ、男という水圧に潰されそうになっても。
 だからそんな多菜子の人生を描くうえで、やはり水というキーワードは不可欠だったのだ。終盤で雨に打たれて町をさまよう多菜子がずぶ濡れなのも、そういう理由なのだろう・・・。
 と、映画評でもなんでもない、単なる感想と理屈バカぶりですが、思ったままに書いてみました。
 正直言って、ぼくはインディーズ系の映画(という表現で言いのかな・・・?)を観たことはないので、こういう作品の「文体」というものを知りません。なので、とんでもない的外れな意見かも・・・。時折挿入される劇中劇的なナレーションや歌などで物語の説明をしていく手法など、いつも見ているハリウッド系の映画とはまったくちがう色があって面白かったです。この系統の映画もいろいろ見てみないとだめですね。

 …と、書いてはみたものの、なんかとっちらかった文章ですね。意味わからなかったらごめんなさい…。

 さて、ここからは映画の周辺の話。
 当日は黄金咲ちひろさんが舞台挨拶もするということで、ぼくはとても緊張していました。というのも、ぼくはあらたまった場所での挨拶とか、見知らぬ人たちがいる空間は苦手なのです。また、ちひろさんは人気者ですから話すきっかけがあるかどうかもわからず、かといって人の間に入っていくようなこともできません。ちひろさんはミクシィの日記にコメントくれたりしているので、ぼくがこの日に映画を見に行くことは知っているわけです。それが、声をかけるタイミングが難しかったからといって挨拶もせずに帰るわけにもいかず・・・いや、ホントに困りました。
 でも、上映が終わって舞台挨拶があり、そして狭いロビーでちひろさんを見つけたときは思い切って挨拶をしました。短い時間ですが、ひさしぶりにお話しできて嬉しかったです。お隣にいたかたも、どこかで見たような・・・と思っていたら、南風マロンさんでした。こちらからは名乗ることを忘れてしまって申し訳ありませんでした・・・、と、ここで謝っても意味ないか。

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