■純情堕天使―4■
元チームホルモンの三人だけではなく、サキコ、ナツミ、トモミ、ハルカまでがうめ子に倒されたという事実が、マユミの闘志に火を点けた。いや、火はいつでも点いている。燃料が注がれたというほうが正しいかもしれない。
なんにしても、マユミは燃えた。
マユミの格闘スタイルは極真空手を基本とした打撃技だ。体が小さいため組み技は苦手だった。適度な間合いをとり、懐に入られなければ勝機は必ずある。
やっかいなのはうめ子のバットだった。あれに当たらない距離を保っていては、こちらの攻撃もまた当たらない。まずは、あれをうめ子から奪い取らなくてはいけない。だが、そんなに簡単にいかないのはこれまでの七人が証明してくれている。
では、どうするか。
これまでの闘い方を見ている限り、うめ子はスピードを重視してはいないようだった。バットも体の動きも緩慢でけっして早くはない。それならば、矢継ぎ早に技を繰り出し、こちらのペースに持ち込んだところでバットを奪うという戦法はどうだろうか。
ぐずぐずしている時間はなかった。マユミは決断すると、うめ子に向かった。
まずは当たらなくてもいい、先制の左上段突きをうめ子の顔面めがけて放つ。
うめ子もそれが牽制だとわかったのか、本気でよける気配はなかった。バットを片手で槍のように突き出して、マユミの接近を阻止しようとしてくる。
マユミはかまわず、次に右上段突きを繰り出した。これも当てる気はない。
そのとき、バットが右わき腹に命中した。
硬質な衝撃による痛みは重かったが、マユミは歯を食いしばって耐えた。こんな程度なら、道場でいくらでも受けている。師の蹴りの強さに比べればなんでもない。
攻撃を食らったマユミが引かないどころか、一歩前に踏み出したことに驚いたのか、うめ子はじりっと後退した。
――いまだっ。
マユミは次に、やや大振りの右中段回し蹴りを放った。これは当たれば良し、そして当たらなくても良しという程度の攻撃だったが、ローファーの爪先はうめ子のやわらかな胸に突き刺さるように命中した。「むにゅっ」とした感触があった。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」
うめ子が絶叫した。聞く者を旋律させる、怒りのこもった声だった。
胸を攻撃されたことで女としての尊厳を踏みにじられたとでも思ったのか、それとも想像以上に蹴りが効いているのかはわからなかったが、今までのうめ子とは少しちがうリアクションがあったことで、マユミは自分の闘い方がまちがっていないことを知った。
――いけるっ。
マユミは右中段回し蹴りのすぐ直後に、左上段回し蹴りを出した。これこそが、本当にヒットさせるつもりの、必殺の蹴りだった。背の低いマユミだが、毎日の柔軟体操と道場での鍛錬によって、脚はほぼ垂直に上げられる。多少の身長差ならまったく問題はなかった。むしろ背の低さは相手の油断を誘う、ある種の武器にもなっている。
左上段回し蹴りが、うめ子の顔面に命中した。
マユミの攻撃は素早く、最初に左上段突きを放ってから、この左上段回し蹴りが出されるまで十秒とかかってはいなかった。それも、蹴りが命中した理由のひとつだったのだろう。マユミの足の甲には、うめ子の右頬骨を砕くのではないかというほどの衝撃があった。威力だけではなく、その「型」は、道場に入ったばかりの入門者の手本になるような美しさを持っていた。
「――うめ子っ……」まいぷるが叫んだ。
「やったっ」背中から、バンジーの声が聞こえた。
左脚の心地よい痛みを意識しつつ、マユミは笑みを浮かべた。
うめ子は横向きのまま倒れた。力を失った右手がバットを離した。からん、と乾いた音を立てて、こちらに転がってきたバットを、マユミは拾った。
焦りの色を目に浮かべたまいぷると目が合った。さっきからふざけたことばかり言っていたこの女をどうしてくれようか……。思わずバットを握る手のひらに力がこもったが、マユミはそれをすぐに背後に捨てた。こんなものはいらない。私は私自身の拳で未来を開く。そのためには、うめ子にとどめの一撃を与えなくてはいけない。
床でうめいているうめ子に、マユミは近づいた。
仰向けに倒れているうめ子のブレザーの襟元をつかみ、上半身だけを引き上げる。もう一発、今度は左の頬に拳を叩き込むつもりだった。
右手をにぎり、肘を背中の後ろまで引く。先ほどとちがって、相手はまったく動く気配がない。命中しないわけがなかった。この拳を一発、腹に叩き込めば、戦闘は終わる。
だが、マユミは油断していた。あまりにもきれいに入った蹴りの余韻に酔っていた。足をもがれた昆虫を踏み潰すようなつもりでいた。相手が動けないと決めてかかっていた。
うめ子の左腕が、映画『ミスト』に登場したモンスターの触手のように気持ち悪く動いた。マユミが気づいた瞬間には、それは元々そこにあるかのように、喉に絡みついていた。
うめ子の親指が喉の中心を圧迫してくる。マユミはブレザーの襟元から指を離し、うめ子の腕を引き剥がそうとした。しかし、それは万力で固定されたように動く気配がない。息を止められたマユミの視界がうっすらとぼやけてきた。
――殺される……。
まさか、そこまではしないだろうという根拠のない安心と、この狂った女ならやりかねないという恐怖が混じりあい、マユミは戦慄した。
けれども、こんなときこそ、平常心を保たなくてはいけない。状況を分析しよう。いま自分は相手に馬乗りになっている。体制的に有利なのはこちらだ。打撃を加え、痛みによって相手の腕の力を弱めれば抜けられるはず。
しかしうめ子の腕力は、じわじわとマユミを絞めている。
打撃をしようにも、力が入らない。
「うめ子、さっさとやっちまえよ。いつものアレ」まいぷるが言った。
――いつものアレ……?
それがなにかはわからないが、マユミにとってはよくないことにちがいない。
「はああああああい……。やっちまあああああす」
うめ子が狂気の雄たけびを上げた次の瞬間、マユミは強烈な力で右側に倒された。
即頭部を床に叩きつけられるようにされたとき、マユミの目の前で星が散った。
一瞬、状況が把握できなかったが、少しすると自分がうめ子の左手一本で横転させられたことがわかった。加えて、形成が完全に逆転していることも。
いまや、うめ子はマユミの上に馬乗りになっていた。左手はまだ喉を絞めつけている。苦しい。本当に苦しい。
「せぇぇぇぇぇのぉぉぉぉぉぉ……」うめ子が右手を、振りかぶるように持ち上げた。
マユミは拳が顔面に打ち込まれることを覚悟した。
苦難から目を逸らしてはいけない、という師の教えが、このときなぜか思い出された。マユミは自分がうめ子に倒されるのなら、その瞬間も目を開いていよう、と決意した。
マユミはうめ子をにらみつけた。
うめ子の右手の人差し指と中指が立てられている。
――目潰し……?
マユミは焦った。
「じゃああああああんんんんんけえええええええんんんんんんん……」
うめ子の絶叫が地下室に響き渡った。
マユミはもうなにも考えられなかった。恐怖がなかったかと言われれば、あった。だが、それはすべてを支配していたわけではなく、あくまでもマユミの心の一部にあるだけだった。このときマユミの精神を保っていたのは怒りだった。仲間をシメたうめ子に対する純粋な怒り、野次を飛ばすだけのまいぷるに向けた正義の怒り、そして負けそうになっている自分の弱さに対する怒り。
「ぽおおぉぉぉぉんんんんんんんんっ」うめ子の目潰し攻撃が、まるで弾丸みたいに早く思えた。
マユミは反射的に拳をにぎり、うめ子にそれを放った。渾身の正拳突きだった。
うめ子の「チョキ」とマユミの「グー」は、鉄道の上り線と下り線のように、同一射線上を進んだ。
チョキとグーのどちらが強いかなど、考える必要もない。
マユミのグーがうめ子のチョキに叩き込まれ、うめ子の人差し指と中指が裂けるように広がった。
「ぎゃおうわおうわぁあぁあぁあぁおぁわぉあぁあわぉぉぎやわぉ」
マユミを押さえつけていたうめ子の左手が離れた。その機を逃さず、マユミはうめ子の鼻っ柱にもう一度、正拳突きをお見舞いした。うめ子は絶叫したまま、背中から転がった。マユミはうめ子から離れ、立ち上がった。
うめ子の右手の人差し指と中指は、下品なエロ本のモデルのように大きく広がっていた。どれほど痛いかは、うめ子の絶叫が物語っている。追い討ちをかけるならいまだったが、マユミはやらなかった。もう勝負はついたし、なによりマユミは疲れ果てていた。
「やりましたね、マユミさん」肩で息をしているマユミに、背後からプリクラが声をかけてきた。
「なんとか……」ふり返ってプリクラにかすかな笑顔を見せた。
七人がかりで次から次へと闘って勝てなかった相手に自分は勝てた。マユミはその喜びと興奮で頭がいっぱいになった。
最後の最後は、実力というよりは運による勝利だったが、マユミは気にしなかった。昔から言うではないか。運も実力のうちだ。運のない者にテッペンなど獲れるわけがない。自分は運を持っている。
うめ子にやられたサキコ、ナツミ、トモミ、ハルカがこちらを見て、何度もうなずいていた。マユミが力強く握った拳を掲げると、ハルカが駆け寄り、マユミに抱きついた。
アキチャ、ウナギ、ムクチの、チームホルモンのメンバーたちも、マユミに友としての視線を送っていた。それぞれの気持ちがどうであれ、マユミは純情堕天使だけでなく、チームホルモンの仇もとったことになる。この地下室に入る前まで、マユミは元チームホルモンのメンバーたちになじめなかった。だが今は、同じ相手と闘った者同士にしかわからない連帯感を、マユミはたしかに感じていた。
「感動的なクライマックスだけどよ――まだ終わってねえぜ」バンジーがマユミの前に出た。
そう、まだだった。まだ、まいぷるが残っている。
「――やるね、あんた……」そのまいぷるはゆっくりと歩いてきて、泣きじゃくっているうめ子をかばうように前に出た。「でも、今日はおしまいにしようかな」
「勝手なことほざきやがって……」バンジーは鼻で笑った。「てめえだけ無傷で帰るつもりか? あたしは今日、不完全燃焼でうずうずしてんだよ」
「やってもいいけど、そっちで闘えるの、あんたとプリクラさんだけだよね?」焼き鳥の串をくわえたままのまいぷるは、それを上下に動かした。「たぶん、あんたら負けるよ」
ふざけた口調でも、まいぷるの目にはいくさ人の光が宿っているのを、マユミは見逃さなかった。この女、たしかに只者ではない。マユミにわかるのだから、プリクラもわかっているはずだ。
「んなことは、やってみなけりゃわかんねえ」
「しょうがないなあ……」まいぷるは咥えていた串を手で取ると、それを右手の指のあいだに入れた。指先がピアノの鍵盤を叩くようにリズミカルに動いた。串は瞬く間にその指のあいだを出たり入ったり伸びたり縮んだり回転したりした。それはまるで、小さなバトントワリングのようだった。「本当の力、ここでは出せないけど、そんなの使わなくても普通に強いよ、私」
「バンジーさん」プリクラがバンジーの肩に手を置いた。「今日はこのくらいにしておきましょう」
「今のにビビったのか。情けねえんだな、純情堕天使ってのは……」
「あなたも今は純情堕天使の一員で、リーダーは私です」プリクラはきっぱりと言った。「うめ子さんを倒すのに、こちらは八人を使いました。マユミも闘う気力はあっても、もう体力は残っていません。私たち二人で、まいふるさんを倒せますか?」
「そんなことはわからねえ。けど……」
「今日で何もかもが終わるわけじゃありません」
「そうだよ、バンジー」まいぷるが茶化した。「うめ子、かなり痛がっているからさ。早く病院連れて行きたいんだよね」
うめ子は泣いていた。涙も鼻水もぬぐわず、人目も気にせず、わんわんと駄々をこねる子供のように泣いていた。あれほどの強さを見せたうめ子の豹変ぶりに、マユミはより不気味さを感じた。
「猪突猛進が勇敢ってわけじゃありません」
バンジーはプリクラを見つめ、ふっと笑った。「ヲタに似てるな、あんた」
「ご冗談を」プリクラは笑顔を見せた。「あんなヘタレと一緒にしないでください」
「まあ、今回はあんたの顔を立てるよ」バンジーはまいぷるに向き直った。「命拾いしたな、あんた」
「ありがとう」まいぷるは笑顔を作った。
マユミはその余裕に苛立ったが、リーダーのプリクラがやらないと言っているのだから、勝手な真似をするわけにはいかなかった。しかし、この女、いつか絶対にシメてやる。マユミは自分自身に誓った。
「では、行きましょう」プリクラが号令をかけた。
マユミは渋々、それにしたがうことにした。まいぷるの、「本当の力」というのがどんなものなのかは気になったが、今はリーダーの命令にしたがうときだった。
純情堕天使のメンバーたちがぞろぞろと地上への階段を昇っていくあいだ、マユミはバンジーと最後まで地下室にいた。こちらを油断させる、まいぷるの作戦という可能性もあるからだ。
やがて自分たち二人だけになり、マユミも階段へ向かった。
最後にまいぷるを見ると、そこには笑顔の美少女がいた。
【つづく】