■懇願―3■
六つの影は少しずつ近づいてきて、サドと前田を半円状に取り囲もうとしていた。全員、青いブレザーにプリーツスカートを着ている。アリジョの制服姿だった。
照明に六人が照らされていくにつれ、サドはその一団の異様さに息を呑んだ。
中央に立つ女の手には金属製の鎖がにぎられており、それが背後の五人へ一本ずつつながっていた。鎖の先端はそれぞれの首輪から伸びていて、鵜飼の鵜を連想させた。異様なのはそれだけではない。五人の両手は背後で拘束されているらしく、後ろに回されたままだった。また、両足首にも鎖が張られており、歩くにはかなり狭い歩幅でなければならなかった。五人の動きのぎこちなさには、ゾンビを思わせる不気味さがあった。
サドは自分と前田の正面に立つ、ひとりだけ拘束されていない女を見た。身長はサドより少し低いくらいで、セミロングの髪を体の前に垂らしている。どことなく日本人離れした雰囲気で、ある種の妖艶さを醸し出していた。
ついに自分の番か――。サドは自分がアリジョに狙われる可能性を考えてはいたが、こんなタイミングで来るとは思わなかった。
――勝てるのか、私は……。
一瞬で、口の中が渇いた。唾液を飲み込んだ。冷や汗が背中を伝う。それにしても、どうして自分たちがここにいることがわかったのだろう……。サドは疑問に思ったが、いまはそのことはどうでもよかった。まずは、闘いに勝つことだけを考えればいい。
ラッパッパの、いや、マジジョのテッペンに立つ身としての気概はある。しかし、サドの冷静な部分は警告を発していた。これまでの戦績を鑑みれば、決して油断ならない相手だ、と。事実、女たちが放つ強烈な敵意は、これまでサドが経験したことのないものだった。それにしても、リーダーらしき女はともかく、鎖でつながれ、両手両足をみずから封じている後ろの五人はどうやって闘うというのか……。
「馬路須加女学園の前田敦子さんと、サドさん……かな?」中央の女が立ち止まった。鎖が、じゃらりと音を立てた。
「だれだ、てめえは?」
「亜理絵根の番を張らせてもらってるフォンチーです。よろしくね」
「フォンチー……?」
「そ。フォンチー」フォンチーは微笑んだ。「日本生まれのベトナム人なんですよ」
「フォンチーか。よぉく覚えておいてやるよ。てめえら、うちの生徒をかわいがってくれてるらしいが、今日は私たちの相手をしてくれるのか、たったこれだけの人数で? 私も見くびられたもんだな」
「いえ。後ろの連中は――単なるお供です。だから余計な手出しをしないよう、拘束してあるでしょ。左から、るか、ゆうな、まなみん、かおるん、オジーって名前。で、今日はあいさつだけしようと思って……」
「あいさつ?」
「今週末、そちらの学校にお邪魔するんで、顔合わせしといたほうがいいかなぁ……って」フォンチーはサドと前田を交互に見た。「あなたがラッパッパのサドさん。で、こちらが前田敦子さんだよね?」
「おい、てめえ……」
「てめえじゃなくてフォンチー。もう忘れちゃったかな? ところで前田さん」フォンチーは今度は前田に話しかけ、軽く頭を下げた。「金曜日はよろしくお願いね。お手合わせできるの、楽しみにしてるから」
「私には……」顔を伏せていた前田が小さくつぶやいた。「――私には、関係ありませんから……」
「え、お休みなの? それは残念。だったら、前田さんとは、いまここで勝負つけよっかな……」
フォンチーは言い終わるが早いか、横向きの前田の顔面に向けて右ストレートを放った。にぎっていた鎖が地面に落ち、派手な金属音を立てた。
前田の反応はさすがに早かった。右側から襲いかかるフォンチーの拳を、左手で顔を防御しつつ捕らえたのだ。フォンチーのパンチはまったく遅くなかった。いや、むしろサドのそれよりも早かった。なのに、前田は易々と、あたかもだれにでもできるかのごとくやってのけた。さすがは私にタイマンで勝っただけのことはある。サドは満足そうに笑みを浮かべた。
「あーあ……。不意打ちのつもりだったんだけど、やっぱりこれじゃあ無理か――なーんてね……っ」
フォンチーは右手を前田に捕らわれたまま、今度は左フックを前田の背中に叩き込もうとした。あの位置からでは前田の視界の死角になっているはずだ。
「前田、背中だっ」サドは叫んだ。
前田はサドの言葉の前に反応していた。左手でつかんでいる右手を外側にねじり、フォンチーの態勢を崩した。フォンチーの左フックは勢いをなくし、なにもない空間を弱弱しく通過しただけだった。仮に当たったとしても、なんの効果もなかっただろう。フォンチーは右ひじをかばいながら腰を落として地面に転がった。
前田はすかさず、フォンチーを踏みつけようとした。ローファーの底がすさまじいスピードで仰向けのフォンチーの顔面に迫る。プロレスでいうところの、ストンピングという技だ。フォンチーの「お供」たちのあいだに、ざわっという声にならない叫びがあがった。
まともに食らえば、鼻の骨が砕けることはまちがいない。
――が、前田は脚を止めた。
フォンチーの鼻柱の数センチ手前で。
前田はゆっくりと眼鏡を外し、歯を食いしばったようなくぐもった声で静かに言った。
「――やらねえったらやらねえんだ。私にちょっかい出すんじゃねえ……」
だが、前田を見上げたフォンチーは、人を食った態度のままだった。「ふふっ……いい眺め……。清楚っぽい子って、やっぱり下着は白なんだね」
これには前田もかちんと来たようだった。せっかく止めた脚を上げた。今度こそフォンチーの鼻柱を砕くつもりらしい。前田を怒らせた報いだ。サドは一片の同情も感じなかった。
前田の脚が、思いっきり下ろされる。
だが、その脚は途中で止められた。
フォンチーが両手を伸ばし、前田のローファーをつかんだのだ。
サドは驚いた。前田のあの蹴りを途中で止めるとは並大抵の力ではない。しかも、あの不利な態勢から……。
――ひょっとすると、こいつは……。
サドは前田を援護できるよう、その横へと駆けた。
前田の顔を覗きこむ。瞳が驚いていた。
「前田さん、ちょっとどかしてもらっていいかな、この脚。でないと……」フォンチーは屈託のない笑顔を見せた。「――折るよ」
前田はなにかを察知したのか、すぐにフォンチーの忠告にしたがった。脚を後ろに下げると、フォンチーは手を離した。
「ああ、痛かった……」フォンチーはブレザーとブリーツスカートをはたきながら起き上がった。「あれだけの力でひねられたのは初めて。すごく痛くてよかったよ、前田さん。もう一回、やってもらっていい?」
フォンチーは右手を差し出した。手首から先はだらりとだらしなく下げられている。
本気なのか。それとも罠なのか。
「――前田、やめておけ」
罠ではない、とサドの直感は告げている。だが、気持ちが悪かった。これまでたくさんのヤンキーどもとケンカをしてきたが、こんなに狂ったやつを相手にしたことはない。
前田は黙ったままだが、その目はあきらかにフォンチーの誘いを拒絶している。
「ダメ? なあんだ、つまんないの」フォンチーは右手を下ろした。「でもいいや。金曜日にまたやるよね? だって、いまのは前田さんの負けだから。マジジョ最強の女が、負けたままでいられるわけないよね?」
敵ではあるが、フォンチーのこの言葉は、サドにとっては渡りに船だった。これで前田がやる気になってくれれば、サドの当初の目的は達成されたことになる。
うなずけ。うんと言え。悔しいだろう。死んだダチとの約束であっても、ここまで小馬鹿にされては黙っていられないはず。おまえの本性はヤンキーだ。マジになんてなれねえ。
サドは前田を見つめた。
「私は……やりません……」
前田は静かに言いながら、眼鏡をかけた。
やはりダメだったか……。ここまでやられても意思を曲げないのなら、もうだれも前田を説得することはできない。サドは落胆した。
「ふうん……。意外とショボいね、前田さん」フォンチーは後ろを向いた。「んじゃ、帰るよ。ごめんね、みんな。せっかく来たのに、痛い思いをしたの、あたしだけで……」
「しょうがないっすよ」オジーが口を開いた。「でも、ここに来るまでこの姿勢で、あたしたちも充分痛かったから、それでもう、ありがぴょんですよ」
「オジーはかわいいね。あとでたっぷり痛くしてあげる」フォンチーは地面に落ちている鎖の束を持ち上げた。そしてサドたちに振り返ると手を挙げた。「それじゃあ、またね」
「ちょっと待て、こら――」サドはさっきから気になっていたことを聞くために呼び止めた。「てめえ、どうしてここがわかった?」
「ちょっと尾けさせてもらっただけ。大島さんが入院している病院の前で張ってたら、警戒心ゼロのあなたたち二人が……」
大島という単語を聞いた瞬間、サドはフォンチーに向かって駆け出した。三秒後、サドはフォンチーのブレザーの胸倉をつかんでいた。
「てめえっ、なんで優子さんのことを知ってるっ」
サドの絶叫に近い声の大きさでも、フォンチーはまったく動じない様子で、「そりゃあ、知ってるよ。マジジョといえばラッパッパ。ラッパッパといえば大島優子さんでしょ」
「んなことは聞いてねえ。どうしてあの病院にいると知ってるんだっ?」サドは怒りと恐怖で頭が破裂するのではないかとさえ思った。右手に力が入った。そのままブレザーを引きちぎってやりたかった。前田にさえ「勝った」フォンチーに、自分が勝てるとは思わない。だが、事と次第によってはただではすまない。
リーダーの危機にあわてたのか、フォンチーの後ろにいた五人の鎖ががちゃがちゃと鳴った。しかし、拘束された体では思うように動けないらしく、さっきからやたらにまばたきをしていたかおるんが、顔面から砂だらけの地面に倒れた。
フォンチーは背後の様子などおかまいなしといった口調で、「あたしもいろいろ調べさせてもらったし」
「いいか。これから私が言うことをよく覚えておけ」サドはブレザーを手繰り寄せるようにして、フォンチーと額がくっつきそうなくらいまで顔を近づけた。「優子さんに手を出したら、どんな汚い手を使ってでもてめえを捕まえる。そして人間が感じるすべての痛みを味あわせてから、てめえを殺す。いいか、これは比喩じゃねえ。本当に殺す。必ずだ。わかったか?」
「わかったもなにも、最初から大島さんに手を出すつもりはないよ。病人とケンカして勝ったところで、面白くないし」フォンチーはまったく動揺していないらしく、平然と言った。「ま、すべての痛みを味あわせてくれるってのは……面白そうだけどね」
「そいつはけっこうだ。いまの私の言葉を忘れるなよ。私はやると言ったことは必ずやる」サドは投げ捨てるように、ブレザーの襟から手を離した。
だが、念には念を入れる必要がある。今夜から、アンダーのメンバーたちを二十四時間態勢で見張りに就かせよう。優子に見つからないようにするのは難しいかもしれないが、万が一のことがあってはいけない。
フォンチーは皺になった襟を直しながら歩き出した。「怖いなあ、サドさん。ビビったよ……」
サドはそれが嘘だということはわかっていた。悔しいが、この女の肝がすわっていることは認めざるをえない。
六人は再び、闇の中へと消えた。
サドは前田に言いたかった。あいつらは強い。自分たちだけでは手に負えないかもしれない。やっぱり前田、おまえの力が必要なんだ――と。
なにか言いたそうにしているサドの様子に気づいたのか、前田はこちらを見ている。
しかしサドは堪えた。
前田はあきらめるべきだ。一度終わった話を蒸し返すのはいやだった。
やがて、サドの気持ちが通じたのか、前田が口を開いた。「――さようなら」
「ああ。じゃあな」
サドにできることは、そう言って前田を見送ることだけだった。
【つづく】
六つの影は少しずつ近づいてきて、サドと前田を半円状に取り囲もうとしていた。全員、青いブレザーにプリーツスカートを着ている。アリジョの制服姿だった。
照明に六人が照らされていくにつれ、サドはその一団の異様さに息を呑んだ。
中央に立つ女の手には金属製の鎖がにぎられており、それが背後の五人へ一本ずつつながっていた。鎖の先端はそれぞれの首輪から伸びていて、鵜飼の鵜を連想させた。異様なのはそれだけではない。五人の両手は背後で拘束されているらしく、後ろに回されたままだった。また、両足首にも鎖が張られており、歩くにはかなり狭い歩幅でなければならなかった。五人の動きのぎこちなさには、ゾンビを思わせる不気味さがあった。
サドは自分と前田の正面に立つ、ひとりだけ拘束されていない女を見た。身長はサドより少し低いくらいで、セミロングの髪を体の前に垂らしている。どことなく日本人離れした雰囲気で、ある種の妖艶さを醸し出していた。
ついに自分の番か――。サドは自分がアリジョに狙われる可能性を考えてはいたが、こんなタイミングで来るとは思わなかった。
――勝てるのか、私は……。
一瞬で、口の中が渇いた。唾液を飲み込んだ。冷や汗が背中を伝う。それにしても、どうして自分たちがここにいることがわかったのだろう……。サドは疑問に思ったが、いまはそのことはどうでもよかった。まずは、闘いに勝つことだけを考えればいい。
ラッパッパの、いや、マジジョのテッペンに立つ身としての気概はある。しかし、サドの冷静な部分は警告を発していた。これまでの戦績を鑑みれば、決して油断ならない相手だ、と。事実、女たちが放つ強烈な敵意は、これまでサドが経験したことのないものだった。それにしても、リーダーらしき女はともかく、鎖でつながれ、両手両足をみずから封じている後ろの五人はどうやって闘うというのか……。
「馬路須加女学園の前田敦子さんと、サドさん……かな?」中央の女が立ち止まった。鎖が、じゃらりと音を立てた。
「だれだ、てめえは?」
「亜理絵根の番を張らせてもらってるフォンチーです。よろしくね」
「フォンチー……?」
「そ。フォンチー」フォンチーは微笑んだ。「日本生まれのベトナム人なんですよ」
「フォンチーか。よぉく覚えておいてやるよ。てめえら、うちの生徒をかわいがってくれてるらしいが、今日は私たちの相手をしてくれるのか、たったこれだけの人数で? 私も見くびられたもんだな」
「いえ。後ろの連中は――単なるお供です。だから余計な手出しをしないよう、拘束してあるでしょ。左から、るか、ゆうな、まなみん、かおるん、オジーって名前。で、今日はあいさつだけしようと思って……」
「あいさつ?」
「今週末、そちらの学校にお邪魔するんで、顔合わせしといたほうがいいかなぁ……って」フォンチーはサドと前田を交互に見た。「あなたがラッパッパのサドさん。で、こちらが前田敦子さんだよね?」
「おい、てめえ……」
「てめえじゃなくてフォンチー。もう忘れちゃったかな? ところで前田さん」フォンチーは今度は前田に話しかけ、軽く頭を下げた。「金曜日はよろしくお願いね。お手合わせできるの、楽しみにしてるから」
「私には……」顔を伏せていた前田が小さくつぶやいた。「――私には、関係ありませんから……」
「え、お休みなの? それは残念。だったら、前田さんとは、いまここで勝負つけよっかな……」
フォンチーは言い終わるが早いか、横向きの前田の顔面に向けて右ストレートを放った。にぎっていた鎖が地面に落ち、派手な金属音を立てた。
前田の反応はさすがに早かった。右側から襲いかかるフォンチーの拳を、左手で顔を防御しつつ捕らえたのだ。フォンチーのパンチはまったく遅くなかった。いや、むしろサドのそれよりも早かった。なのに、前田は易々と、あたかもだれにでもできるかのごとくやってのけた。さすがは私にタイマンで勝っただけのことはある。サドは満足そうに笑みを浮かべた。
「あーあ……。不意打ちのつもりだったんだけど、やっぱりこれじゃあ無理か――なーんてね……っ」
フォンチーは右手を前田に捕らわれたまま、今度は左フックを前田の背中に叩き込もうとした。あの位置からでは前田の視界の死角になっているはずだ。
「前田、背中だっ」サドは叫んだ。
前田はサドの言葉の前に反応していた。左手でつかんでいる右手を外側にねじり、フォンチーの態勢を崩した。フォンチーの左フックは勢いをなくし、なにもない空間を弱弱しく通過しただけだった。仮に当たったとしても、なんの効果もなかっただろう。フォンチーは右ひじをかばいながら腰を落として地面に転がった。
前田はすかさず、フォンチーを踏みつけようとした。ローファーの底がすさまじいスピードで仰向けのフォンチーの顔面に迫る。プロレスでいうところの、ストンピングという技だ。フォンチーの「お供」たちのあいだに、ざわっという声にならない叫びがあがった。
まともに食らえば、鼻の骨が砕けることはまちがいない。
――が、前田は脚を止めた。
フォンチーの鼻柱の数センチ手前で。
前田はゆっくりと眼鏡を外し、歯を食いしばったようなくぐもった声で静かに言った。
「――やらねえったらやらねえんだ。私にちょっかい出すんじゃねえ……」
だが、前田を見上げたフォンチーは、人を食った態度のままだった。「ふふっ……いい眺め……。清楚っぽい子って、やっぱり下着は白なんだね」
これには前田もかちんと来たようだった。せっかく止めた脚を上げた。今度こそフォンチーの鼻柱を砕くつもりらしい。前田を怒らせた報いだ。サドは一片の同情も感じなかった。
前田の脚が、思いっきり下ろされる。
だが、その脚は途中で止められた。
フォンチーが両手を伸ばし、前田のローファーをつかんだのだ。
サドは驚いた。前田のあの蹴りを途中で止めるとは並大抵の力ではない。しかも、あの不利な態勢から……。
――ひょっとすると、こいつは……。
サドは前田を援護できるよう、その横へと駆けた。
前田の顔を覗きこむ。瞳が驚いていた。
「前田さん、ちょっとどかしてもらっていいかな、この脚。でないと……」フォンチーは屈託のない笑顔を見せた。「――折るよ」
前田はなにかを察知したのか、すぐにフォンチーの忠告にしたがった。脚を後ろに下げると、フォンチーは手を離した。
「ああ、痛かった……」フォンチーはブレザーとブリーツスカートをはたきながら起き上がった。「あれだけの力でひねられたのは初めて。すごく痛くてよかったよ、前田さん。もう一回、やってもらっていい?」
フォンチーは右手を差し出した。手首から先はだらりとだらしなく下げられている。
本気なのか。それとも罠なのか。
「――前田、やめておけ」
罠ではない、とサドの直感は告げている。だが、気持ちが悪かった。これまでたくさんのヤンキーどもとケンカをしてきたが、こんなに狂ったやつを相手にしたことはない。
前田は黙ったままだが、その目はあきらかにフォンチーの誘いを拒絶している。
「ダメ? なあんだ、つまんないの」フォンチーは右手を下ろした。「でもいいや。金曜日にまたやるよね? だって、いまのは前田さんの負けだから。マジジョ最強の女が、負けたままでいられるわけないよね?」
敵ではあるが、フォンチーのこの言葉は、サドにとっては渡りに船だった。これで前田がやる気になってくれれば、サドの当初の目的は達成されたことになる。
うなずけ。うんと言え。悔しいだろう。死んだダチとの約束であっても、ここまで小馬鹿にされては黙っていられないはず。おまえの本性はヤンキーだ。マジになんてなれねえ。
サドは前田を見つめた。
「私は……やりません……」
前田は静かに言いながら、眼鏡をかけた。
やはりダメだったか……。ここまでやられても意思を曲げないのなら、もうだれも前田を説得することはできない。サドは落胆した。
「ふうん……。意外とショボいね、前田さん」フォンチーは後ろを向いた。「んじゃ、帰るよ。ごめんね、みんな。せっかく来たのに、痛い思いをしたの、あたしだけで……」
「しょうがないっすよ」オジーが口を開いた。「でも、ここに来るまでこの姿勢で、あたしたちも充分痛かったから、それでもう、ありがぴょんですよ」
「オジーはかわいいね。あとでたっぷり痛くしてあげる」フォンチーは地面に落ちている鎖の束を持ち上げた。そしてサドたちに振り返ると手を挙げた。「それじゃあ、またね」
「ちょっと待て、こら――」サドはさっきから気になっていたことを聞くために呼び止めた。「てめえ、どうしてここがわかった?」
「ちょっと尾けさせてもらっただけ。大島さんが入院している病院の前で張ってたら、警戒心ゼロのあなたたち二人が……」
大島という単語を聞いた瞬間、サドはフォンチーに向かって駆け出した。三秒後、サドはフォンチーのブレザーの胸倉をつかんでいた。
「てめえっ、なんで優子さんのことを知ってるっ」
サドの絶叫に近い声の大きさでも、フォンチーはまったく動じない様子で、「そりゃあ、知ってるよ。マジジョといえばラッパッパ。ラッパッパといえば大島優子さんでしょ」
「んなことは聞いてねえ。どうしてあの病院にいると知ってるんだっ?」サドは怒りと恐怖で頭が破裂するのではないかとさえ思った。右手に力が入った。そのままブレザーを引きちぎってやりたかった。前田にさえ「勝った」フォンチーに、自分が勝てるとは思わない。だが、事と次第によってはただではすまない。
リーダーの危機にあわてたのか、フォンチーの後ろにいた五人の鎖ががちゃがちゃと鳴った。しかし、拘束された体では思うように動けないらしく、さっきからやたらにまばたきをしていたかおるんが、顔面から砂だらけの地面に倒れた。
フォンチーは背後の様子などおかまいなしといった口調で、「あたしもいろいろ調べさせてもらったし」
「いいか。これから私が言うことをよく覚えておけ」サドはブレザーを手繰り寄せるようにして、フォンチーと額がくっつきそうなくらいまで顔を近づけた。「優子さんに手を出したら、どんな汚い手を使ってでもてめえを捕まえる。そして人間が感じるすべての痛みを味あわせてから、てめえを殺す。いいか、これは比喩じゃねえ。本当に殺す。必ずだ。わかったか?」
「わかったもなにも、最初から大島さんに手を出すつもりはないよ。病人とケンカして勝ったところで、面白くないし」フォンチーはまったく動揺していないらしく、平然と言った。「ま、すべての痛みを味あわせてくれるってのは……面白そうだけどね」
「そいつはけっこうだ。いまの私の言葉を忘れるなよ。私はやると言ったことは必ずやる」サドは投げ捨てるように、ブレザーの襟から手を離した。
だが、念には念を入れる必要がある。今夜から、アンダーのメンバーたちを二十四時間態勢で見張りに就かせよう。優子に見つからないようにするのは難しいかもしれないが、万が一のことがあってはいけない。
フォンチーは皺になった襟を直しながら歩き出した。「怖いなあ、サドさん。ビビったよ……」
サドはそれが嘘だということはわかっていた。悔しいが、この女の肝がすわっていることは認めざるをえない。
六人は再び、闇の中へと消えた。
サドは前田に言いたかった。あいつらは強い。自分たちだけでは手に負えないかもしれない。やっぱり前田、おまえの力が必要なんだ――と。
なにか言いたそうにしているサドの様子に気づいたのか、前田はこちらを見ている。
しかしサドは堪えた。
前田はあきらめるべきだ。一度終わった話を蒸し返すのはいやだった。
やがて、サドの気持ちが通じたのか、前田が口を開いた。「――さようなら」
「ああ。じゃあな」
サドにできることは、そう言って前田を見送ることだけだった。
【つづく】