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ぼくがいわゆる「いい話」や「泣ける話」ってのを嫌いな理由は、結局「いい人同士の話でしかない」ということに尽きる。
「いい話」や「泣ける話」に登場するのは善人だけだ。善人がお互いに相手や状況を熟慮して行動するんだから、そこでは誰も傷つかない。
そんな「話」を読んで面白いか?
また、この手の話を素直に受け止める人たちは、善意が人を傷つけることがある、なんて思いもしない。そしてこのほうが悪意で人を傷つけるより何倍もたちが悪いということも。
てゆーか、そもそも善人なんていやしない。
だれもが裏表を持っているし、人間なんだからそれでいい。裏の顔をどれだけ許容できるかが、人間の付き合いにおいて大切なのだと思う。
それなのに、「いい話」は人間の一面にだけにしか光を当てない。ぼくのような、卑屈で陰険な人間はそんなのは嘘だ、としか感じられない。
「悪い話」にも同様のことが言える。たとえば人を殺した悪人にはどれだけ無茶苦茶なことを言っても許されるようだ。被害者は殺されたという事実によって一様に善人になる。いや、もちろん殺人は「悪」だと思うけど、事件によってはそう簡単に善悪を決められるものでもない。
どうして一面だけしか見ようとしないんだろう。人間は多様だからこそ、すばらしいのに。
というわけで、今日は東京競馬場に行ってきます(前段の話と関係ないし)。
「いい話」や「泣ける話」に登場するのは善人だけだ。善人がお互いに相手や状況を熟慮して行動するんだから、そこでは誰も傷つかない。
そんな「話」を読んで面白いか?
また、この手の話を素直に受け止める人たちは、善意が人を傷つけることがある、なんて思いもしない。そしてこのほうが悪意で人を傷つけるより何倍もたちが悪いということも。
てゆーか、そもそも善人なんていやしない。
だれもが裏表を持っているし、人間なんだからそれでいい。裏の顔をどれだけ許容できるかが、人間の付き合いにおいて大切なのだと思う。
それなのに、「いい話」は人間の一面にだけにしか光を当てない。ぼくのような、卑屈で陰険な人間はそんなのは嘘だ、としか感じられない。
「悪い話」にも同様のことが言える。たとえば人を殺した悪人にはどれだけ無茶苦茶なことを言っても許されるようだ。被害者は殺されたという事実によって一様に善人になる。いや、もちろん殺人は「悪」だと思うけど、事件によってはそう簡単に善悪を決められるものでもない。
どうして一面だけしか見ようとしないんだろう。人間は多様だからこそ、すばらしいのに。
というわけで、今日は東京競馬場に行ってきます(前段の話と関係ないし)。