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もたぃち(ツイッターアカウント @motaichi )さんのブログ、『もたさんのブログ』にて、『濡れ娘。』のDVD-ROM写真集『願望少女/貴島マリア』の感想を書いていただきました。
記事はこちら → 【生まれて初めてROM写真集買いました。】
最近に限ったことではないのですが、いくつかの掲示板では、いわゆる「天然物」についての書き込みが多く見られます。
wet界(というものがあるのはわからないけど)で言う「天然物」とは、自然な状況で濡れることを指します。ゲリラ豪雨や、海や川に入るつもりがないのに入ってしまったものなどの、ハプニングによるずぶ濡れ状態が「天然物」というわけです。
それに対して、フェチサイトで販売や公開されている写真は「天然物」ではありません。モデルさんは最初から着衣入水することを前提として現場に来ています。これらは「養殖物」とでも呼ぶべきでしょうか。
そしてこの二つでは、圧倒的に「天然物」のほうが貴重だとされています。
もちろん、それに異論はありません。日常に突然現れる、ずぶ濡れの女性にはぼくだってドキドキします。
しかし、「養殖物」には価値がないのでしょうか?
ぼくはもちろん、そうは思いません。どちらにも、ちがった良さがあると考えています。
いちばんのちがいは、表現であるかないかです。
「天然物」は表現ではありません。大抵の場合、彼女たちは数時間前まで自分がずぶ濡れになるなどとは考えず、またそうなってしまってからは一刻も早く体に張り付いた服を脱ぎ、お風呂に入って冷えた体を温めたいと思っているでしょう。
だから自分がどう見られるかは考えてもいないはずです(下着が透けているのを見られるのは嫌だな、程度には考えているかもしれませんが)。「濡れフェチ」は、いまだマイナーな性癖ですし。
一方、「養殖物」はまったくちがいます。見られることを前提としているからです。
濡れた服のテカり方、乾いた状態と濡れた状態とのちがい、滴り落ちる水、水中でふわりと浮かぶスカート、張り付いたブラウスに透ける肌色や下着……こうした映像は、まだ見ぬ誰かのために撮影されています。
「天然物」をじっくりと見るわけにはいきません。そうしたければ、ネットに投稿された動画や写真を探すしかなく、けれどもそれらにはフェチ的視点が欠けることのほうが多く、ほとんどはフェチ的な満足をもたらしません。
「養殖物」は、それを補完するためのものかもしれません。そして、その補完の様式こそ、各カメラマンとモデルさんの関係性とイコールだと、ぼくは考えています。
もたぃちさんはブログにこう書いています。
「モデルとカメラマンが一対一で向き合ってる空気感がそのまま残せるのが静止画のいいところ」
この言葉の中に、「養殖物」と言われる作品のすべてが詰まっていると思います。
プロフェッショナルであれアマチュアであれ、映像であれ文章であれ、作品というものの中には作者が投影されます。されていないものもあるかもしれませんが、ぼくはそれはクズだと思っています。
まずは「思い」があり、それを技術で昇華していくもの。
技術先行で、「思い」のないものもクズです。
写真や動画の場合、モデルさんの意志も作品に投影されます。
「女のからだ」があればいいわけではありません。
ぼくは撮影前に、必ずモデルさんと面談をします。モデルさんと会った、その日に撮影はしません。おたがいにどんな条件で、なにを、どう撮りたいのか、撮られたいのかを確認し、そこで作品を作るかどうか決めます。面談の結果、断った方もいるし、断られたこともあります。
だれでもいいわけではありません。
厳密に言えば「天然物」と「養殖物」は、まったくちがうジャンルなのかもしれません。
「養殖物」は、おおげさにいえば個人的世界観が反映されていますが、「天然物」にそれはなく、ハプニング以上でも以下でもないのです。
どちらが好きかはまったくの好みの問題であり、どちらが優れているとかいないとか、そういうことを言いたいわけではありません。
ぼくが言いたいのは、どちらも共に「イイ!」ということです。
もたぃちさんの感想を読んでいて、連想したことを書いてみました。
最後になりましたが、もたぃちさん、感想をありがとうございました!
記事はこちら → 【生まれて初めてROM写真集買いました。】
最近に限ったことではないのですが、いくつかの掲示板では、いわゆる「天然物」についての書き込みが多く見られます。
wet界(というものがあるのはわからないけど)で言う「天然物」とは、自然な状況で濡れることを指します。ゲリラ豪雨や、海や川に入るつもりがないのに入ってしまったものなどの、ハプニングによるずぶ濡れ状態が「天然物」というわけです。
それに対して、フェチサイトで販売や公開されている写真は「天然物」ではありません。モデルさんは最初から着衣入水することを前提として現場に来ています。これらは「養殖物」とでも呼ぶべきでしょうか。
そしてこの二つでは、圧倒的に「天然物」のほうが貴重だとされています。
もちろん、それに異論はありません。日常に突然現れる、ずぶ濡れの女性にはぼくだってドキドキします。
しかし、「養殖物」には価値がないのでしょうか?
ぼくはもちろん、そうは思いません。どちらにも、ちがった良さがあると考えています。
いちばんのちがいは、表現であるかないかです。
「天然物」は表現ではありません。大抵の場合、彼女たちは数時間前まで自分がずぶ濡れになるなどとは考えず、またそうなってしまってからは一刻も早く体に張り付いた服を脱ぎ、お風呂に入って冷えた体を温めたいと思っているでしょう。
だから自分がどう見られるかは考えてもいないはずです(下着が透けているのを見られるのは嫌だな、程度には考えているかもしれませんが)。「濡れフェチ」は、いまだマイナーな性癖ですし。
一方、「養殖物」はまったくちがいます。見られることを前提としているからです。
濡れた服のテカり方、乾いた状態と濡れた状態とのちがい、滴り落ちる水、水中でふわりと浮かぶスカート、張り付いたブラウスに透ける肌色や下着……こうした映像は、まだ見ぬ誰かのために撮影されています。
「天然物」をじっくりと見るわけにはいきません。そうしたければ、ネットに投稿された動画や写真を探すしかなく、けれどもそれらにはフェチ的視点が欠けることのほうが多く、ほとんどはフェチ的な満足をもたらしません。
「養殖物」は、それを補完するためのものかもしれません。そして、その補完の様式こそ、各カメラマンとモデルさんの関係性とイコールだと、ぼくは考えています。
もたぃちさんはブログにこう書いています。
「モデルとカメラマンが一対一で向き合ってる空気感がそのまま残せるのが静止画のいいところ」
この言葉の中に、「養殖物」と言われる作品のすべてが詰まっていると思います。
プロフェッショナルであれアマチュアであれ、映像であれ文章であれ、作品というものの中には作者が投影されます。されていないものもあるかもしれませんが、ぼくはそれはクズだと思っています。
まずは「思い」があり、それを技術で昇華していくもの。
技術先行で、「思い」のないものもクズです。
写真や動画の場合、モデルさんの意志も作品に投影されます。
「女のからだ」があればいいわけではありません。
ぼくは撮影前に、必ずモデルさんと面談をします。モデルさんと会った、その日に撮影はしません。おたがいにどんな条件で、なにを、どう撮りたいのか、撮られたいのかを確認し、そこで作品を作るかどうか決めます。面談の結果、断った方もいるし、断られたこともあります。
だれでもいいわけではありません。
厳密に言えば「天然物」と「養殖物」は、まったくちがうジャンルなのかもしれません。
「養殖物」は、おおげさにいえば個人的世界観が反映されていますが、「天然物」にそれはなく、ハプニング以上でも以下でもないのです。
どちらが好きかはまったくの好みの問題であり、どちらが優れているとかいないとか、そういうことを言いたいわけではありません。
ぼくが言いたいのは、どちらも共に「イイ!」ということです。
もたぃちさんの感想を読んでいて、連想したことを書いてみました。
最後になりましたが、もたぃちさん、感想をありがとうございました!