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■決戦―8■
体育館にはすでに五十人ほどの負傷者が運び込まれており、その広い空間はなにかの映画で見た野戦病院のように騒然としていた。簡易ベッドはほぼ満員で、床に寝転んでいる者もいる。白地に赤い文字で《救護》と書かれた腕章を付けた生徒たちは、けが人たちに包帯を巻いたり消毒液を塗ったりしていた。まだ《戦争》は始まっていないというのにこれだけの負傷者がいるのは、パニックになった生徒たちの同士討ちや、混乱の中で弾かれ、転げ、足を取られ、踏みつけられるといった状態に巻き込まれたからだろう。
珠理奈の肩を支えていたネズミとウナギが中に入ると、すぐに前田敦子の姿が見えた。二の腕には赤十字の書かれた腕章を付け、出入口にもっとも近いベッドで頭から血を流している生徒の手当をしている。
マジ女最強の女がこんなところでなにをしているのか……ネズミが訝しげに見つめると、その視線を感じたのか、前田敦子と目が合った。
「脚を?」前田敦子は包帯を巻く手を止めてから、落ち着いた口調で訊ねてきた。
「ああ。階段から落ちた」
「ベッドはもうふさがってるから……そこで、ちょっと待っててください」前田は目で、ベッドの隣に敷かれた体育用マットを示した。
何度も策を弄して潰そうとした女に借りを作りたくはなかったが、前田はそんなことは考えてもいない素振りだった。
珠理奈をマットまで誘導したネズミとウナギは、珠理奈を静かにマットの上に座らせた。
「それじゃあ、あたしはこれで……」ウナギが言った。「まだ、やんなきゃいけねぇことがあっからさ」
「先輩、ありがとうございます」珠理奈は頭を下げた。
「ンなこと、いいっていいって……」ウナギは照れくさそうに手を振り、立ち上がると体育館から出て行った。
ネズミはそれを見届けると、ふたたび珠理奈に向かい合った。「珠理奈……どうだい?」
「ぼくなら大したことないよ。なんだったら歩けるくら……」介添えなしで立ち上がろうとした珠理奈だったが、膝を伸ばしただけでバランスを失い、倒れ始めた。
「危ないっ」ネズミはその体をあわてて手で止めた。ネズミは珠理奈を抱きかかえるようなかたちになった。「無理するなって……」
「――クソッ……」珠理奈が小さく言った。「こんな肝心なときに、まゆゆの約に立てないなんて……」
「大丈夫。なんとかなる」ネズミは珠理奈をお尻から、ゆっくりとマットの上に下ろした。
「そうだね、ここにいれば大丈夫さ」
「でも、それができないんだ」
「え、なんで――」
「行かなくちゃいけないところがある」
「こんなさなかに?」
「ああ……」ネズミは言い澱んだ。いずれは知られることだが、いまは本当のことを言うわけにはいかない。図書室に珠理奈を連れて行けば、フォンチーたちを警戒させ、下手をすれば裏切ったとさえ思われかねない。アリ女にはマジ女を潰すか、さもなくばそれに類するほどの痛手を与えてもらわう予定だ。そしてそのとき、ネズミと珠理奈は無傷でなければならない。「図書室にね。私の持ち場なんだ」
珠理奈が傷を負っていなければ、ネズミは教えなかった。しかし、珠理奈は少なくとも、今日は歩くことさえままならないだろう。それなら下手にすべてを隠すよりも、出来る限り情報を与えたほうがいい。肝心なことだけは隠して――。
「そうなんだ……」珠理奈は落胆したようだった。
「図書室のドアには鍵がある。アリ女の連中が来たって心配ない」ネズミはおどけた笑顔を作って、指先で鍵を掛ける仕草をした。「ガチャリ。これで私の役目はおしまい。あとはのんびり、中で紅茶でも飲んでるさ。二杯目を飲み終わるころにはすべて終わってるだろうね」
「でも――」
「心配性なんだな。珠理奈は」ネズミは珠理奈の額と自分の額を合わせた。「安心してくれ。私だってこう見えて百戦錬磨だ」
珠理奈が心から安心していないのは、その瞳がかすかに震えていることでわかった。
「お待たせしました」前田敦子が救急箱を持って、やってきた。
ふたりは顔を離した。
「脚を挫いたんですね?」前田はふたりのかたわらに座ると、珠理奈の足首をそっと持ち上げた。「――腫れはほとんどないみたいですね。氷水で冷やして、湿布を貼って、テーピングしておけば二三日で治ると思います」
ネズミは前田敦子を見つめた。
前田は、目の前にいる女がネズミだと認識しているはずだ。何度も自分を罠に掛け、いらぬ争いを誘発したネズミだと。控えめに言ってもネズミを憎んでいるはずだし、なんなら拳の一発くらいは叩き込みたいと思っているだろう。しかし、前田はそんな素振りなど微塵も見せていない。
前田は救急箱からスポーツ用のアイスバッグを取り出した。すでに中には氷を入れてあるようで、足首にそれを置かれた珠理奈は「冷たっ」と小さく叫んだ。
「二十分くらい冷やしたら、また来ます。湿布を貼って、包帯を巻きますから」
珠理奈は頷いて、「前田さん……ですよね?」
「ええ」
「マジ女最強の前田さんが、こんなところでなにしてるんスか?」
前田はそれには答えず、アイスバッグをゴムバンドで足首に固定した。
「聞こえてますよね?」
「――見てわかりませんか? 救護です」
「そんなこと言ってませんよ。前田さんはこんなところにいるべきじゃないって言ってるんスよ」
前田はそれにも答えなかった。
「前田さんが最前線に立てば、簡単に勝てるんじゃないスか?」
「珠理奈……やめておけ」ネズミは早く図書室で待機しておきたかった。ここでつまらない騒動を起こし、時間をとられたくなかった。「なんでそんなに意気がる?」
珠理奈にそうは言ったが、ネズミには彼女の気持ちはわかっていた。
おもしろくないのだ。
マジ女でトップに立つ前田敦子が前線に立たず、よりによって救護係とは……。そして前田の《穴》が開いたのなら、自分がそこに立つべきだと珠理奈は考えている。なのに自分は足を挫き、よりによってその前田に治療をしてもらっている。言ってみれば、一種の八つ当たりだ。
「それじゃあ……」珠理奈の足首にアイスバッグを固定した前田はそう言って、立ち上がろうとした。
――が、珠理奈はその前田の手首をつかんだ。
「逃げないでくださいよ」
前田は横目で珠理奈をにらみ、「私は私のいるべきところにいるだけです」
「ここがそうなのかって訊いてるんです」
「そうです」
「前田さんはマジ女の……」
珠理奈がそこまで言いかけたところに、突然、大きめのハスキーな女の声がした。
「やめなよ」
近づいてきたエレナ――小野恵令奈も、前田と同じく赤十字の腕章を付けている。
「あんた――昨日、前田さんをひっぱたいた……」
「あなたもひっぱたかれたい?」
「もう仲直りしたんだ」
「あなたみたいな子どもにはわからないでしょうね。この人がどんな思いでここに戻ってきたのか」
珠理奈はそれを鼻で笑った。「ええ、わかりませんね。子どもですから」
「なら、人の仕事に口出ししないで」
エレナは言い捨てて、前田の手を引っぱった。
もう珠理奈もそれ以上はなにも言わなかった。
「珠理奈」ネズミは小声で言った。「なんであんなことを……」
「ムカつくんだ」珠理奈の視線は前田を追っていた。「立つべき場所に立たないやつ……」
やはり図星だった。「あんなやつ、きみの相手じゃない。いつでも潰せるだろ」
「ああ。でも、立つべき場所に立たないやつなんか潰したってしょうがない。だからあいつは強くなきゃ困るんだ。倒し甲斐がないからね」
「きみの気持ちはわかった。でも、その怒りはいまはアリ女にぶつけるんだ。いいかい?」
「まゆゆがそう言うなら……」
「それじゃあ、行くよ」
「まゆゆ」
「ん?」
「また戻ってくるよね?」
「もちろん」アリ女の連中にマジ女の布陣を説明すればネズミの役割は終わる。あとはマジ女が勝とうが負けようが同じことだ。どちらにしてもマジ女は疲弊し、しばらくのあいだはだれも実権を握っていない状態になる。その隙にネズミは珠理奈を使い、マジ女のトップに立つ。ここで珠理奈を手放すわけにはいかなかった。「好きだよ、珠理奈」
「ぼくもさ。まゆゆ」
ネズミは頬に、珠理奈のキスを受け、そして立ち上がった。
【つづく】
体育館にはすでに五十人ほどの負傷者が運び込まれており、その広い空間はなにかの映画で見た野戦病院のように騒然としていた。簡易ベッドはほぼ満員で、床に寝転んでいる者もいる。白地に赤い文字で《救護》と書かれた腕章を付けた生徒たちは、けが人たちに包帯を巻いたり消毒液を塗ったりしていた。まだ《戦争》は始まっていないというのにこれだけの負傷者がいるのは、パニックになった生徒たちの同士討ちや、混乱の中で弾かれ、転げ、足を取られ、踏みつけられるといった状態に巻き込まれたからだろう。
珠理奈の肩を支えていたネズミとウナギが中に入ると、すぐに前田敦子の姿が見えた。二の腕には赤十字の書かれた腕章を付け、出入口にもっとも近いベッドで頭から血を流している生徒の手当をしている。
マジ女最強の女がこんなところでなにをしているのか……ネズミが訝しげに見つめると、その視線を感じたのか、前田敦子と目が合った。
「脚を?」前田敦子は包帯を巻く手を止めてから、落ち着いた口調で訊ねてきた。
「ああ。階段から落ちた」
「ベッドはもうふさがってるから……そこで、ちょっと待っててください」前田は目で、ベッドの隣に敷かれた体育用マットを示した。
何度も策を弄して潰そうとした女に借りを作りたくはなかったが、前田はそんなことは考えてもいない素振りだった。
珠理奈をマットまで誘導したネズミとウナギは、珠理奈を静かにマットの上に座らせた。
「それじゃあ、あたしはこれで……」ウナギが言った。「まだ、やんなきゃいけねぇことがあっからさ」
「先輩、ありがとうございます」珠理奈は頭を下げた。
「ンなこと、いいっていいって……」ウナギは照れくさそうに手を振り、立ち上がると体育館から出て行った。
ネズミはそれを見届けると、ふたたび珠理奈に向かい合った。「珠理奈……どうだい?」
「ぼくなら大したことないよ。なんだったら歩けるくら……」介添えなしで立ち上がろうとした珠理奈だったが、膝を伸ばしただけでバランスを失い、倒れ始めた。
「危ないっ」ネズミはその体をあわてて手で止めた。ネズミは珠理奈を抱きかかえるようなかたちになった。「無理するなって……」
「――クソッ……」珠理奈が小さく言った。「こんな肝心なときに、まゆゆの約に立てないなんて……」
「大丈夫。なんとかなる」ネズミは珠理奈をお尻から、ゆっくりとマットの上に下ろした。
「そうだね、ここにいれば大丈夫さ」
「でも、それができないんだ」
「え、なんで――」
「行かなくちゃいけないところがある」
「こんなさなかに?」
「ああ……」ネズミは言い澱んだ。いずれは知られることだが、いまは本当のことを言うわけにはいかない。図書室に珠理奈を連れて行けば、フォンチーたちを警戒させ、下手をすれば裏切ったとさえ思われかねない。アリ女にはマジ女を潰すか、さもなくばそれに類するほどの痛手を与えてもらわう予定だ。そしてそのとき、ネズミと珠理奈は無傷でなければならない。「図書室にね。私の持ち場なんだ」
珠理奈が傷を負っていなければ、ネズミは教えなかった。しかし、珠理奈は少なくとも、今日は歩くことさえままならないだろう。それなら下手にすべてを隠すよりも、出来る限り情報を与えたほうがいい。肝心なことだけは隠して――。
「そうなんだ……」珠理奈は落胆したようだった。
「図書室のドアには鍵がある。アリ女の連中が来たって心配ない」ネズミはおどけた笑顔を作って、指先で鍵を掛ける仕草をした。「ガチャリ。これで私の役目はおしまい。あとはのんびり、中で紅茶でも飲んでるさ。二杯目を飲み終わるころにはすべて終わってるだろうね」
「でも――」
「心配性なんだな。珠理奈は」ネズミは珠理奈の額と自分の額を合わせた。「安心してくれ。私だってこう見えて百戦錬磨だ」
珠理奈が心から安心していないのは、その瞳がかすかに震えていることでわかった。
「お待たせしました」前田敦子が救急箱を持って、やってきた。
ふたりは顔を離した。
「脚を挫いたんですね?」前田はふたりのかたわらに座ると、珠理奈の足首をそっと持ち上げた。「――腫れはほとんどないみたいですね。氷水で冷やして、湿布を貼って、テーピングしておけば二三日で治ると思います」
ネズミは前田敦子を見つめた。
前田は、目の前にいる女がネズミだと認識しているはずだ。何度も自分を罠に掛け、いらぬ争いを誘発したネズミだと。控えめに言ってもネズミを憎んでいるはずだし、なんなら拳の一発くらいは叩き込みたいと思っているだろう。しかし、前田はそんな素振りなど微塵も見せていない。
前田は救急箱からスポーツ用のアイスバッグを取り出した。すでに中には氷を入れてあるようで、足首にそれを置かれた珠理奈は「冷たっ」と小さく叫んだ。
「二十分くらい冷やしたら、また来ます。湿布を貼って、包帯を巻きますから」
珠理奈は頷いて、「前田さん……ですよね?」
「ええ」
「マジ女最強の前田さんが、こんなところでなにしてるんスか?」
前田はそれには答えず、アイスバッグをゴムバンドで足首に固定した。
「聞こえてますよね?」
「――見てわかりませんか? 救護です」
「そんなこと言ってませんよ。前田さんはこんなところにいるべきじゃないって言ってるんスよ」
前田はそれにも答えなかった。
「前田さんが最前線に立てば、簡単に勝てるんじゃないスか?」
「珠理奈……やめておけ」ネズミは早く図書室で待機しておきたかった。ここでつまらない騒動を起こし、時間をとられたくなかった。「なんでそんなに意気がる?」
珠理奈にそうは言ったが、ネズミには彼女の気持ちはわかっていた。
おもしろくないのだ。
マジ女でトップに立つ前田敦子が前線に立たず、よりによって救護係とは……。そして前田の《穴》が開いたのなら、自分がそこに立つべきだと珠理奈は考えている。なのに自分は足を挫き、よりによってその前田に治療をしてもらっている。言ってみれば、一種の八つ当たりだ。
「それじゃあ……」珠理奈の足首にアイスバッグを固定した前田はそう言って、立ち上がろうとした。
――が、珠理奈はその前田の手首をつかんだ。
「逃げないでくださいよ」
前田は横目で珠理奈をにらみ、「私は私のいるべきところにいるだけです」
「ここがそうなのかって訊いてるんです」
「そうです」
「前田さんはマジ女の……」
珠理奈がそこまで言いかけたところに、突然、大きめのハスキーな女の声がした。
「やめなよ」
近づいてきたエレナ――小野恵令奈も、前田と同じく赤十字の腕章を付けている。
「あんた――昨日、前田さんをひっぱたいた……」
「あなたもひっぱたかれたい?」
「もう仲直りしたんだ」
「あなたみたいな子どもにはわからないでしょうね。この人がどんな思いでここに戻ってきたのか」
珠理奈はそれを鼻で笑った。「ええ、わかりませんね。子どもですから」
「なら、人の仕事に口出ししないで」
エレナは言い捨てて、前田の手を引っぱった。
もう珠理奈もそれ以上はなにも言わなかった。
「珠理奈」ネズミは小声で言った。「なんであんなことを……」
「ムカつくんだ」珠理奈の視線は前田を追っていた。「立つべき場所に立たないやつ……」
やはり図星だった。「あんなやつ、きみの相手じゃない。いつでも潰せるだろ」
「ああ。でも、立つべき場所に立たないやつなんか潰したってしょうがない。だからあいつは強くなきゃ困るんだ。倒し甲斐がないからね」
「きみの気持ちはわかった。でも、その怒りはいまはアリ女にぶつけるんだ。いいかい?」
「まゆゆがそう言うなら……」
「それじゃあ、行くよ」
「まゆゆ」
「ん?」
「また戻ってくるよね?」
「もちろん」アリ女の連中にマジ女の布陣を説明すればネズミの役割は終わる。あとはマジ女が勝とうが負けようが同じことだ。どちらにしてもマジ女は疲弊し、しばらくのあいだはだれも実権を握っていない状態になる。その隙にネズミは珠理奈を使い、マジ女のトップに立つ。ここで珠理奈を手放すわけにはいかなかった。「好きだよ、珠理奈」
「ぼくもさ。まゆゆ」
ネズミは頬に、珠理奈のキスを受け、そして立ち上がった。
【つづく】