■決戦前―6■
校内放送で大島優子の演説が始まったとき、ネズミははらわたが煮えくり返る思いでそれを聞いた。
大島優子の参戦はネズミの描いたシナリオにはなかった。もちろん、当然それはありえるとは考えてはいたものの、こんなギリギリのタイミングとまでは想定していなかった。だれの意思が関わっているかはネズミにさえもわからなかったが、そんなことは闘いが迫っているいま、もうどうでもいい。
しかも、戦いからは下りたはずの前田敦子まで来ているという。
大島優子と前田敦子が参戦することによる、マジ女生徒全員の士気の高ぶりはすさまじかった。生徒たちが待機しているあちこちの教室からは高揚した歓声が上がり、体で喜びを表現する者たちによって、学校が文字通り、揺れた。
これでは、マジ女が「勝ってしまう」かもしれない。
マジ女は負けなければならない。ヤンキーどもは再起不能なまでに叩きのめされ、ぼろ雑巾のようにならなければいけない。いまの秩序を破壊し、新しい『ネズミ帝国』を興すのだから。
そのための右腕となる珠理奈は、いまネズミと背中合わせになり、すやすやと眠っている。こんなときに眠れるなんて、この女はやはり只者ではない。この神経の図太さがあれば、新興ネズミ帝国の優秀な軍事力となるだろう。珠理奈を手に入れたことを、ネズミは本当に幸運だと思った。
昨夜、星が見たいという珠理奈に誘われて登った屋上にある塔屋の上からは、マジ女の正門へと続くゆるやかな下り坂がよく見えた。アリ女の連中はそこから列を成してやってくるはずだ。ネズミはそのときを、いまかいまかと待っていた。
《それにしても、この鳥はいったい……》
どういうわけだか、一時間ほど前から馬路須加女学園の上空をたくさんの鳥が滑空している。鳩や雀や鴉があちこちでぶつかりそうになっているのにケンカもしないのは、まるでなにかに憑かれたのか、それとも操られているかのようだった。
塔屋から見下ろした屋上には、歩哨役として二十人の生徒が配置されていた。下からこの位置は死角になって見えないが、ネズミの位置からはちょっと首を伸ばせばその様子がうかがえる。生徒たちは不安を隠せないのか、あるいはこれから始まる戦いに胸を躍らせているのか、いずれにしても落ち着きのない様子でマジ女へ通じる道を監視していた。
ネズミはこれからの行動予定を、心の中で確認した。なにも難しいことはない。アリ女の連中が来たら、すぐに図書室に珠理奈と向かう。図書室は無人にしておき(だれかがいれば、珠理奈に排除してもらうだけだ)、そこをアリ女の橋頭堡として提供する。それによってネズミの安全は約束されていた。あとは勝負がつくまで待ち、すべてが終わったあとに『ケガの手当て』をしたネズミと珠理奈は廊下に転がっているところをだれかに発見される。それだけだ。
フードのついたスウェットのポケットから携帯電話を取り出して開く。そろそろアリ女の連中が来る予定の時刻だ。
「珠理奈、起きて」ネズミは肩越しに言った。
「――ん……」珠理奈はゆっくりと両手を挙げて伸びをした。「始まるの……?」
「そろそろ、ね……」
珠理奈が背中から離れたので、ネズミは立ち上がった。
マジ女へ続く登り坂の向こうに、大勢の人影が見えた。小高い岡の上にある馬路須加女学園への道は、一度登って少し下るようになっている。その道をいま、まちがいなくアリ女の制服を着た人間たちが登っている。個人は判別できないが、その数――ざっと五十人。生徒会以外の生徒も動員されているのは聞いていたとおりだった。
初めてアリ女を訪れ、フォンチーと面会したのは三ヶ月以上前のことだ。そのとき蒔いた種が、ようやく実ろうとしている。ネズミは気分が高まっていくのを自覚した。
「――来たよ、珠理奈」ネズミは坂道を指した。
「ほんとだ」
「珠理奈」
「なんだい、まゆゆ」
「そばから離れないでね」
「もちろんだよ、まゆゆ」
見つめ合った珠理奈の瞳を見て、ネズミは中学生のときに出会った、とある転校生のことを突然思い出した。
年明けにネズミのクラスに転校してきた少女――カオル――はショートカットの髪型がとても似合っていて、背はネズミより遥かに高く、スレンダーな美人だった。中学生とは思えぬ、宝塚の男役を思わせるそのフォルムは、転校初日に全校の女子生徒に知れ渡っていた。ネズミでさえ、三次元の人間である彼女を美しいと思った。
しかし毎日の陰湿なイジメに耐えていたネズミは、一躍クラスの人気者になったカオルに話しかけることはなかった。見た目だけでなく、そうした環境もあって、彼女と自分はちがう世界にいる人間だと感じていた。
ところがある日、カオルがノートの片隅に描いていたマイナーなアニメのキャラクター(そしてそれは、驚くほど精密で上手かった)を見たネズミは、思わずその作品名を口にした。カオルはとても喜んだ。クラスには、このアニメを見ている人がだれもいないとあきらめていたと言う。
二人は友だちになった。好きなアニメの話をたくさんしたり、おたがいが描いたイラストを見せ合ったり、デッキの設置してあるカラオケルームでDVDを見たりした。
カオルと一緒にいることで、目に見えるイジメは鳴りを潜めた。表面化しないイジメは続いたが、ネズミはそれらをなかったこととしてふるまい、彼女にはなにも言わなかった。自分がみじめなイジメられっこだと知られたくなかった。
だが幸せな日々は一年も続かなかった。カオルが突然、学校に来なくなったのだ。入院のためしばらく休校すると教師は説明した。体調不良という理由だったが、詳しいことはメールで訊いても教えてくれなかった。彼女自身が把握できていないように感じた。
結果的にカオルは学校を去った。もっといい環境の病院へ移ったらしい。メールのやりとりはしばらくのあいだ続いてが、やがてどちらともなく途絶えてしまった。
彼女はスポーツも得意だったから、格闘技をやっていたらそれなりの腕前になっていただろう。入院や休校をしなければ、いま自分の横にいるのは珠理奈ではなく、彼女だったかもしれない。
あるいは二人とも――。
そう、二人が並び立ったとすれば、その姿はどれだけ美しかっただろう。一度でもいいから、その勇姿を見てみたかった。絶対にかなわぬことだが、だからこそネズミは夢想した。
「――まゆゆ?」気がつくと、珠理奈がネズミの瞳を覗き込んでいた。
「――ああ。ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「別の女のこと考えてたね」
「え」
「やっぱりだ」珠理奈はほんの一瞬だけ、怖い目になった。「ぼくはまゆゆのことならなんでもわかるよ」
「でもちがう――そういうんじゃない……」
「いいんだ。まゆゆがだれを思おうと。ぼくがまゆゆを思うことに変わりはない」
ネズミは軽い恐怖とうれしさを同時に感じ、少しはにかんでみせた。
《よろこんでる――あたしが?》
ネズミはその感情を否定した。珠理奈の怖さを垣間見たとはいえ、自分が楽しさやうれしさを感じることなどないはずだ。そんな人間らしい――あるいは人間が持って当たり前の気持ちなど、とっくに捨てた。こんなゴミ溜めみたいな、クズしかいない場所にいる限り、そんなことがあるはずがない――。
ネズミは珠理奈から視線を逸らした。
眼下の、双眼鏡で通学路を見張っていたひとりの生徒が声を上げた。それをきっかけに、周りにいたほかの生徒たちは騒然となり、通学路の見える位置に殺到した。あの位置からも、アリ女の生徒たちの姿を確認したのだろう。ある者は携帯電話で連絡を取りはじめ、ある者は校舎内に向かって駆け出した。
いよいよだ。
ネズミはさすがに緊張に包まれた。心臓の鼓動が少し早くなり、喉も渇きだした。
「さ。行こう」ネズミは珠理奈をうながした。「パーティーが始まるよ」
【つづく】