■追撃-1の2■
その不意打ちを、学ランは避けられなかった。自分では欠点だと思っている丸い鼻にスクールバッグの留め金らしきものが当たり、鋭い痛みが走った。
「なにしやがる」
「にこにこしてたからって……ナメてんだろ」
三宅ひとみの表情は一変していた。さっきまでの微笑みはなく、瞳には冷たい光が宿っている。
「ナメてるって……?」
鼻柱に温かい感覚があった。指で触ると、ぬるりとした。
「あたしは人にナメられるのが一番ムカつくんだよっ」
三宅ひとみは再びスクールバッグを振り回す。
学ランは先ほど放り投げたカバンに飛びつき、それで少女の攻撃を防ごうと顔の前に突き出した。
丁寧に扱ったことはなかったが(なにしろ中には教科書もノートもなにも入っていない)、カバンは学ランがこれまで聞いたことのない、ザザザザザッという音を立てた。
カバンの前面が八センチ幅で、一直線に削られていた。
三宅ひとみのスクールバッグの底には、ラインストーンのデコレーションが施されていた。普段は両脇の革が折り返されているためわからないが、中に重りが入れてあるのだろう、バッグを振り回すと遠心力で中央部が突出する仕組みらしかった。
先端が鋭利に磨がれているらしく、ラインストーンのひとつひとつが禍禍しい輝きを放っている。あれで皮膚を削がれでもすれば、ナイフよりもひどい傷になるのはまちがいない。
「ヤンキー二人にカツアゲされそうになってた女の子を助けて、自己満足に浸ってたんだろうッ」
たしかにそんな気がなかったわけじゃない。けれども、そこまでキレられるようなことでもないだろう。自分が救ったことはまちがいがないのだから。
ナメている、というのなら、いまは倒れている矢場久根の二人のほうがよほど三宅ひとみをナメていたはずだ。
「そんなことねえよ。とにかく落ち着け……」
学ランの言葉は届かなかった。再びスクールバッグのラインストーンが襲いかかってきた。
じりじりと後退を余儀なくされ、学ランは焦った。明らかにこちらに敵意を向けているものの、二分前までカツアゲの被害者だった少女と闘うのは気が引けた。
とはいえ、太ももとお尻にベンチの肘掛が当たっている今、逃げているだけではこちらがやられてしまう。
学ランは反撃に転じた。
ベンチの肘掛を後ろ手でつかんで体を固定し、右脚を突き出すようにキックを放つ。
だが、学ランの右脚は交わされた。三宅ひとみに左腕で脛の辺りを掴まえられてしまったのだ。
その力は少女のものとは思えないほど強く、まるで万力に挟まれたようで、引き抜こうとしてもびくともしない。
「捕まえた」
三宅ひとみが微笑んだ。お礼の言葉を発したときの、屈託のない笑顔だった。
三宅ひとみはスクールバッグを振り上げて底を見せた。生涯残ってしまうかもしれない傷を与えようとする、そのラインストーンはキラキラと輝き、とても美しかった。
学ランは肘掛をしっかりと掴み、左脚で反撃を試みた。しかし安定を欠いた体では、効果のある蹴りなど打てるわけがない。脚に力は入らず、三宅ひとみのブレザーを汚す程度にしか機能しなかった。
「ちょっと……制服に靴跡つけないでよ」
「放せっ」
「ふふ。かっこいい顔が傷だらけになっちゃうね」
三宅ひとみがバッグを、顔面めがけて振り下ろしてきた。
片手を顔の前に持ってくるのが、時間的に精一杯だった。
次の瞬間、脚を持つ三宅ひとみの力が抜けたのがわかった。学ランはすかさず脚を引き抜くと、その直後に三宅ひとみに向かって蹴りを入れた。重い手応えがあり、三宅ひとみの体が視界から消えた。
学ランは地面に落ち、腰から臀部を強打した。
なにが起きたのかはわからなかったが、とりあえず助かった。
倒れた三宅ひとみは右手首を押さえていた。そこにはなにか、カードらしきものが刺さっていた。
それは百人一首の札だった。
そのとき、背後から女の声がした。
「――忘れじの、行く末まではかたければ、けふを限りの命ともがな……」
振り返るとそこには、マジ女のセーラー服を着た女がいた。胸から腹の位置まであるチェーンのアクセサリー。スリットの入ったロングスカートは捲られ、腿には黒いレースのガーターが付けられていた。そこにはあと3枚ほどの百人一首の札が留められていた。
「チョウコク……」
学ランはチョウコクを知っていた。学内で百人斬りをしているという一匹狼――。
チョウコクは学ランに近づいてくると、手を差し出した。「大丈夫か?」
「ああ……。なんてことねえよ」
チョウコクの手を握り、学ランは立ち上がった。
暖かい手――。
学ランの中で、なにかが動いた。
「間に合ってよかった」
「恩に着るぜ」
三宅ひとみが立ち上がった。チョウコクの投げた札はよほど深く刺さったのか、手首が血まみれになっている。
「ステンレス製だ」チョウコクが解説した。「縁は毎日磨いでいる」
「おまえ、チョウコクって奴か?」三宅ひとみが言った。
「なぜわたしの名を……あんたも亜利江根四巨頭とやらかい?」
「アリエネヨンキョトウ? なんだそりゃ」学ランは訊ねた。
「説明はあとだ。どうやらあいつは、まだやる気らしい」
チョウコクがそう言い終ったとき、三宅ひとみが投げ返してきた札が、学ランの右の二の腕に刺さった。
「うっ……」激痛が走った。
「くそっ、顔に当たらなかったかっ」三宅ひとみはスクールバッグを持って、学ランに迫ってきた。
チョウコクがスカートのスリットを捲り、信じられないくらいのスピードで三枚の札を取り出すと、それらは水平に、まるで見えないテーブルの上を滑るように三宅ひとみに向かっていった。
三枚の百人一首の札は、顔をガードした三宅ひとみのカバンに突き刺さった。
チョウコクはダッシュして、三宅ひとみの間合いに入った。
スクールバッグのラインストーンがチョウコクの顔面を狙ってきた。
チョウコクは左腕で顔を庇い、それを受けた。
学ランがアッと思ったときには、カバンのラインストーンはチョウコクの腕に食い込んでいた。袖を捲っているチョウコクの柔肌を、尖ったラインストーンがえぐった……かのように思えた。
が、チョウコクの左腕には、今まで首から下げていたチェーンが巻かれ、すべてとは言わないまでも大部分のラインストーンを防御していた。チョウコクはチェーンアクセサリーを引きちぎり、即席の鎖帷子にしていたのだった。
必殺の攻撃を防御された驚きからか、三宅ひとみは一歩下がった。「ふんっ、やっぱり噂通り……。チョウコクさんだっけ? あんた、なかなかやるね」
チョウコクは、右手右足を前に出す合気道の基本的な構えの姿勢で微動だにしなかった。いつまた不意打ちを食らうかわからないという警戒心がそうさせるのだろう。
「あんたとは戦っちゃいけないって言われてるから、今日はここまでにしておくよ」三宅ひとみはブレザーの埃を払った。「いい? 私は負けたわけじゃないからね」
「だれに言われているんだ?」チョウコクが訊ねた。
「いま、マジ女を潰そうとしてる、うちらの先輩にね」
「名前は?」
「フォンチー」
「――フェンチー? 外国人なのか?」
「そう。ベトナム人」
「なら、そのフォンチーに伝えてくれ。わたしとちゃんとタイマンを張れる奴を連れてこい、と。二対一の戦いはつまらない」
「伝えておくよ。ただ、その通りにならなくても私のせいじゃないから……」
三宅ひとみはそう言い残し、去った。
チョウコクは構えを解き、リラックスした表情になった。
学ランは恥ずかしかった。「女を守る」どころではなく、逆に救ってもらったのだから。
「チョウコク……」
「なんだ?」
「――腕、大丈夫か?」
「かすり傷だ」チョウコクはそう言ったが、チェーンの巻かれた左腕にはわずかながら血が滲んでいた。
「ならいいけど……」
「お前は大丈夫か? 鼻が少し切れてるぞ」
「唾でもつけときゃ直るさ」そして学ランは言った。「それから……その……。ありがとう……」
「同じ学校なんだから当然だ」チョウコクは少し冷たそうで寂しそうな目を向けた。「最近は矢場久根だけじゃなく、今みたいに亜利絵根の連中もうろついている。気をつけたほうがいい」
「あ、ああ……。わかった……」
チョウコクに見つめられて、学ランは思わず目を逸らした。
心臓の鼓動の高鳴りが尋常ではなかった。
――熱しやすく冷めやすい、か……。
心の中にいた前田敦子は、すでに姿を消していた。
【つづく】
・某テレビドラマのパロディ小説です。パロ嫌いな人は読まないでね。
・あとから矛盾とか出てきたらこっそり書き直します。
・著者の上戸に格闘技経験はないので、おかしな箇所があったらこっそり教えてください。こっそり書き直します。