2ntブログ

スポンサーサイト

 --, -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

史実とは?

 18, 2008 22:49
 このあいだ、軍事に詳しい友だちと話していたときのこと。
 映画『硫黄島からの手紙』になり、史実ではどうだったのかという話題になると、彼は「記録フィルムを見たが、もっと砲撃がすごかった。映画なんだからもっと派手にしてもいいのに、あれでは史実に負けてしまっている」と言う。
 なるほど、彼の言うのもわからないではないが、ふと考えてみた。
 歴史上のある出来事を映画にする際、それは史実に完全に基いていなければいけないのだろうか?

 答えは、否だ。

 ドキュメンタリー映像について考えてみよう。
 一般的に、ドキュメントというと「事実」を写しているものだと思われている。写っている人が演技をしていない、特殊撮影技術を使っていない、脚本がない、などドキュメンタリーがドキュメンタリーでありえる要素はいろいろあるだろう。けれども、それが揃っていたら、その映像は「事実」を写していると言えるのか?

 答えは、否だ。

 カメラにはフレームというものがある。カメラのいる場所全てを映像におさめることはできない。したがって、監督はその空間をどこかで切り取らなければならない。その切り取られた部分になにがあったのかが重要な問題だ。監督はそれを不要だと思ったから写さなかったわけで、ここには監督の恣意的な選択がある。
 また、アングルの問題もある。被写体をどこから写すかによって、見る側の印象を操作することができる。これも恣意的である。
 つまり、映像とは監督の恣意的選択によって作られる「事実」だ。これはドキュメンタリーだけに言えることではなく、すべての映像に当てはめることができる。

 ここで冒頭の話に戻ろう。
 ぼくの友だちが見たという記録フイルムは「事実」を写しているのか?

 答えは、否だ。

 記録フィルムであっても映像は恣意的なのだから、これは一カメラマンの写した映像に他ならない。つまり、カメラマンのなんらかの意思がそこには入っているはずだ。
 この意思が問題なのである。
 ある事件を、史実を元に新たに映像化する場合、基本的には一からすべてを作らなくてはいけない。
 脚本には脚本家の、カメラマンにはカメラマンの、そして監督には監督の意思がある。それらをひとつにまとめるのは容易ではない。
 どうしたってだれかの気持ちが入ってくる。
 そしてそれがあからさまな場合、監督はそれを編集でなくすこともできる。代わりに自分の思いを入れることだってできる。
 史実より、そういった製作者側の気持ちがフィルムに表れることのほうが大切なのではないだろうか?
 だからぼくは、事実を元にした映画が必ずしも史実通りにならなくてもいいと思う。また、史実通りに、なんてことはできっこない。歴史は見る人によって言い分がちがってくるのだから。

COMMENT - 0

WHAT'S NEW?